第58話 鵜の目鷹の目麗姿種の目
「茶だ茶菓子だと……貴様らのしていることこそが茶番だ」
別行動の二人を見送るでも尾行するでもなく、すぐに桟橋へ向かって歩を再開したケーフィの背中を睨みつけながら、フィービーは吐き出し切れていない憤懣を早速ぶつけた。
だが振り返りもしないケーフィの声は怒るでもなく、心底不思議そうでさえあった。
「そうか? 茶は人生にあった方が良いし、家族への土産もないよりはあった方が良い」
「本気で言っているのなら、貴様を殺す案も出てくる」
「勿論本気だ」
「…………」
フィービーは問答はもう無用とばかりに、長槍をそのうなじに狙い定めた。だが、隙がない。
「そう殺気立つなよ。ただでさえ警戒してる魔獣が、益々離れちまうだろ?」
やっと振り返ったケーフィは、頸椎を狙われているというのに笑っていた。見ているだけで苛々する笑顔だと、フィービーは舌打ちする。
「何故早速別行動を許した。あんな幼稚な言い訳を信じたわけではあるまい」
「軍に所属してると、一応建前があった方がいい時ってのもあってな。俺は嘘が下手らしいし」
どうやら、桟橋で待つ者らへの報告のために、ザラたち本人に理由を作らせるというのが本当の目的だったらしい。
確かに後で口裏を合わせるよりも、本人の自発的な嘘の方が今回は面倒が少ないのは分かるが。
「軍への言い訳があんな低俗な内容でいいのか?」
「報告を受けるのは父上だ。母上のご意向に、父上は逆らわない」
どんな恐妻家だと顔をしかめていると、「それに」とケーフィが続けた。
「あいつらは互いに互いを制する気がある。俺たちの監視は必須じゃない」
「……あいつらを信じているのか」
フィービーは、僅かに口惜しい感情を覚えながらそう聞いていた。
ザラは弟子だ。それを否定する気はないし、その実力を疑うことはない。
だが、根拠もなく信じる程の絆などないし、庇うような愛もない。
ザラを拾ったのは、気の迷いだった。
家族を皆殺しにし、自分を奴隷に貶めた
一歩踏み込んだだけで、吐き気を催す空間だった。
フィービーは全てが終わるまで一度も口を開かないまま、血の海を作り上げた。仇敵と全ての強人種を殺し終えた頃にやっと虐殺の夜は明け、血と死体と瓦礫の海に佇立したまま、白々しい朝日を睨んでいた。
そこに、ザラが這ってきた。この酸鼻を極めた現実が怖くないのか、まだ乳を求めているのか、旭日に照らされたその顔は、あまりに無垢だった。
『……生きたいか』
そう聞いたのは、ほとんど無意識だった。或いは血塗れの中でも本能に忠実なこの子供が、かつての自分にでも見えたのかもしれない。
ザラはその時、字を知らず、発話もままならず、およそ人というよりも獣に近かった。
それでも、フィービーの問いに応えるように、手を伸ばした。だから、掴んだ。
『名は』
問うてはみたが、案の定返事はなかった。だから、忌むべき過去を捨て去る意味でも、新たな名を与えた。
『夜明け……お前の名前は
だが、ザラはやはり強人種の血が濃く、善悪の区別も歯止めも緩かった。だからこそ、何度も求めた。
醇正の善になれ、と。
そしてそう言い続けている間、ザラを本当には信じていないのだと、腹の底では自覚していた。
だというのに。
『立ちたいから、手を貸してくれよ』
あんな単純な言葉一つで、ザラを引き留めた。
(あんな子供が……)
まるで、現実を見ろと言われた気がした。
家族を殺され、復讐を誓った子供のままの料簡で、いつまでもザラを見るなと。
そんなことは分かっているのに。
そんなことは不可能なのに。
強人種が悪であることを無意識のうちにザラに求めていたのではないかと、言われた気がした。
(私はずっと、子供のように、怒っていただけなのだろうか)
仇敵を殺したあの夜のような虚脱感が、爪の先を這い上がる。
「まさか。俺は俺の眼識を信じてるだけだ」
きょとんとした後、ケーフィが自信満々に自分を褒め称えた。
「…………」
呆れたものだとしか言いようがないが、フィービーはそれ以上の反駁を諦めた。
一理はある。
「私も、私は信じている」
自身の感性を最も信じているのは、他ならぬ
(気の迷い……いや、直感を)
◆
イーシュと別れたあと、エメインとザラは早足で桟橋に向かった。
久しぶりの沿岸は、忘れていた悪臭で充満していた。ゴミの少ない内陸に慣れたせいで、久しぶりに嗅ぐ生ごみの強烈な腐敗臭がつんと鼻を突く。
