第五章 新たなる旅立ちへ

第51話 瓦礫の珠玉に在るが如し

 神経を逆撫でする程に美々しい女が、ゆっくりと白く霞んで消える。

 そして完全に意識が途切れると同時に、苦笑のような控えめな声が聞こえてきた。

 最初は、エメインが早くも死んだのかと思った。そして無意識のうちに痛覚を殺し、外界の音をまた拾い始めたのかと。

 だがいつまで経ってもその声の他に聞こえてくる雑音はなく、サイルは仕方なくその声に耳を澄ませることにした。


――あいつ、おかしなこと言うよな


 どこか緊張感のない、間延びした耳障りな声。

 それはやはり、どう聞いてもあの忌々しい人間種ピリトス――エメインの声だった。


(何故話せる?)


 単純にまだエメインの肉体が死んでいないという事実は分かる。だがサイルからの精神的圧迫に加え肉体的損傷を受けた今の状態では、意識が表層に出ていなくとも多少なりと影響が出るはずだ。

 だというのに、続くエメインの声は相変わらず癇に障る程呑気で。


――壊すしか能がないって、僕にはその壊す能もないのに


 その自嘲混じりの声に嫌でもあの情けない顔が浮かんで、サイルはきつく目を閉じた。

 どうやらサイルが戦っている間も会話が聞こえていたようだが、それならば聞く必要など微塵もない。

 だが無自覚な意識の中のこと、聞きたくなくともエメインの声は構わず続いた。


――お前が残ったのだって、そもそも僕の力不足なんだから

(!)


 独り言と思っていたサイルは、不意に話しかけられて少なからず動揺した。

 姿も見えないエメインを探すが、やはり瞼は動かず、見付けられるはずもない。

 ただ、声は続ける。


――あいつって、意外と責任感が強いよな。一匹狼の問題児のくせに


 知るか、と言い返したかった。他人ザラのことなど毫も興味がない。けれど口も舌も動かなかった。体も動かない。


――律儀で真面目で、そのうえ口下手だから、何でもかんでも独りで背負ってさ


 懐かしむように、慈しむように、エメインが懐古する。その一々が癪に障ったが、全て無視すると決めた。サイルには全てが関係のないことだったからだ。

 だが。


――結局、善い奴なんだ。だから、お前なんかと馴染むわけがなかったんだよ


 続いた結論に、サイルは本能的に反駁していた。


(黙れ! 私を拒めもしなかっか者が、私を見下すな!)



――ぬしこそ、そのザマで何をほざく



(!?)


 突然、違う声が割り込んだ。否、声が元に戻ったのだと、本能で察した。エメインとは似ても似つかない、冷酷で残虐な声。

 サイルは本能的な恐怖を心底に感じながら、攻撃的なまでに詰問していた。


(誰だ!?)

――随分つれないことを言うな。気が遠くなる程昔から話していたろうに

(は? そんなもの……)


 覚えがない、と続けようとして、サイルの脳裏に不意に記憶が次々と蘇った。

 苦労して緩めた封鎌をエメインに戻されて怒り狂っていた時も、善性種エピオテスたちが群れて襲いかかってきた時も、聞こえていた声があった。

 否、その声は最初からサイルに付き纏うようにずっと聞こえていた。耳元で、頭の中で、サイルが精神的に弱まる度に意思を削り、心を折るように悪意ある言葉を囁き、サイルを惑わした。

 誰よりも聞き馴染んだ声――サイル自身の声で。


(お前は……私か?)

――正確には、主の生みの親の強人種スクリロスであり、真実の灰界アフティの王、だな

(灰、王……)


 理解すると同時に、微睡みのようだった感覚が、瘴気に宿る意識体だった状態に一気に引き戻された。何もない空間に、人型を取った薄黒い瘴気としてのサイルが、ぽつりと佇立している。


「ここは……灰王の意識下か?」


 左右を見ても上下を見ても、灰王の姿はない。だが、ずっと無意識の中に入り込んできた忌々しい声の正体は、これで腑に落ちた。

 サイルを急き立て、責め立て、執拗なまでに肉体を求めさせていたのは、この声のせいだ。

 本来灰界にいるはずの強人種の声がなぜ地上にまで届くのかは分からないが、この声がずっとサイルを苛み、蝕み続けてきたのだ。

 となると、一つ疑問がある。


「さっきまでの声は、何のつもりだ」


 エメインの声はどう聞いても、あの情けなさも覇気のなさも本人のものだった。それを強さを至上とする強人種の王が、形だけでも真似するなど、矜持が許すはずがない。

 案の定、灰王は嗤いながら悪趣味な言葉を口にした。


――余興だ。向こうにも言い分があり、主もまた聞きたいようだったのでな

「……聞きたい、だと? この私が、塵芥ゴミ以下の弱者の声を!」

――あぁ。何せ、主を負かした相手であろう?

「ふざけるな! 私は負けてなどいない!」

――では主は何故いま、何も出来ない?

