第50話 曇天の長槍

 ゆっくりと、だが確実に五感が削り取られ、切り離され、薄れていく。

 肌を舐める潮混じりの湿った空気。火の粉を舞い上げ踊り狂う木々の焼ける音。鼻を突く幾つもの焦げた臭い。頬を伝う無数の返り血も、身体中の傷の痛みすらも、最早遠い。

 それはサイルにとって、この上ない恐怖だった。


(やっと……やっと手に入れたというのに!)


 灰界スタフティに閉じ込められた強人種スクリロスが発する瘴気として自我が芽生えてから、何百、何千の時が無為に過ぎたか知れない。

 灰界では、唯一の光源である光の神フォスが与えた左目の支配権を巡って、常に強人種が殺し合っていた。それを漫然と眺めながら、何故自分には体がないのかと自問した。

 そして渇望した。


(誰もが当たり前に持っているものが、何故私にはないのだ!?)


 到底納得できるものではなかった。

 サイルは当然の思考の帰結として、目の前の体を求めた。だが強人種から放たれた瘴気が、強人種に勝てる道理などあるはずもなかった。

 そして更に歳月を経て、溢れ続ける瘴気が灰界から漏れだすように、サイルの意識もまた地上に押し出された。

 そこで、善性種イーシュに出会った。


 今まで見ていた強人種とはまるで違う異形の姿。覇気のない目。調和を尊ぶがゆえに競争すらない、変化を嫌う単調な生活。有り余る自由があるというのに、とても生きているとは思えなかった。

 だが、付け入る隙はごまんとあった。平穏なのは表面だけで、その内側は今にも崩れそうな泥人形同然だと、すぐに分かった。

 肉体を乗っ取ることは容易だ。だが瘴気に取り込まれた肉体では、結界を排除できない。結界を排除できなければ強人種の肉体は手に入らず、魔法を使えなければ島から出ることすら叶わない。

 そのために、イーシュに結界の要である大鎌を外させようと考えた。


(……いや、違う。私の体を取り戻すのだ)


 灰界に残してきた肉体を取り戻さなければ、何も出来ないし何も感じることが出来ない。

 だが今は、最早肉体に拘っている段階ではなくなった。


(今は、誰でもいい。誰か……)


 神法によって周囲の瘴気がほとんど浄化されてしまった今、ザラの体を手放しても勝機があるわけではない。だがこのままザラの中にいては、主導権を奪い返せぬまま取り込まれて消えるだけだ。

 強人種は、瘴気を魔気ゼーンとして取り込んで力に変えるのだから。

 消去法で、逃げる先は一つしかない。


(誰か……瘴気に抗う力のない、弱き者――)


 既に霞み始めたザラの視界を通して辺りを探り、そして見付けた。

 膝を下ろしたザラの傍らでぐったりと横たわり、青白い顔を血と泥と胃液で汚した、薄汚い人間種ピリトスを。

 サイルの思惑の外にいた、蟻にも劣る弱者。


(こいつさえ、いなければ……!)


 勃然と、爆発するような怒りと共にザラの体を飛び出していた。そのまま眼前のエメインの体に入り込む。


「な!?」

「……っ?」


 一拍遅れて気付いたザラに最後の一部を引き止められたが、意識に支障はない。浄化によって大きく弱体化したサイルの意識相手ですら、エメインからは抗う手応えがない。


(盲点だった)


 弱者と見下していたが、考えればハイラムはともかく、ザラはこの人間種に手出しできないのではないか。と考えれば、戦闘能力は最低でも、動かせる人質としては十分に価値がある。

 しかも、エメインの体に入ってすぐ感じた、この懐の物は。


(は……ははッ、そうだ、私はまだ終わっていない!)


 詰んだと思った状況が、この憎むべき肉体を利用することで全て開けた。そう思うと、笑いが止まらなかった。


「……哈哈ハハッ、はははははは!」

「……お前、サイルか」


 狂ったように笑い出したエメインの体に、ザラが手放していた剣を瞬時に拾って後ろに跳び退く。

 だが、すぐさまその剣で斬り付けてくることはなかった。自分で開けた腹の大穴のせい、だけではない。それも背中の傷も、既に半ば以上治癒している。

 理由は明白だ。


(勝った……!)


