第52話 同舟相救わず

 体から瘴気による苦しみが消えていくのを、エメインは泡沫のような心地で感じていた。

 混濁していた意識が徐々に鮮明になり、少しずつだが指先や皮膚の感覚が戻り始めてくる。

 夢現にサイルの声が聞こえていたような気もするが、定かではない。

 そして。



――ぬしに印をつけた。わしが外に出た暁には、必ず主に会いに行こう



 最後にその声が聞こえたところで、やっとエメインは想いを再び言語化するまで気力を取り戻した。


(誰……?)


 聞いたことがあるような、ないような、と思考した時、



強人種スクリロスを見たら、必ず殺せ」



 頭をぶん殴るような強烈な声と言葉が、エメインを完全に覚醒させた。

 粘つくように重い瞼を無理やり押し上げ、声の聞えた方へと眼球を動かす。

 女神が見えた。


(…………?)


 きらきらと新雪のように輝く白貌、熟れ始めの桃のような頬に、つんと澄ました鼻。長い睫毛の下、切れ長の瞳の中には、複雑に削り出された宝石のように煌めく赤紫色の瞳が収まり、蕩けそうな紅い唇は今にも甘く匂いだしそうだ。

 そしてそれらを彩るように翻る薄桃色の長い髪と、そこから飛び出した先の尖った長い耳すらも、完璧な黄金比を知り尽くしたように美しい。

 その女性は一見少女のように愛らしく、けれど見れば見る程豊潤で蠱惑的で、エメインは人生で初めて目を奪われるという経験をした。


(周りが何だか明るく見えるんだけど、それもこのひとのせいかな?)


 常に雨雲が重く垂れ込め、加えて夜明け前のせいで暗澹と薄暗いネフェロディス島の景色が、心なしか明るく思える。

 神法で僅かながら瘴気を浄化できたという自負はあるが、それでもここまで人物の美貌や色彩を明確に捉えられるということは、それだけ明度があるということに他ならない。

 そこまで考えて、エメインは一つの可能性に気付いた。


(天上からのお迎えか?)


 神々に愛されし英雄は、死後、その功績を讃えられて天上の宴に招かれる。それは夜になれば星となって世界を守り、地上からもその輝きを見ることが出来ると云うが。


(……いや、僕、別に英雄じゃなかった)


 根本的な問題に思い至り、少しだけ冷静さを取り戻す。

 そしてやっと、そう言えば先程の声は誰のものだったのかという疑問に舞い戻った。

 とりあえず、この女神か精霊かとしか思えない女性が発したのではないことは確かだ。

 と思っていると、その匂い立つような紅唇がおもむろに開かれた。


「噂を聞いても気配を感じても必殺。そう教えたはずだが?」


 同じ声だった。

 しかも今度は物騒な上に頭の悪そうな訓戒風になった。


(夢かな?)


 或いは死の国へ向かう時に通るというお花畑かもしれない。

 思えば起き上がろうとしてもまるで体が動かない。右腕などは寝違えてつったように筋が張って動かないし、左手も象に踏まれたかのように手の甲の皮が剥け、ひりひりと痛い。

 何より右脇腹辺りが、尋常でなく熱い。痛覚がもう正しく機能していないのか、痛いとか苦しいという感覚もない。


(もしかして……僕、死ぬのかな)


 エメインの記憶は、ザラの体からサイルの瘴気を追い出したところで途切れている。その瘴気は十中八九エメインの中に逃げ込んだと思うが、その後何が起きたかは分からない。

 だがサイルを完全に消滅させるためにも、強人種を殺すためにも、ザラがサイルに取り込まれたエメインを見逃すとは思えない。

 これは、予想できた結果だ。


(そっか。道理であちこちの感覚がないと思った)


 きっと、ザラがやってくれたのだ。と、複雑な感慨を覚えながら女神から視線をそっと外す。

 そこに。


「お、エメイン、気が付いたか?」

「…………」


 次兄ケーフィがいた。

 エメインよりも明るい、ぼさぼさの茶色の髪に、祖母譲りの純粋な緑眼。その混ざり気のない瞳よりも真っ直ぐな、邪気のない笑顔。

 だが今は、そんな表面的な情報よりも深刻な事実が脳裏を席捲した。

 兄弟の中でも最も戦闘能力に長け、弱冠二十五歳にして帝国軍本隊弓法科北部方面隊国境警備班第一哨戒係の分隊長を務め、昇格すると前線から外されるからという理由だけで各種報奨から逃げ続ける前線至上主義の脳筋兵士。

