第56話 善い花は今から
三十分を目安に南の桟橋で合流することで、四人は二手に分かれた。
ケーフィとフィービーはそのまま南へ、エメインとザラはナハルがあると思われる北東方向へと獣道を進む。
先頭はザラ。エメインは背後に注意を払いながら、昨夜を思えば静かすぎる森の中を黙々と進んだ。
「もう少し自然に提案できねぇのか」
「え?」
ザラはエメインの行動をどう思っているだろうと考えていたところに突然そう言われ、エメインは虚を突かれた。
「イーシュに会いに行くんだろ」
「やっぱり、分かった?」
エメインは苦笑いしながら是と頷いた。
エメインの唐突で場違いな我が儘がどう聞いても不自然だったことは、自分でも自覚がある。それを、徹底的な合理主義のザラが援護したのは、らしからぬことだった。
「
調査班は、エングレンデル帝国が責任をもって引き受けた外交活動の一環だ。来年の担当国が上陸した際、帝国の物品が島に残されていたことを発見すれば、帝国は大陸加入国から責められ、その立場を悪化させるだろう。
「そんな御託は聞いてない」
血を拭った長剣で、顔に当たる枝葉をざっくざっくと薙ぎ払いながら、ザラがばっさりと切り捨てる。それがまるで島に残されたあの日のようで、エメインは懐かしく思いながら笑った。
「だよね」
あの頃はいつ見捨てられるかと、表情も思惑も読めないザラにびくついてばかりいたが、今はただの効率至上主義なだけだと分かる。
ザラに体裁や建前は不要だ。
「イーシュに、お礼と、謝罪をしたくて」
「……おう」
正直に答えると、ザラは知ってたというように一言応えるだけで、再び歩き出した。
そうして十分も歩かない内に、目的は達することが出来た。
「エメイン!」
ナハルに辿り着く前に、ガサゴソという音がして木々の茂みからそう言ってイーシュが飛び出してきた。
「イーシュ!」
驚きはしたが、早くから気付いていたザラが警戒を解いていたので、エメインも何となく予期していた。勢い余ったイーシュをその胸に受け止める。
「大丈夫? みんなは無事?」
「生きてて良かった! 怪我はないっ?」
顔を上げた途端、二人同時に互いの身を案じる言葉を口にしていた。
それが何だか可笑しくて、つまりお互い無事なのだということが察せられて、二人は自然と笑みが零れていた。
「……ふふ」
「ははっ」
小さく笑い合いながら、少しだけ体を離す。それから改めて、互いのことを確認し合った。
「成功したんだね、エメイン」
「イーシュこそ、みんなを守ってくれてありがとう。お陰でサイルを逃がさずに済んだよ」
イーシュが柔らかく微笑むその顔を見て、エメインは心から安堵した。無意識に、丸い両耳の間の白灰色の髪を撫でる。
そこに、再び茂みが揺れる音がした。ザラが僅かに警戒するが、剣は構えない。
「本当に、やったんだんな。お前が」
「ハイラム」
声に振り返れば、イーシュが出てきた場所から、血だらけのハイラムがのそりと現れた。
灰銀色の長髪も三角耳もそこら中赤斑で、特に鼻の頭を横切る一文字傷は痛ましく、あと少しでもずれていたら両目を失っていただろうと思われた。よく見れば尻尾の先もない。
(こんなに酷い怪我で……)
サイルを最後まで引き留めてくれていた所に乱入した時には、ハイラムの様子にまで気に留める余裕がなかった。
だがハイラムはそうと思わせない素振りで、気安く肩を落とした。
「火と瘴気が消えたと見た途端、ナハルから出てきたんだろうな。セファからそう離れてない所で会って、止めたんだ」
言いながら、その青空のような青眼をイーシュに向ける。イーシュはバツが悪いように尻尾と眉尻を下げながらも「実は……」と弁明した。
「みんなと一緒にナハルまで戻ってきたけど、ぼく、不安で……すぐに助けに行きたかったけど、ぼくには何もできないし、ナハルから出たらエメインの邪魔をしちゃうから……」
イーシュがどんな思いで、少しずつ薄まっていく瘴気を見守っていたか。
きっと、まんじりともせず葛藤しながら待っていたはずだ。
