2章最終話、ヒロインが焼いたクッキーは、悪役令嬢により投げ捨てられ……なかった。

「おばさん、上手にできました! 調理場貸してくれてありがとうございました!」

 アトラは籠を手にし、寮の管理を勤めている老婦人に礼を言う。籠の中には布に包まれたクッキーが入っている。

 このクッキーは、今まさにアトラが焼いたものだ。

「そうかいそうかい、それはよかったねぇ」

 人の好さそうな老婦人は、アトラに笑顔を向ける。

「私、早速渡してきます!」

 礼も早々に、急いで寮を出ていくアトラ。

「気を付けるんだよ」

 老婦人は、それを笑顔で見送った。


(どうやってヴィライナ様に召し上がっていただこう……、「たくさん作りすぎたから、皆さんに食べてほしくて」、うん、そう伝えよう!)

 アトラは探し人を求め、籠を手に学園内を駆けた。




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ヴィライナ・プラマ・チャンドラ

「あら、こんなところで何をしていらっしゃるのかしら?」


 ヴィライナは複数の令嬢を連れ、アトラの前に立ちはだかる。


アトラ

「あ、ヴィライナ様……、いえ、私は……」


ヴィライナ・プラマ・チャンドラ

「わたくし、あなたにどうしてもお伝えしておきたいことがありましたの」


ヴィライナ・プラマ・チャンドラ

「あなた、その貧相ななりで殿下に近寄るのはおやめなさい。その上、わたくしという婚約者が居るにも関わらず、殿下に色目を使って……」


アトラ

「あ、いえ、レクスさんとはただの友達で……」


ヴィライナ・プラマ・チャンドラ

「無礼な! 殿下をそのような呼び方! 不敬ですわ!!」


アトラ

「ご、ごめんなさい……」


ヴィライナ・プラマ・チャンドラ

「ふん! ところであなた、それは何をお持ちなのかしら?」


 ヴィライナは手に持つ扇子でアトラの籠を指し示す。


アトラ

「あ、これは、クッキーを焼いたので、お持ちしたんです──」


ヴィライナ・プラマ・チャンドラ

「まぁ嫌だわっ! まさか殿下にそのような貧乏くさい物をお出しするつもりなのかしら!?」


アトラ

「っ」


 ヴィライナの言葉に、身をこわばらせるアトラ。


レクスリー・オーム・アディテア

「何をしている!」


 真っ赤な髪をなびかせて、レクスリーが現れた。


レクスリー・オーム・アディテア

「アトラが絡まれていると聞いたが、やはりお前か!」


ヴィライナ・プラマ・チャンドラ

「で、殿下、これは違うのです」


レクスリー・オーム・アディテア

「言い訳無用! この場はオレが預かる。お前は下がれ!」


 アトラを憎々し気に睨みつけるヴィライナ。


ヴィライナ・プラマ・チャンドラ

「失礼いたします……。行きますわよ!」


 取り巻きの令嬢を連れ、ヴィライナは足早に去っていった。


レクスリー・オーム・アディテア

「大丈夫だったかアトラ。お、これはクッキーか、一つ貰っても良いかな?」


アトラ

「あ、でも……」


レクスリー・オーム・アディテア

「なに、気にすることはない。……、おお、うまいな」


==========================================



「っていう、クッキーイベントがあるんで、見学しに良くっすよ」

 ピラットが唐突に現れ、何やら一人芝居を延々と続けたかと思えば、そんなことを言い出した。

「今の長ったらしい小芝居は、そのクッキーイベントとやらだったのか……」

「はよはよ!」

 クロスの呆れ顔に一切頓着せず、ピラットは彼を急かして現場へと急ぐ。"なんで毎回ギリギリなんだ?"と抗議を上げたい気持ちになりつつ、クロスは引きずられるように連れていかれた。