すり鉢状に積み重なったゴミの山を踏み崩さないように歩く感覚も、何だか懐かしい。
(とは言っても、精々一週間ちょっと前のことなんだよな)
ザラがいたとはいえ、よくもこんな悪環境で生き延びられたものだ。
「既に到着しているな」
先にゴミの頂上に足をかけたザラが、桟橋を見下ろして人影を確認する。追い付いて横に並べば、カラック船の手前にケーフィとフィービーの姿が見えた。
だが他にも二人、人影が見える。
「何だ、あの鬼みたいなの」
「父上……」
ザラの酷評に目を凝らす必要もない。桟橋に仁王立ちしているのは、見間違える隙を一切与えない強面の男――ストルゲ・ラリス本人だった。
白髪混じりの長い眉毛は折れることを知らぬように天を突き、その下の分厚い瞼は固定されてしまったかのように据わりきって、前方を刮目し続けている。
しかも母曰くの剛毛は短く刈り揃え、更に後ろに撫でつけているせいで
「父親? あんなのと暮らしてて、よく俺のことが怖いとか言えたな」
ゴミの山を
三白眼にバンダナの荒んだ問題児と、お茶を喫しているだけでも殺気が駄々洩れと部下に恐れられている頑固一徹の将官では、どちらも近寄りたくない度合いは一緒だ。
「お前を最初に見たのが、魔獣の死骸の中で血塗れで荒ぶってた所だったんだよ。誰だって怖いと思うに決まってんだろ」
「は? いつのだよ」
軍事研修で見かけられていたことなどは露程も知らないザラが、不満そうに片眉を吊り上げる。が、説明が面倒臭いので適当に省く。
それよりも、エメインは父の隣に立つ人物の方が気になった。
(まさか……いやでもそんなわけ……)
この上なく嫌な予感がすると思いながら、桟橋まで一気に駆け下りる。
だが父たち四人に近付く程に最後の一人の容貌は鮮明になり、否定の余地がないほどに記憶の中のある一人と合致する。
「父上!」
「……うむ」
ストルゲの目の前に勢いのまま走り出れば、ネフェロディス島でも変わらない威厳ある首肯が返される。
普段なら、ここで早くも口籠って言いたいことの半分も言えなくなるのだが、今はそんな場合ではなかった。
「何故ここに、課長がいるのですか!?」
びしぃっと、父の隣に立つ壮年の男を指さす。
それは、神法室庶務課で万年雑用を与えられていたエメインの直属の上司、アドホック・ゴーニアーに間違いなかった。
「ひぃっ」
指さされたゴーニアーが、びくりと体を縮こませる。
だがストルゲの熊鷹眼が向いた先は、隣で不満そうに仏頂面をしていたケーフィだった。
どうやら、桟橋に辿り着くまでついぞ一匹も魔獣と遭遇しなかったようだ。
「……ラリス分隊長。説明を怠ったな?」
「不肖、ケーフィ・ラリス下一等左官、哨戒任務に行って参ります!」
ケーフィがびしりと背筋を正し、脱兎のごとく遁走した。
「「…………」」
エメインとザラはそれを半眼で見送り、
「……私はもう寝る」
フィービーは興味が失せたとばかりに渡り板に足をかけ、
「……儂から話す」
ストルゲは、重々しい溜息を寸前で呑み込んでから、そう切り出した。
◆
事の起こりは、ストルゲたちが帝国軍港を出港する一週間前――否、正確には更に先々月まで遡る。
主に首都を管轄する弓法科中央部隊の部隊長に着任してから、ストルゲの仕事はほとんど机の上で完結することが多くなった。
中央部隊は近衛なども含む花形の職場だが、弓法科は遠距離攻撃型後衛部隊でもあり、戦時中でもなければ儀式などでしか出番がない。
結果、一日のほとんどを王城と同じ敷地内に建つ陸軍兵舎で過ごす日々が続き、自然と宮廷人との関わりも増える。
それは、実直で堅物で融通の利かないストルゲにとっては、とても看過できるものではなかった。
だが管轄外に口を出すこともまた、ストルゲの性格上許されることではなかった。
だがそれが家族の所属する職場で、且つそのせいで家族に謂れのない不利益が発生しているとなれば、規則の鬼のようなストルゲでも手をこまねく理由にはならなかった。
最初は末弟エメインではなく、その様子の異変に気が付いた長兄アステリからの一言だった。
『父上。エメインの職場、少し様子がおかしいのではないかと思うのですが』
唯一文官として同じ宮廷内で行動するアステリには、どうやら察するものがあったらしい。時折、憔悴しきった様子で上司との関わり方や疑問がある時の対処法などについて聞かれるとも話していた。