 それが何故か目の前にいる。


(あれ? それってつまり……)


 刹那の内に、エメインの脳内を一つの方程式が駆け抜けた。

 戦闘狂の次兄が前線ではない所にいる=死亡=それが見えるエメインも死亡。


(あ、成り立ってる)


 死にそうではなく既に死んでいたらしいという結論が出て、エメインは目覚めてすぐまた昇天した。


「おいこら、なに白目剥いてんだよ。傷は治したんだからもう平気だろ」

「あいてっ」


 ふら~っと意識が遠ざかりかけた頭を、容赦なくべちっと叩かれた。それで完全に、靄のかかった意識が覚醒した。


「ケ、ケーフィ兄上? 本当に?」

「俺が俺以外の何に見えるってんだよ?」


 呑み込んだ言葉を察するとか、裏の裏を読むという行為が一切ないケーフィが、首を傾げてエメインの頭を掻き毟る。


(いやそこは頭押さえるんじゃなくて、背中を支えてよ)


 と思ったが、エメインは黙って自力で身を起こすことにした。ケーフィの「支える」「撫ぜる」「叩く」はどれも痛くて当てにならない。


「まぁ、そうなんだけど……兄上が治してくれたの?」


 叩かれた頭をさすりながら、エメインは手をついて上半身を押し上げた。力を込めるとあちこちがみしみしと痛んだが、蹲るという程ではない。

 どうやら、本当にケーフィが神法で治癒してくれたらしい。

 サイルの残り香のような瘴気も、気配がない。肉体のみずかぜを整える過程で消されたようだ。


「おう。傷も塞がったし、すぐにでも戦えるぜ」

「いや戦わないから」


 悪意なく太鼓判を押され、エメインは脊髄反射で遠慮していた。

 治癒は自然治癒力を高めるもので、失ったものまで取り戻すわけではない。体力や血、治癒に使った生命力の回復はできない。

 右脇腹に感じていた熱も収まり、痛みもさほどないが、全身に圧し掛かる疲労感や倦怠感はなお余りある。出来ればあと三日くらいは寝ていたい。

 エメインはケーフィの意識を逸らすために、わざとらしく話題を変えた。


「でも、何でこんな所に?」


 改めて辺りを見回してみるが、エメインが気絶していたのはやはりネフェロディス島の第一結界があるあの平野のままだった。

 周囲に広がっていた森の半分近くは焼け野原と化し、炭化した枝が寒そうに灰色の空を刺している。

 そう思考して、一つの違いに気が付いた。


(……あれ、明るい?)


 女神が降臨した光かと思っていたが、思えばケーフィの顔も普通に見える。闇に目が慣れたとか、周辺一帯の瘴気がすっかり晴れているということもあるが、そもそも全体的に明るい。

 空を見上げれば、朧な月が見えていた藍色の夜空は消え、見慣れた灰色の曇天が広がっている。

 夜が、明けていた。


(そっか……朝か)


 それは至って普通のことなのに、エメインはどこか奇跡のようにも感じていた。

 夜が明けて朝が来るのは当たり前のことなのに、どうやらエメインはあの夜には終わりなどないとでも思っていたらしい。


(……変なの)


 無意識に、くすりと笑みが漏れる。

 それをどう受け取ったのか。


「そう、面白そうだから!」

「いや、別に予想できたから笑ったわけじゃない」


 力強い同意とともに満面の笑みで親指を立てられ、エレインは思わず否定していた。

 そしてすぐに後悔した。


(聞き方を間違えた……)


 思えば、ケーフィへの事情聴取は長兄アステリの専門だった。思いつくままに質問してはいけなかったと反省する間にも、ケーフィは立ち上がって柔軟をし始めた。


「じゃ、とっとと魔獣殲滅して帰ろうぜ」

「そんな夕飯前の買い物済ませるみたいな感覚で!?」


 相変わらず突拍子もない次兄の発言に、エメインは軽く恐怖心さえ覚えながらいつもの調子で突っ込んでいた。

 最早ここが世界の果てとか絶海の孤島とか灰魔アフティ眠る封鎌の地スフラギタであることを忘れて、実家にいる気分になる。


(夢? 今までの全部夢かな?)