 サイルは己の推測が確信に変わり狂喜した。

 加えて、エメインが懐に持っているのは、恐らく法具だ。神法の無効化に似た気配を感じる。そう気付いて、思い出した。

 第二結界デウテロンの影響がない善性種エピオテスどもは頓着しなかったが、人間種二人を運んで通る時に僅かに神法の気配を感じた。それが恐らくこの法具なのだろう。


(これがあれば、もうこんな最低の島にかかずらう理由もない)


 この法具があれば、結界の向こうへ行ける。エメインの肉体を盾にすれば、この窮地も脱することができる。

 島を出てしまえば、もうサイルを縛るものは何一つない。


「喜べ」


 引き付けのように止まらない笑いを上げながら、サイルは弱々しい体を持ち上げた。

 振るえぬ剣を構えたまま、それを注視していたザラが三白眼を更に険しくする。


「……なに?」

「お前たちの望み通り、この島から出てやろう。暫くはお前たちの望む善き平和とやらが訪れるぞ」

「させるか」


 サイルがこの島を出るというその意味と現実性を、ザラも理解したらしい。サイルに対し間合いを取り、獣人の血がいまだ滴る剣先を向けるが、それは滑稽でしかなかった。


「どうやって止める。殺すのか? 是非ともやってみろ」


 サイルは嘲笑を噛み殺しながら、赤く爛れた両手を広げて見せた。

 酉鬼亥アグリオスやザラの体と違い、瘴気を循環して活用することが出来ない人間種の体は、酷く重い。痛覚はある程度鈍くすることもできるが、それでも蓄積した疲労や損傷の影響を消すことはできない。

 視界は疲労で霞み、立ち上がるだけの力を込めるだけでも体中が悲鳴を上げている。第三結界ヒュスタトンの外まで歩こうものなら、他者が手を下すまでもなく息絶えるだろう。

 だが、そんなことはサイルには些事だった。

 生きているうちは人質になる。死ねば痛覚を殺して自由に傀儡とする。


(いや、いっそ死ねばいい)


 この島で浄化の神法を使えるのはエメインだけだ。エメインが死ねば、その脅威も消える。

 瘴気は今まで通り第一結界プロートンの外に滲み続け、島は再び瘴気で満たされるだろう。最悪、その時を待っても良い。


「さぁ、殺せ」

「…………」


 笑うだけでも引き攣る脆い体で、ザラに一歩詰め寄る。ザラが下手くそに剣を構えて、大上段に振りかぶった。

 ビュッと剣圧が風を押し出し、湿った栗色の前髪を僅かに揺らす。寸隙も閉じなかった目のすぐ先に、ぬらりと光る鮮血と刃があった。


「殺さぬのか?」


 その刃の向こうの金眼をめ上げて、にいやりと嗤う。


「……出て行け」


 苦虫を噛み潰したような恫喝。それが答えだった。


「あぁ、勿論だとも。この島からな」


 サイルは上機嫌で更に一歩を踏み出した。ザラが口にしなかった主語を十分理解した上で、そう付け加えて。


「…………ッ」

「……フフ、フハハハハッ!」


 睨み付けるだけで次の手を打てないザラの横を、はち切れるような哄笑を上げて通り過ぎる。ギシギシと、壊れかけのガラクタのように動かしづらい体が勿体つけるように遅く、それもまた満足感を加速させた。


「仲間だか……友だったか?」


 愉快過ぎて、数分前に聞いた忌々しい言葉が次々に蘇る。


「頼りにするにも、こうも弱くては……」


 それを、怒りに打ち震える傷だらけの肩に嗤いながら投げつけた。


「実に邪魔なしがらみだな?」

「――――」


 ざまあみろ、と。


 だが少しも足りない。

 魔法が使えたなら、この島全てを火の海に沈めてやるところだ。そしてそこにいる命が息絶える寸前には人間種に意識だけを返し、守ろうとした全てが灰と化す酸鼻のさまを見せつけてやるのだ。


(そして思い知れ)


 己の信念の脆さと愚かさと間違いを。

 そう、止まらない哄笑を上げ続けていた背中に、


「……全くだ」

「!?」


 不意に低く掠れた同意が届いた。底知れぬ殺気とともに。


「……まさか」


 サイルは足を止め、悠然と背後を振り返った。


「殺す気か? この人間種を」


 駆け引きか、振り切れたか。本音を探るように、弛緩したまま佇立するザラを注視する。

 だがすぐに、それは徒労だと想起した。

 ザラは半端者とはいえ強人種だ。強人種は、己以上に重要なものなど存在しない。仲間も家族もなく、邪魔するものは等しく敵だ。


(挑発しすぎたか)