「わたくし、あなたにどうしてもお伝えしておきたいことがありましたの」

 やや甲高い女性の声が響く。

「おぉ! 早速始まってるっす!」

「え!? まさか本当にヴィラが……?」

 クロスとピラットはこそこそと物陰を移動し、低木から頭を出して声の主を覗き見た。


「あ、ヴリハスパティ侯爵令嬢っす」

 アトラに絡んでいるのはヴィラ……ではなく、ヴリハスパティ侯爵令嬢であるティーテと、その取り巻き令嬢たちだった。

「ヴィラが悪役やらないから、彼女が代役になっているのか……?」

 これがフィクションなどで耳にする"運命の強制力"とやらか、と関心しつつクロスはピラットと共に様子を窺う。


「あなた、その貧相ななりで殿下に近寄るのはおやめなさい! 他にも複数の男性に色目を使っているのは存じ上げておりましてよ! 汚らわしい!!」

「いえ、そんな……」

 アトラの言葉を封殺すべく、ティーテは更に言葉を続ける。

「そんなに殿方がお好きなのでしたら、街角でお立ちになられてはいかがかしら? 小銭も稼げて一石二鳥ですわよ」

 ティーテの言葉に、取り巻き令嬢たちがクスクスと笑いを漏らす。

「うわぁ、ゲーム本編よりえげつないっす」


「それと、これは何かしら?」

「あ……」

 アトラから籠を取り上げるティーテ。中身を覗き込んで嫌悪の表情を見せる。

「まぁ!嫌だわっ! まさか殿下にこのような貧乏くさい物をお出しするつもりでしたの!?」

 そう言って、ティーテは籠を放り投げた。

「あ!」

 宙を舞いながら回転する籠からはクッキーが零れ出し──

「食べ物を粗末にするのは、関心しないな」

 ──はしなかった。籠は何事も無かったように、突然現れたヴィラの手に納まっていた。

「うっひょーっ! まじイケメンっす!」

(イケメンって、女子に使う誉め言葉じゃないよな……)

 ピラットが黄色い声援を上げる。クロスも内心ではそう思いつつも、ヴィラのかっこよさに少々見惚れていた。


「あ、ヴィライナ……様。いえ、この平民の娘が……」

 焦って言い訳を募るティーテだが、

「"学園内では身分は関係ない"、それがこの学園の思想であるはずだが?」

 冷たくはない、しかし厳しさを伴うヴィラの視線に、俯き黙るティーテ。


「……、黒龍姫が……」

「何か?」

 ティーテの呟きに、今度こそ冷徹さを伴う視線を向けるヴィラ。その様子にティーテは小さく"ひっ"と悲鳴を上げた。

「い、いえ、なんでもありませんわ。失礼いたします」

 ティーテは令嬢たちを引き連れ、憮然として去っていった。


「ヴィライナ様、あ、ありがとうございました」

 アトラはヴィラに頭を下げる。

「気にしなくていい、落とさないように気をつけなさい」

 ヴィラは、やや乱れた籠の布を丁寧に掛けなおし、アトラにその籠を渡した。

「手製のクッキーか……、先ほど少し聞こえたのだが、もしや殿下にもお渡しするつもりか?」

「あ、そ、その……」

 ヴィライナの言葉に、身をこわばらせるアトラ。

(ヴィライナ様に食べてほしくて……)

(アトラ嬢が毒を盛るとは思えないが、ここは毒見すべきか……。いや、要るのか? 魔獣退治で暴れまわってるアノ脳筋に今更……。いや、いかんいかん、一応、形式だけでも毒見をしておくか)