サイルに肉体を与えないためには、瘴気の晴れた場所に留まるべきだ。けれどザラとサイルの元に戻ったエメインが心配でならない。
助けに行きたいけれど、何も出来ない。その辛さは、エメインもこの島に来てから散々味わった。
そこに、やっと
(怖かったろうな。次から次に、把握できないことが起きて)
でも、見下ろすイーシュの瞳は無闇に怯えているわけではない。
それぞれに、それぞれの戦い方がある。それをもう比べたり僻んだりしないで済むのは、肩の荷が下りたような気さえした。
「イーシュは間違ってなかったよ。堪えてくれてありがとう」
「うん」
改めて感謝を伝えると、イーシュもすぐに愁眉を開いた。
それを見て、エメインは今度はハイラムに向き直った。
「ハイラム。遅くなったけど、治癒するよ。その……欠損した部分を元に戻すことは、僕にはできないけど」
内心ではハイラムの寝床にある荷物と引き替えに、という欲目もあったが、そもそもハイラムは嫌悪する人間種の神法を受け入れないのではという懸念があった。
それでも、出血の止まった顔の傷に対し、尻尾の先からはまだ時折鮮血がぽたりと滴って、草の色を塗り替えている。
何とか無理を通してでも治癒を受けさせたいと、ない頭を絞って色々と言葉を探していたのだが。
「……では、尾だけ」
意外にも、ハイラムは素直にそう応じた。どうやら、変わったのはイーシュだけではないようだ。
「うん」
エメインは早速ハイラムの傍らにしゃがみ込みながら、水と風の神への枕詞を詠み上げた。
「……温かいな。妙な感じだ」
数時間前まで最底辺のエフェスだったエメインの神法を、アハト=ハイラムが粛然と受けている。どこか不思議な構図だなと思いながら、エメインはどうしても聞きたいことを舌に乗せた。
「群れは、これからどうするの?」
本当は、これから島を離れようとしている人間種が聞くような話ではないということは弁えている。
それでも、イーシュがこれからどうするのか、エメインは知りたかった。もし望むのなら、イーシュを連れていくことも考えている。
それを知ってか知らずか、ハイラムは長い睫毛を伏せながら、物思うように口を開いた。
「焼けた場所に拘る必要はない。他の魔獣の様子を見ながら、また適当に場所を決める」
「……また、エフェスも決めるの?」
ゆっくりと出血が止まり、皮膚と産毛が生えてくる傷口を眺めながら、核心に迫る。
これには、ハイラムも先程より長い沈黙をもって応えた。
「……エフェスをなくしたせいで皆の鬱憤の捌け口がなくなり、先代のアハトは殺されたのだと思っていた」
それは、群れの過去――ヘーレムの夜を知らないエメインには、想像するしかない話だった。
だがエフェスをなくすという考えを持った人物がいたことや、ハイラムが根拠もなくエフェスを決めたのではないということは、少なからずエメインの考えに影響を与えた。
(より多くを守るために、なんだよな)
だがやはりどうしても、弱い誰かを犠牲にしてほしくないという本心は消せないと思った時、「だが」とハイラムが続けた。
「そもそも、群れという考え方そのものが、必要なかったのかもしれない」
「え?」
それは、群れを守ることを何よりも大事にしているアハトの発言とは、とても思えないものだった。
驚いて、短くなった尻尾からハイラムの横顔へと視線を上げる。
悲しそうな、自分を諦めたような目が見えた。
後悔よりも重い、自分の行いを全否定する瞳。
「そんなことない」
それを否定したのは、傍で見守っていたイーシュだった。
最も群れの存在を拒んでいたはずなのに。
振り向いた眼差しだけでそう問うハイラムを真っ直ぐに見返して、イーシュは言葉を募った。
「ハイラムは、皆に必要な存在だよ。少なくとも、必要としている人はいる」
ヘーレムの夜に感じた恐ろしさや心細さは、生き延びた群れの全員が共有している。その中にあって、ハイラムの指導力がどれ程救いだったか、ハイラム自身には分かりようもないだろう。