 内心で舌打ちするが、後悔はなかった。

 人間種の体では媒介がなければ魔法が使えないし、神法など論外で勝つ見込みなど皆無だ。だがサイルの勝利条件は第三結界の外に出ることだ。肉体の生死など関係ない。


「あぁ、殺す」


 サイルの問いに応えながらも、ザラの金眼はどこか虚ろだった。血塗れの剣先を地に引きずりながら、漫然とサイルに近付いてくる。


「勘違いしちまったんだ」

「は?」


 ズ、ズ、と土を抉る耳障りな音に混じって、ザラが独白のように続ける。


「この島に来て、あいつと一緒にいすぎて」


 ズ、ズ、ズ、ズ……。


「俺は最初から、ころすしか能がないのに」

「それの何が悪い?」


 殺気を駄々洩れにしながらのその声に、サイルは無意識に武器になるものを探しながら反駁していた。


「強人種に与えられたのは力の強さと倫理の悪だ。それはいわば神の定めた宿命と言ってもいい。そこから逃れることは、六種族の何人なんぴともできはしない」


 善性種エピオテス長命種マクロンだけでなく、自らに宿る本能に歓喜のままに突き動かされている賢才種ソフォス麗姿種オモルフィでさえも、その業の深さに苦しんでいる。

 強人種の中にも、家族愛が希薄だという本能に翻弄されながら子育てに悩み苦しむ者すらいた。

 生まれて十数年の若造などがたまさか足掻いたとて、克服できるものではないだ。


「……の、ようだな。ずっと、そこから逃れるために足掻き続けてきたが……やはり無理だったらしい」


 愚かな自らを嘲笑するように、ザラから力が抜け、足が止まる。

 土の音が止み、ザラがおもむろに長剣を逆手に持ち替えた。


「俺は、エメインの望みを叶える」

「!」


 そして言い終わるよりも早く、ザラがサイルの懐に飛び込んだ。

 真っ直ぐに飛び込んできた拳を辛うじて左に躱す。が、続けてその先にあった刃が、サイルの首筋を掠めた。


(チィッ、変な戦い方を!)


 傷のせいだけでなく体が重い。

 サイルは対峙するのは不可能と刹那に見切りをつけ、ザラの次撃が来ると同時に横に跳躍した。回転しながら、善性種たちが撒き散らした矢の一本を掴む。


「お前を殺す」

「やれるものなら!」


 迫りくるザラに向け、サイルは脳が本能で制御している力も無視して全力で矢を投げた。ぶちっと腕のすじが呆気なく悲鳴を上げる。だというのに、矢もあっさりと叩き落された。

 だがまだ左腕がある、と別の矢に手を伸ばそうとした時、


「させるか!」

「ッ!」


 鬼のような覇気を取り戻したザラが、伸ばした左手を一足飛びで踏みつけた。残る足で、サイルの背中もダンッとその場に縫い留める。


「ッッ!」

「これが最後だ」


 そして、冷たく警告した。


「その体から出て行け。出て行かないなら、殺す」

「……フッ」


 その甘さに、サイルはやはり嘲笑を禁じえなかった。迷いがあることは無論、事ここに至ってまで、ザラが何も分かっていないことに。


「殺せ。道連れだ」


 サイルは四肢を投げ出すように全身を弛緩させた。


(勝った)


 ザラがその二択しか見えていないのなら、サイルは喜んで受け入れよう。そして人間種の亡骸を抱えながら、塗炭の苦しみに悶えるさまを眺めてやる。人間種を殺すという、無意味で愚昧な行為を死ぬほど後悔すればいい。


「…………ッ」


 ザラが凶悪な形相を苦痛に歪めて、逆手に持った剣をサイルの胸に狙い定める。それが降りてくるのを、どこか心待ちに凝視する。

 その前に。



 ヒュ――!



 見覚えのない無骨な長槍が、凄まじい勢いでサイルの腹に飛来した。


「!?」

「ッ!」


 避けられる間合いでは既にない。と感じたと同時に、ザラに強引に腕を引き上げられた。


「は?」


 意味が分からない――と考える間もなく、槍が腹を抉った。


「ッッッッッ!!」


 激痛が腹から全身を駆け抜け、視界が赤く明滅する。


(弱い……弱すぎる……!)


 痛覚をどんなに鈍くしても、肉体的な限界まではサイルにもどうにもできない。いっそ死んでしまえば肉体の制約などなく操れるが、これでは生殺しも同然だ。


(誰だ……下手な槍を……)


 否応なく遠のく意識の中、ザラごときに邪魔された長槍の投げ手を探そうと、濁る視界を無理やり動かす。

 だがその必要もなく、声が降った。



「まったく、この島はゴミ臭くてかなわん」



 知らない女の声だった。磨き上げられたぎょくを打ち合わせたように澄んだ、玲瓏で蠱惑的な声。


「だがやはり、悪者まものの悪臭だけは隠しようもないな」


 しかしそこに含まれるものは、血が通わないように酷く冷たく高慢で。


「………師匠? 何でここに……」


 ザラの動揺した声を辿るように、サイルは最後の力を振り絞るように声のする方を見上げる。

 僅かに明るさを増した曇天の下にいたのは、この島にはあるはずのない尖った耳に、宝石のように輝く瞳、熟れた果実の唇、透けるような白皙――その美貌で神々をも惑わしたと伝わる、麗姿種オモルフィだった。

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