第2話 長男の背中
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
そんな挨拶を4回繰り返し、僕だけがこの家に残された。
皆が出ていったあと、賑やかだったこの家も急に静かになる。
聞こえるのは僕の食器を洗う音だけ。
則正さんが厳しくみんなに指導してくれているおかげで、食べ終わった食器は流し台に持ってくるか、まとめてカウンターの上に置いてくれているから、食器洗いの作業も楽になった。
いつもキレイに水に浸けてくれるのは、則正さんと幸也さん。乱暴にカウンターの上に置くたけ置いているのは当然のようにヒオ。祐介くんはその日によってまちまちで、今日は時間に余裕があったのだろう、きちんと水に浸けられていた。
きゅっ、きゅっとスポンジが音を立てる。キレイな白いお皿、色違いのマグカップ、どれもこれも、僕の大切なものだ。丁寧に汚れを落として、お湯で流す。
初めて食器洗いをしたときは、お湯を使うことも知らずに真冬に冷たい水で洗ったから、手を真っ赤にしてしまった。
それに気づいた幸也さんが温かい手でそっと包んでくれて、祐介くんがしっとりしたクリームをつけてくれて。
「ごめんな、ここ押したらお湯が出るって教えるの忘れてた。これから使ったらいいからな」
と、則正さんは頭を撫でてくれた。
それがなんだかとてもあたたかくて嬉しくて、ぐずぐず泣いてしまったら、小学生みたいにヒオが囃し立ててきて則正さんに叱られていたことを今でもよく覚えている。
それは僕がこの家に来たばかりの、約2年前のこと。
もう2年なのかまだ2年なのか、感覚がよく分からないけれど、確かに分かっているのは、幸せな2年だった、ということだ。
「無理しなくていいんだぞ」
いつも則正さんは言ってくれる。
家事を頑張りたい、と決意して、日々料理や掃除、洗濯などに奮闘している僕のことが心配でならないらしい。
それでも、任せるところはしっかり任せてくれて、遠くから見守ってくれているのが分かるから、もっと頑張ろう、と思えるのだ。
そんな則正さんも、外の世界では大変な思いをしているということを僕たちは知っている。
工場で商品の検品の仕事をしている則正さんは、いつも仕事が始まるずいぶん前に職場へ向かい、用意をしっかりして業務に臨んでいる。
基本が真面目な人なのだ。
僕たちの世話もしっかりやって、仕事も手を抜かなくて。
それなのになぜか則正さんは職場で辛く当たられているらしい。
能力は誰に劣ることもないのに、育ってきた環境や現在の住まいなどをバカにしては仕事を押し付け、その内容にもケチをつけてくるようだ。
もちろん、そんなことを僕たちに言う人ではない。
僕たちの世話をしてくれている、川上さんがぽろっとこぼしてしまったのを敏感に拾い上げてしまったのだ。
親がいないのは、則正さんのせいじゃない。
則正さんは、親がいないという状況の中で必死に生きてきただけだ。
それなのに。
仕事から帰ってきて、自分の部屋でこっそり泣いているのを知っている。
ごはんのときは、そんな様子微塵も見せはしないけれど、きっと皆気づいている。
それでも僕たちの前ではツラさを見せない則正さんの強さが、僕には憧れで、大好きで、もっと頼ってほしいなあ、と寂しくなるのだ。
いつか僕も、則正さんのツラさを少しだけでも背負えるようになりたい。
せめて家事を頑張りたいと思うのは、その願いを叶えるための第一歩だ。
自分の役割をきちんと果たしてからでないと、あのしっかり者の長男は、きっと弱味を見せてくれないと思うから。
みんなのお兄ちゃんで、人一倍気配り屋で、仕事も目一杯頑張っている則正さんに、今度お弁当を作ってあげたいと思っているのは、僕だけの秘密だ。
絶対に元気が出るお弁当を研究して作り上げる。それが今の僕の一番の夢なのかもしれない。
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