自立した子供には一人前として接すると決めていたストルゲではあったが、自信がなく頼りないエメインはやはり心配の種ではあった。
ストルゲは少ない伝手を使って少しずつ神法室や庶務課に関する情報を集めた。そこから導き出されたのは、横領が密かな弊習として根付いているらしいということだった。
操作隠蔽しているのは神法室を統括する神務卿。実際に手を汚しているのは庶務課課長。
そしてエメインがその課長に目の敵にされているのは、その不正に関わる仕事に疑問を差し挟んだからのようだった。
ストルゲは真正面から神法室に掛け合った。
だが当然のことながら知らぬ存ぜぬで追い返された。戦うしか能のない武官には、宮廷の機微など分かろうはずもないと、隠す気もない侮蔑とともに。
だがストルゲはそんなことで腹を立てもしなければ、挫けたりもしない。誰しもの意見に一理あると考えるからだ。
今度は軍務卿を通して、神務卿当人に交渉するという荒業に出た。
案の定、頭を冷やせと軍務府室を追い出された。
だがやはり諦めなかった。度々軍務卿と接触し、その合間に神務卿や庶務課課長の行動にも目を光らせた。
そんな中、エメインが
無論、作為を感じたが、常に怯懦で消極的なエメインには、良い契機になるとも思った。だからこそ反対しなかったのだが、不安はあった。
だからこそ、ストルゲは軍務卿の許可を待たず、強硬手段に出た。
神務卿を尾行し、接触し、説得し、因習のように続く横領を止めさせる。決定的証拠とか告発とか、そういったまどろっこしい考えは、ストルゲには毛頭なかった。
だが宮殿内の庭園迷路で、神務卿が怪しい人物と密会する現場に直接踏み込んだその時、突然
「見付けたぞ、
薄桃色の髪は奔放に風に揺れ、身に着けている服もドレスではなく、宮廷には全く相応しくない薄布を何枚も重ね合わせたような、様式美とは正反対の恰好だった。
そして一切の躊躇なく、神務卿の隣に立つ貴族の子弟のような若い男に長槍の矛を突き付けている。
明らかに帝国の者ではない。
「……は? 突然なんだね、君たちは」
所々白髪の混じった眉を大袈裟にひそめ、五十代半ばの神務卿は横柄にそう返した。だが微かに動揺があったと、ストルゲは見抜いた。
それは麗姿種も同様だったようだ。一瞬、視線が神務卿に向く。
その一瞬で、若い男が逃げた。
「……チッ」
「逃がすか!」
麗姿種は矢よりも早く長槍で斬りかかり、男が周囲も確認せず大規模な攻撃魔法を放つ。
ストルゲは瞬時に庭園迷路を取り囲む結界を構築した。と同時に硬直してしまった神務卿を取り押さえる。
そこからの攻防は割愛するが、結果としては強人種は半殺しにされた。殺されなかったのは、ストルゲが事情を知りたいからと引き留めたからだ。
ついでに、神務卿も殺されそうになったが、同様の理由で手を引かせた。勿論、久々の餌を前にした餓狼さながらにごねられた。
「強人種と関わる奴も同罪だ。いずれ国政を蝕み、国を壊し、民を殺す。見付けたならば必ず殺さなければならない」
全体的にそのような言い分を掲げ、最終的に必ず強人種を殺すという約束を交わすことで、麗姿種は矛を収めた。
そこからやっと横領についての質疑が始まり、神法の発動を察知して駆け付けた護衛兵などに事情を説明しつつ、アステリと(こちらは真っ当な職務として)、定期報告で宮廷に顔を出していたケーフィ(こちらは完全な野次馬として)と協力して、エメインに関することを訊き出した。
曰く、神務卿になる少し前、突然強人種の方から接触があった。
『神務卿への推薦が得られるようにしてやろう。その代わり……』
こうして、横領は始まった。強人種は幾ばくかの金と、宮廷内の人間関係と弱味を得、神務卿は残りの金と地位を得た。
それは人の醜さを何より好む強人種の常套手段だと、麗姿種は語った。これを更に放置すれば、いずれ強人種は国政の中枢にも手を伸ばし、愛憎劇と権力闘争で国が腐るまで弄び続けるだろうと。
エメインは、その実務を知らぬ間に押し付けられ、その齟齬に偶然にも気付いてしまったのだ。
加えてその魔手は、軍に身を置く『強人種狩りの麗姿種の弟子』にも向けられた。
最近、
そしてそこに、横領に気付いた神法士にその役を押し付けるという案が採用された。
その提案者が、ゴーニアーだった。
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