第12話 本当の強さ①


「ごめんな、もう出るな」

まだ皆が寝ている時間。

則正さんは薄暗い中、仕事へと出かけていく。

「いってらっしゃい」

大きな背中を見送る。

ここ最近、とにかく忙しくなったらしい則正さんは、朝ごはんも食べずに仕事場へと向かうことが増えていた。


もともと真面目な人だ。

準備は怠らないし、仕事も丁寧なのだと川上さんも言っていた。

それでも職場は相変わらず則正さんにとって辛い場所で、いじめに近いような仕打ちが続いていることも知っている。

そんな仕事辞めてしまえばいいのに、と腹立たしく思うけれど、働くことどころか外の世界にすら出られない僕の口からはそんなこと言えなくて。

気の利いた言葉一つ掛けられず、ただ無事を祈って送り出すことしかできない日が続いていた。


せめてごはんくらいは食べてほしいと思うから、僕はお昼のお弁当と一緒に小さなおにぎりを二つ握って入れている。

「少しでも時間あったら食べてくださいね」

「ありがとう、助かるよ」

微笑んで受け取ってくれる則正さんの顔には疲労が刻まれていた。

夜だって遅いのだ。皆が寝ようかとするくらいの時間帯に、疲れた顔して帰ってくる。それでも僕たちの前では、笑顔を絶やすようなことはしない。

一言でも「疲れた」とか「もうしんどい」とか、弱音を吐いてくれてもいいのに。

則正さんが何も言わないから、僕たちは何も言えない。

休ませてあげることも、ねぎらうことも、何もかもがうまくいかないのだ。


僕に何ができるだろう。

毎日毎日考えるけれど答えは出なくて。

でもそれは僕に限らず、皆同じようなことを思っているようだった。

「今日も則正さん、早く出ていったのか?」

朝食の席で祐介くんが尋ねる。

「はい。6時半くらいに」

「大丈夫なのかな、体調とか」

「最近、なんか顔が疲れてるよな」

皆がみんな、なんとかしてあげたいと思っているのにどうしようもなくて、食事の場も気分が沈みがちになる。

「そんな会社、辞めちゃえばいいのに」

あっさりとヒオは言う。

それは皆の総意ではあるけれど、どうしたって則正さん本人には言えない言葉だ。

さすがのヒオもそれは十分分かっているようで、則正さんのいないこういう時間にだけ本心をさらけ出す。

何と言っていいのか分からない空気の中で、

「ほんとにな…」

ため息を吐き出すかのように幸也さんが同意した。


「あいつの耳さえなぁ…」

以前、軽く酔っていたときに言っていた川上さんの言葉。

則正さんは、右耳が聴こえない。

昔、両親に投げ飛ばされたときに負ったケガが原因で、片耳の聴力を失ったのだ。

そんなハンデもものともせず、則正さんはしっかりした大人に成長した。

それなのに、その耳のせいで、採用してくれる職場が限られてしまうのが現実なのだそうだ。

「他を探せよ、とは言ってるんだけど。面接でまた耳の話をあいつがしなければならないと思うとなあ。転職させるのも辛いんだよなぁ」

川上さんが、苦虫を嚙み潰したような顔で言っていたのが忘れられない。


「こっち側から話しかけてくれれば大丈夫だからな」

僕が初めて会ったとき、則正さんは笑いながら左を指さして言った。

「右の耳が聞こえない以外は何の問題もないんだ」

ニコニコと、耳のことについて語る則正さん。

きっとこれまで、耳のことで辛いこともあっただろうに、則正さんはそんなこと一言も言わない。

その強さに、何度僕たちは守られてきただろう。

その優しさに、何度僕たちは救われてきただろう。

今日もまた急いで出ていった則正さんの背中を思い出して、僕はなんだか泣きたくなった。


則正さんが少しでも楽になるように、僕たちが出来ることを探さなければならない。

「とにかくオレたちは、自分たちのことをしっかりやりましょうか」

気持ちを切り替えるように幸也さんは言う。

そうなのだ。何をどう考えたところで結局いつもの結論に落ち着く。

自分のできることを、しっかりと。

この結論が、今日はなぜかひどく哀しく感じた。




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