 すれ違う二者の想い。だが、その想いのすれ違いを正す時間は与えられなかった。


「……一応、私が毒見を──」

「何をしている!」

 灼熱色の髪をなびかせて、レクスリーがずかずかとやってくる。

「アトラが絡まれていると聞いたが、やはりお前か!」

 レクスリーは、ヴィライナへ敵意の視線を向ける。


「ふ……」

 レクスリーの傍若無人な様子に、クロスは薄っすらと笑みを浮かべ、ゆらりと立ち上がる。

「殺そう」

「ま、待つっす! 抑えるっす!!」

 ピラットは必死にクロスを抑え込む。その間もクロスは小声で「縊り殺す、斬り刻む、いや、四肢をもいで叩いてひき潰し、骨まで粉々に──」などと独り言を続けていた。


「殿下……」

 悲しみなのか諦観なのか、何とも言えない表情で呟くヴィライナ。

「言い訳無用! この場はオレが預かる。お前は下がれ!」

 ヴィライナは心底あきれ顔でレクスリーを見る。


「失礼いたします……」

 ヴィライナは踵を返し、一人颯爽とその場を後にした。



「どけピラット、アイツ殺せない」

「や、やめるっす! ヴィライナ様のほうが大人の対応っす!!」

 ピラットは死力を尽くしてクロスを抑え込んだ。



「ヴィライナ様……」

 去ってしまったヴィラの後ろ姿を見続けるアトラ。

「大丈夫だったか、アトラ。お、これはクッキーか、一つ貰っても良いかな?」 

 空気が一切読めないレクスリーは、アトラの言葉を待たずにクッキーを手に取る。

「あ、でも……」

「なに、気にすることはない。……、おお、うまいな」

 よほど気に入ったのか、アトラのクッキーをパクパクと頬張るレクスリー。彼は、アトラからも呆れ顔を向けられていることに気が付いていない。


「なんというか俺様皇太子って、こんな幸せ頭な奴だったんすね……」

「……」

 歯を食いしばり、血の涙を流すクロス。

(こ、怖いっす)





 周りを見ずに歩いていたヴィラは、気が付けば庭園を歩いていた。周りには誰もいない。

「ふぅ……、落ち着け私」

 レクスリーからの扱いが悪いのは以前からだ。今更なことではない。少々頭に昇った血を冷ますべく、自分に語り掛けるヴィラ。

 ふと、視線の先には、その殿下によって破壊され、撤去されてしまった東屋跡が映った。今は石の土台と、なぜか半壊のテーブルセットだけが残っている。


「今さらショックでもないだろう……」

 レクスリーと婚約者となって以来、まともに婚約者然として扱われた記憶は無かった。

 いや、それはヴィラも同じであったのかもしれない。幼少より活発であったレクスリーは、粗暴な言動や行動が多かった。彼女はそんなレクスリーを、常にだれかと比較してしまい、しっかりと婚約者として扱っていなかったのではないか……?

「私にも反省すべき点はあるか……」

 半壊状態の石ソファーに手を置き、一人呟くヴィラ。その手の上に、一滴の雫が落ちた。

「な、涙……?」

 ヴィラは自分の瞳から一筋の涙が流れたことに、そこで初めて気が付いた。


『涙……か?』

「っ!?」

 ヴィラが咄嗟に構えを取る。背後に、いつかの黒スーツの男が忽然と現れていた。いつもながら、十字架がキラリと光っている。

「いや、これは……、違う」

 男への警戒は解かず、しかし一筋とはいえ、涙を見られたことには恥じらいがあったヴィラは、やや顔を背ける。


『では唾液か?』

「ち、違う!!」

 男のあまりに頓珍漢な問いかけに、ヴィラは大声で否定する。


『……そうか、鼻水であったか……』

「なぜそうなるっ!?」

 目は鼻と繋がっている。したがって、流れ出ない涙については、いずれ鼻から出てくる。そう考えれば涙も鼻水も誤差のようなものかもしれない。だがしかし、乙女の尊厳として、ヴィラはその点については全力で否定した。


『顔から代謝される液体は汗、涙、唾液、鼻水だと考えた。この気温では汗は出ぬと予想し、残りの3つから絞ったのだが……』

「……、ふふっ、少し気持ちが落ち着いた。すまない、ありがとう」

 男のあまりに真面目な様子に、ヴィラは可笑しくなった。この男はヴィラの気分を晴らすために、こんな冗談を言ってくれたのだろう……。


『……? やはり鼻水だったのか?』

「その話題から離れろ!!」

 だが、それはヴィラの勘違いであったのだが……。

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