 兄のせいで緊張感が行方不明だと思いながら、エメインは辛うじて頭の片隅に残っていた文言を引きずり出した。


「そもそも、ここは魔獣も含めての生態系を保護してるんだから、滅多やたらに壊したり殺しちゃダメなんだって、学者たちが……」


 そこまで言って、エメインはそもそもの問題にはたと気が付いた。


「ケーフィ兄上って、どうやってここまで来たの?」


 この島に入れるのは、毎年各国が輪番で担当している調査班の視察船だけだ。エングレンデル帝国の視察船に置き去りにされてから一か月はまだ経っていないはずだから、次に来るのは一年後だ。

 と考えて、蒼褪めた。


「え、まさかもう一年経った?」


 知らない間に時間が進んでいたのか、あるいは寝ている間に一年が経ってしまったのか。

 神代の姿を唯一留める原初の島であれば、どんなことが起きても不思議ではない、と戦々恐々とした所、


「んなわけあるか」


 ケーフィがいとも軽く否定した。


「なんかよく分からんが、父上とそこの女が色々話して……で、ここに来ることになった」

「また端折る……」


 エメインはげんなりと肩を落とした。

 確かケーフィは、自身が調査班に誘われた時、船旅では戦闘が発生しないと聞いて断ったと言っていた。それが今島に来ているのだから、その「色々」の部分に意見を翻す何かもあったのだろうに、ケーフィは論理的な説明が必要になると大抵適当に誤魔化す。

 曰く『大事なのは結果だ!』

 こうなると問い詰めても成果は期待できない。エメインはすぐに諦めると、改めて件の女性を振り返った。


(何度見ても綺麗だなぁ)


 新雪で作った人形のように美しい、女神のような女性。十代にも二十代にも見えるその美貌は老若男女を虜にするだろうと、訳もなく信じられる。

 だがよくよく観察すれば光ってなどいないし、長く尖った耳は麗姿種オモルフィの特徴だと分かる。

 が、どんなに麗姿種が美しくとも、純血でないながら強人種を珍妙な訓戒だけでここまで情けなく委縮させる力はないはずだ。


「……覚えてる」


 しかし女神のような麗姿種の前でそう答えるザラは、どう見ても言いつけを破って叱られている子供にしか見えなかった。

 この麗姿種とどんな話をして島に来ることになったかということは気になるが、それ以上に血と泥でボロボロの肩をしゅんと落とし、悪人面の三白眼を情けなく伏せているザラとの関係性が気になった。

 だがその答えは、言い訳するように続けたザラの言葉ですぐに知れた。


「でも、師匠、あいつは――」

「師匠!?」


 思わず、エメインは素っ頓狂な声を上げていた。

 ザラが驚いたようにエメインを振り返り、一拍遅れて麗姿種も目だけをこちらに寄越す。

 だが驚いたのはエメインの方だ。

 ザラに強人種滅殺の家訓を叩き込んだ師匠の話は聞いていたが、あまりに想像と乖離し過ぎている。

 ザラの話では、普段は部屋の隅の埃よりも役に立たないが、強人種だけには滅法強い、強人種限定の賞金稼ぎ。それが行き過ぎて国家的反逆者の疑惑までかけられている、ザラの育ての親。

 ここまで聞けば、エメインでなくとも誰もが屈強な歴戦の頑固老戦士を想像するはずだ。


(それがこんな美人の、しかも女だなんて……!)


 ちょっと裏切られたような思いで、見つめ合う二人を交互に凝視する。


「エメイン、平気か?」

「え? あ……」


 ザラが、珍しく安堵したような顔をして問う。それに、少し頭の中を整理してから答えようと口を開いた時、


「で? 何故殺さなかった?」


 宝石のように輝く赤紫色の双眸が、無機質なほど容赦なくエメインを貫いた。


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