「ッ……!」


 下卑な笑みが目に浮かぶような直截な物言いに、サイルは反論も出来ず口籠った。否定のしようもない事実だったからだ。

 だがだとしても、認められるはずがない。


「わ、私は王だぞ! たかが人間種ごときに……!」

――負けた者に王の資格はない

「――――」


 その声に、嗤笑はなかった。だからこそ、サイルは言葉を失った。

 灰界の王とは、灰界の小太陽である光の神フォスの左目の所有権を勝ち得ている者の称号だ。王である限り、唯一の光源の恩恵を最も受けることが出来る。

 だが一度でも負ければ、所有権を失う――つまり王足り得ない。

 それが法も秩序もない灰界での、唯一絶対のことわりだった。


「私は……王ではない……」


 導き出された答えに、サイルは愕然とした。

 卒然と立ち尽くすサイルを、姿の見えない灰王は憐憫を振りまいて更に打ちのめす。


《たかだかわしの五感の延長として伸ばしていた魔気ゼーンが、何の因果か自我を有したことで無自覚にも己こそが本体だとでも思い込んだか。分相応で、滑稽だな》

「…………ッ」


 確かに、強人種は体に魔気を馴染ませ魔法を行使する。それが極まれば、放った魔気に自らの感覚を共有することで、ある程度の範囲ならば視覚や聴覚を得ることが出来る。


「私は、その魔気の一端に過ぎない……?」


 この長く伸びる手足も、厚みのある肩や胸も、膝裏まで伸びた夜色の長髪も、魔気の中にあった記憶が勝手に作り出した偽物なのか。

 頭部から王冠のように伸びる、大小三つのこの立派な角さえも。


「にせもの……」


 触れた角の表面のざらつきを確かに感じるのに、ふとどうしようもなく嘘臭く作り物のように思えて、胸を掻き毟られた。

 まるで珠玉ほうせき瓦礫がらくただったことに、ついに気付いてしまったように。

 すると次には、抗いようのない虚しさが体中を支配した。

 何故、という限りない疑問が去来する。


「何故、封印なんだ……」


 何もない足下を力なく睨みながら、想いが留めようもなく口から零れ出る。


「未来永劫地上に出す気がないのなら、いっそ殺せば良かったのに……」


 それは、ぶつけ所を失った空虚な怒りの唯一残された矛先――封じるだけ封じて何千年もほったらかしにしている、天上の神々への恨み言だった。

 強人種が世界を混迷を招いたという言い分は理解できる。だがその混迷を収めるために強人種を封印するという手段が納得いかない。

 戒めも改悛も後悔も、強人種に生じるはずがないからだ。何もかもを取り上げて全てから隔離しても、何の功もなさない。

 ただ、怨みが募るだけ。

 そしてそれを承知しているからこそ、神々が封印を解くことは決してない。

 だからこそ、恨めしくてならない。

 最初から解放する気がないのなら、全て滅ぼせば良かったのに、と。


「もし殺さないことが一滴の慈悲だと本気で思っていたのなら、神こそが何よりも悪で、残酷だ……!」


 神々というものは、いつだって理不尽だ。自分たちは本能のままに奔放に生き、楽園を独占し、人々からは不都合になる度に取り上げる。

 強き力も倫理の悪も――抗いようのない本能を与えたのは、そもそも神々だというのに。


《……知るものか》


 ぽつりと、灰王が呟く。

 他者サイルに応えたというよりは、自問に自答したように投げやりで。それもまたサイルの憤懣怨嗟を加速させた。


「……呪う」


 やっと体を得たというのに。やっと、漂うばかりでいつ消えるとも知れない儚い存在から、変われると思ったのに。


わしから零れ落ちた瘴気ゴミの分際で、吾より先に本物の光を得られると思うなど、驕慢の至りよ》


 くつくつと、地を這うような嘲笑が鼓膜を奥から揺らす。否、頭の中だろうか。最早それさえも、サイルには分からなくなっていた。

 ただ、抗う。


「煩い! 私は永劫に呪うぞ。天上の神も地上の命も、地下に這いずる貴様らでさえ、一粒残らず全て!」

《聞き飽きた陳腐な台詞だ。弱者の呪詛ほど退屈で滑稽なものはない》

「煩い煩い煩い! 私は弱くなどない。私は灰王――灰界で最も強いのだ!」

《主は弱い。だからこそ肉体だ意思だと拘り、騒ぐのだろう》

「――――……!)


 灰王の嘲笑が、どこまでも執拗に纏わりついてくる。癇癪を起した子供のように叫び続けているつもりだったが、いつの間にか声はもう音にすらならなくなっていた。

 辛うじて残っていた瘴気すら、もう消えかかっているのだろう。


(これが、最期なのか。こんなものが……)


 絶望的な諦念が、最早四肢の感覚もない体に満ちていく。満ちた先から、ぼろぼろと崩れていく。体が、意思が、存在が、ぼろぼろと。積年の妬みが、願ったものが、呆気なく消えていく。


(私は、一体何だったのだ……)


 最期に言葉になりかけた問いもまた、風に浚われる塵芥じんかいのように消え果てる。

 答えは、どこにもない。

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