無論、デフテロたちなどは必ずしもそう感じてはいないかもしれない。もしもう一度群れを作り直すと言えば、今度は袂を分かつかもしれない。
けれどそれは、ハイラムが何もかもを違えた証左ではない。
「間違っていたことはあっても、全部が間違ってたなんて、誰も言わないよ」
「……
力強く断言したイーシュに、ハイラムが心細さを滲ませるように問いかける。昨日までとは反対だなと思いながら、一方ではアハトという役がなければ、これが本来の姿に近いのかもしれないとも思った。
「ぼくは……少し、一人で生きてみたい」
イーシュは、少しだけ申し訳なさそうにしながらも、はっきりとそう言い切った。
「ぼくは、変わりたいと思ったことを悪いことだとは、やっぱり思えない」
イーシュは、エフェスのマァラトにいる中で、漠然と何かを希求していた。それがサイルと触れ合う中で、変わること、完璧な善き人になることを望んだ。
だがそのための手段を間違えたことは認めるし、そのせいで仲間を傷付けたことも、酷く後悔している。
でも、変わりたいと願ったことは、そのために行動したことは、間違っていたとは思わない。
だから、謝れない。
「でも、皆には本当に悪いことをしたと思っている。だから、説明も謝罪も、ちゃんとしたい」
「……だが、イーシュ。それでは……」
自分の犯した罪にきちんと向き合う。その怖さを、イーシュは北の海岸で既に一度味わった。
今度は皆が集まる前で、危機も去った中、全員に自分で罪を説明する。それは恐らく、海岸での恐怖を容易に上回るだろう。或いは、その場で誰かが粛清のために動くかもしれない。
苦い顔をしたハイラムは、真っ先にそれを懸念したのだろう。
それはやはり怖い想像だったけれど、イーシュは首を横に振った。
「みんなが、ぼくを生かしておけないというのなら、それでもいい。でも、もし殺さないとしても、ぼくはもうエフェスには――何も考えないエフェスには戻れない」
「イーシュ……」
「だから、もしそうなったのなら、ぼくは一度、自分のためだけに生きてみたいんだ」
それは、決して後ろ向きな逃げではない。だからこそ、ハイラムもまた決して引き留めなかった。
苦しげな顔をしながら、ただ、心配する。
「……狩りも出来ない。採集も下手で、独りで、どうやって生きていく気だ」
「一人分なら、一日歩けば集められるよ。狩りも、何回かに一度は成功する。それで十分だ」
「一人では、出来ることなど多くない。すぐに苦しくなるぞ」
「少しでいいんだ。多くは要らない」
傍から聞けば脅しのようなその文句に、イーシュは柔らかい苦笑を返した。
イーシュは体力がなく、日中に長時間活動することも難しい。それはイーシュの色素が全体的に薄いせいだが、善性種にはその知識がない。
だが一人になれば、そんな知識にも差異にも意味はなくなる。
独りの辛さに泣きたくなる夜も、きっと来るだろう。その時には、こんなはずではなかったとみっともなく泣き喚くのかもしれない。
或いはそんな日が来るのも待たず、魔獣たちに惨たらしく食い荒らされるかもしれない。
それでも、イーシュは選ぶ。
「それに、その苦しさはぼくのものだ。ぼくがもたらした、ぼくだけのもの」
それがどれ程の辛苦かは分からない。それでも今は、それすらも心待ちにする。
そう微笑めば、今度こそ呆れたような、諦めたような嘆息とともに目尻を緩められた。
「一度群れを離れれば、二度と交わることはできない」
「うん」
「いつでも帰ってこいとは、言えないぞ」
「うん。帰らない」
「……
それは最後の念押しというよりも、自責の言葉のようだった。
だからこそその険しい瞳を見返して、イーシュはやはり笑うことが出来た。
「……ふふ。その言葉だけで十分だよ」
いつも重荷を一人で背負い、誰よりもその身を群れの仲間のために犠牲にしてきた、この心優しきアハトに、最大限の感謝を。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます