第53話 高山の巓に美木あり
赤紫色の瞳に射竦められ、エメインは瞬間的に全身が硬直するのを感じた。
これは、恐怖だ。
この
威圧も、邪推も、迂遠な脅迫もない。
エメインは死ぬべきだと、一片の疑いもなく確信している。
その圧倒的な殺意は、エメインに嫌でも幾つもの麗姿種の逸話を想起させた。
たとえば神々が天上に昇る時、その艶笑で神々を惑わし共に昇天することを許された唯一の種族だとか。天上で生まれた孤独の神をその甘美な声で唆し、地上に追いやって混乱を招いたとか。その咎により天上から堕とされたというのに、未だに美しいものを見付ければ攫って囲うことを繰り返しているとか。
そのせいで生まれた諺は多く、「国盗りには
そんな人物が、考えの読めない目でエメインを睨んでいる。
「……、……っ」
何故と反問したかったのに、声が出なかった。状況が呑み込めなくて理解が追いつかないというのもあったが、何より眼前の麗姿種が重きを置くものへの恐怖があった。
強人種に関わったものは全て汚らわしいと考えるのならば、エメインに助かる道はない。
「だから、こいつは殺す必要なんて」
「私が槍を投げた時には」
何も出来ないエメインの代わりに弁明しようとしたザラの言葉を遮って、麗姿種が言う。
「完全に強人種の
「…………」
「え!?」
今度はザラが肯定するように沈黙したものだから、エメインは堪らず声を上げていた。
槍を投げたという発言にも目を剥いたが、それよりも廃人という単語がエメインを戦慄させた。
「はい、廃人って、僕どうっ、どうなってたの!?」
最悪、ザラにサイルごと殺される覚悟もしていたとはいえ、廃人という響きは圧倒的に聞き流せなかった。
意識のない間、自分は一体どうなっていたのか。今の自分は一体どういう状態なのか。
エメインは今更恐ろしくなって改めて三人を見つめる。と、辛うじて残ったサイルの瘴気に体を奪われ、高笑いをしながら「自分を殺せ」「さもなくば結界の外に出る」と息巻いていたと、それぞれから教えられた。
あのまま意識を支配されていれば、早晩肉体が拒絶反応を起こし、瘴気を浄化しても貴様の自我はまともに機能しなかっただろうとは、麗姿種の言だ。
それを知っていながらもエメインを殺せないでいた所に、駆け付けた麗姿種が持参した槍を投げ、とどめを刺そうとしたのだという。
(…………こわっ)
真っ先に出た感想は、それに尽きた。
高笑いしながら殺せと迫る自分も怖いし、自我が崩壊したあとの自分というのも怖いが、一切の躊躇がない麗姿種が最も怖い。
よくよく見れば体の向こう側に見えるのは、エメインを貫いたという
「貴様が邪魔しなければ、確実に息の根を止められたものを」
チッと最後に舌打ちを加えて、麗姿種がそう話を締めくくる。ザラは面目なさそうに悄然としているが、エメインは心の底で土下座しながら感謝感激した。
どうやら、今回もまたザラに命を救われたらしい。
だがそれを、麗姿種は汚物のように否定した。
「全く、そんなことだからいつまで経っても弱いんだ」
「……」
ギュッと、ザラが苦しそうに眉根を寄せる。
それを見てエメインは、
「え? それは違うよ」
深く考える前に否定していた。
「……なに?」
麗姿種が再びエメインを射貫く。その冷眼はやはり恐ろしかったが、今度は何とか声が出た。
「ザラは弱くなんかない。最初から強かったし、何度も僕を救ってくれた」
「……ほう?」
始まりも、魔獣に食い殺されそうだったところを助けられた。その後も生き抜く術を知らないエメインを助けてくれたし、世界のどこにでも蔓延る抗えない枠組みからさえも、守ろうとしてくれていた。
「ザラは、弱かったことなんて一度もない」
「だが、強人種を殺せなければ全ては無意味だ」
いまだ立ち上がれない体ながら言い返すエメインを真っ向から見下して、麗姿種の瞳が剣よりも鋭く切り捨てる。
力だけでなく言葉でも勝てそうにないなと、エメインは思った。
「そう、かもしれない」
俯きそうになりながら、エメインは力弱く同意した。
けれど、俯きはしなかった。
「でも、強人種を殺しても誰も救えなきゃ、やっぱり意味はないと思う」
麗姿種の冷たい瞳を真っ向から見上げて、断言する。ただの言い換えの屁理屈だと分かっているけれど、どうしても認めたくなかった。
麗姿種の言葉が間違っていたからというのは無論だが、そもそも、腹が立ったからからもしれない。
それこそ、声が出なかったはずの恐怖を押しのけて反論するほどには。
「……道理ではあるな」
「え? あ……」
想定外に同意が来て、身構えていたエメインは思わず間の抜けた声が出た。
だがそれも一時だった。
「で? お前は一体どちらなんだ?」
麗姿種の鋭い目線が、ザラの額の角に伸びる。サイルに乗っ取られていた時のように黒光りするということはなく、灰紫色に戻って静かな存在感だけを放っている。
(どちら?)
殺すか、救うか、ということだろうか。だが少しだけ妙な言い回しだと、エメインは首を捻った。
だが当のザラは、悩むというよりもどこか諦めたように、緩く首を横に振った。
「俺は……醇正の善には、なれそうもない」
「善……?」
突然出てきた単語に、エメインは一人首を捻った。
善き人になりたいと願ったイーシュではなく、ザラの口からその言葉を聞くのは、どこか違和感があった。
ザラは誰が決めたかも分からない善悪になど拘らないと、勝手に思い込んでいたからだろうか。
「では悪か」
「!」
ぶすりと、心臓を突き刺すような鋭さで麗姿種の言葉が放たれる。言われた当人でもないのに、エメインの方が動揺してしまった。
だがザラは、根拠もない他人の言葉に惑わされたりなどしない――と盗み見て。
「…………そ」
その口が、力なく開く。
「違う」
その前に、エメインは否定していた。
ふつふつと、苛立ちが積み重なる。
本来なら、初対面の、しかも年上のこんなにも美しい麗姿種を相手に、エメインは反論どころかまともな挨拶さえ出来ないくらい委縮してしまったはずだ。
けれど今は、助けてくれたはずの礼も、名前を尋ねることすら置き去りにして、エメインは腹に据えかねていた。
(なにが師匠だよ。ザラのこと、全然分かってないじゃないか)
ザラの話は少しも聞かず、一方的に尋ね、決めつける。誰よりも自由で奔放なはずのザラをこんなにも押さえ付けようとする存在が、酷く許せなかった。
「んんっ」
言葉の続きを待つようにエメインを注視する麗姿種から視線を外し、驚いたように振り返ったザラをキッと睨み上げる。
それから、ぶっきらぼうに手を突き出した。
「? 何だよ……」
ザラが、困惑したように眉根を寄せる。エメインは収まったはずのむかむかが再び腹の底に湧くのを感じながら更に手を突き出した。
「手を貸してくれ」
「は?」
「立ちたいから、手を貸してくれよ」
本当は、頑張れば一人でも立ち上がれる。すぐ傍らにはケーフィもいる。
そもそもエメインの性格上、誰かに気安く助けを求めるというのは苦手なことだった。頑張ればできることは、特に。
でも、ザラには素直に言えた。多少の嫉妬が背を押したことは、否めないけれど。
「そんなの、自分で……」
呆れたように言いながらも、ザラはそこで言葉を切った。治癒の神法で致命的な重傷は治したとはいえ、エメインのズタボロな状態を思い出してくれたようだ。
乱雑に、エメインの手を取って引っ張り上げる。
「たたっ」
途端、あちこちがびきびきぃっと悲鳴を上げた。涙目になるが、ザラは勿論というか労ってはくれなかった。
だが、別に気にしない。
「ね?」
エメインは痛みに笑みを引きつらせながら、麗姿種に同意を求めた。
「「は?」」
何故か二人から異口同音に睨まれた。
あれ、と思いながらエメインは、今しがた握られたばかりの手を二人に示して見せた。
「だから、ザラは悪なんかじゃ全然ないって。見たから分かったでしょ?」
「「……は?」」
今度は毛虫を見る目で睨まれた。
特にザラは、最初の頃のような軽蔑が含まれている気がするくらい冷たい。
何故だろうと思っていると、麗姿種が呆れたように口を開いた。
「もしや、助けに応じたからとでも言うつもりか?」
「う、ん……だって、悪なら助けたりしないし」
「俺はお前を殺そうとしたんだぞ!?」
単純な等式だと頷いたその襟首を、ザラに掴み上げられた。
まだケーフィの治癒を受けていないのだろう。鼻先に迫った顔は大小の裂傷だらけで、乾いた血があちこちに貼り付いている。
自分で開けた腹の大穴だってまだ痛むだろうに、妙な理由で怒るんだなと、エメインは苦笑した。
「僕の中にサイルがいたからでしょ? 仕留めてくれなきゃ、僕の努力が徒労に終わったよ」
浄化しきれなかったサイルが逃げ込む先は、エメインか魔獣くらいしか残されていなかった。大気中にあっては力を消費するだけだったろうし、何より再びエメインに浄化される危険があった。
だが生きた魔獣では、身の内の
結局、
そしてそのサイルを完全に無力化するには、逃げ込んだ対象ごと殺すしかなかった。ザラに、神法は使えないから。
だというのに、ザラはこんな時に限っては頭が回らないらしい。
「違う。俺が結局、その選択肢しか持ち合わせてなかったからだ」
「だから、それは」
「俺が、根っからの悪だから」
「いや、軍人だからだろ?」
「…………」
「…………」
ちょっと小馬鹿に否定すれば、殺人光線でも放ちそうな目で睨み返された。
「……お前、俺が真剣に」
「僕も至って真剣だ」
どこか苦しげな金眼に、エメインも真っ直ぐに言い返す。それから、にやりと笑ってやった。
「でも、こんなことで深刻になるつもりはない」
「…………」
ザラが、虚を突かれたように瞠目する。ザラに不意打ちされてばかりだったエメインは、その貴重な反応に少しばかりの優越感さえ覚えて嬉しくなった。
だが。
「そいつは強人種だ。愉悦を最大限に味わうためなら、人助けまがいのことくらいする」
冷めた目をした麗姿種が、空気も読まずに嘴を突き入れた。
威勢良く睨み返したかったが、サイルがイーシュにしたことを思えば、あるはずがないとも否定しきれない。
だが、これには致命的な弱点がある。
「ザラに、嘘はつけない」
「……嘘くらいつける」
「…………」
折角断言してやったのに、当の本人からいちゃもんがついた。
変な所で意地を張るなよとか、誰のためにこんな問答をしてると思ってるんだと言おうとした所に、意外な声が割って入った。
「まぁ、確かに嘘はつけないな」
大真面目に頷いているのは、成り行きを見守っていたのか興味がなかったのか、ずっと沈黙していたケーフィだった。
「ケーフィ兄上?」
いたんだ、という感想が真っ先に出かかったが、辛うじて飲み込む。
今はそれより、気になる点があった。
「ザラのこと、知ってるの?」
「そりゃ、元部下だからな」
「えっ!?」
信じられないとザラを見れば、酷くバツが悪そうに目を逸らされた。
「……そんな所だけ後押ししなくていいっすよ、分隊長」
癖なのか、もう薄汚いバンダナはないというのに額を押さえ半眼になる。どうやら照れているらしい。
(そっか。辺境送り同士、面識があっても不思議じゃないのか……?)
各方面隊の国境警備班の中でも、魔獣が国内や人里に下りてこないよう警戒する哨戒任務は、人的問題と違って規模も小さく、常に人員不足に悩まされている。神法の素質は必須ではないが、基本的に嫌われ仕事だからだ。
それを思えば、国家的反逆者である師匠のせいで辺境を転々とたらい回しにされてきたザラと、好んで最前線に居続ける変わり者の次兄。接点がなくとも、お互い十分に存在を認識できる変人同士だった。
(なんか、拍子抜け)
ケーフィが長兄のように空気を読める男だったら、問題はもっと簡単に片付いただろうにと、思わずにいられない末弟だった。
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