第49話 士は己を知る者の為に生く
徐々に川幅が狭まり、川面に浮かんでいた落ち葉も川床の石に阻まれて流れないほど水深がなくなってきた川を横目に見ながら、エメインは森の中をひたすら走り続けた。
イーシュが行ってしまったあとで、今の場所や位置関係を聞いておくのだったと後悔したが、それはすぐに解決した。
樹頭を見るまでもなく遠く轟音が響き、火事が二か所で起きていることが、ナハルからでも分かった。一方は火勢が弱まって黒煙が充満していたが、他方は火の勢いがどんどん増して、木々も倒れ続けていた。
サイルだ。
(行くしかない)
恐れは、やはりあった。
相手は
それでも、もう独り逃げ隠れする気はなかった。
今はもう、自分の出来ることを、したことを信じて動くしかない。
(お願いだから、少しでも効果があってくれ……!)
川沿いを上流に向かって走りながら、エメインは先程ナハルで法具に手を加えたことで、ずっと懊悩していた。
『これ、もしかして――』
法具を見ていた時、微かに零れた月明りに浮かび上がった彫言の文字を見て、ふと思い付いてしまったのだ。
『変えられるんじゃないか?』
浄化の神法は、死の神タナトスに祈ってその地一帯の不浄を消し去るものだ。だがこの法具は、その『地』をあえて『水』に書き換え、効果の範囲を限定していた。
頭の中でそれを理解した時は、変なことを考えるものだと思っただけだが、目に飛び込んできた文字を見て、違和感を抱いた。
彫言は専門分野ではないが、神に捧げるという点では神法と同じだ。より美しい文字や装飾をこそ至上とし、力が宿るとされる。
それが、不必要に不格好に彫り込まれている。
(手作りだからか?)
最初は、例の研究者がこの島に住んだ後に自作したからかとも思った。首都の工房で作られるような逸品が、この島で出来るはずもない。
だが
そう気付いた瞬間、エメインは貴重な文化遺産を傷付けるという恐れも罪悪感も忘れて尖った石を握り締めていた。刻まれた神言を詠み上げながら、ガッ、ガッ、ガッと三度、石の角を文字の中に押し付ける。
(頼む……!)
確信はなかった。根拠は皆無だし、閃きも経験ゆえではない。発想は児戯の謎かけにも劣る。
ともすれば、エメインのせいで川を浄化する力さえ無くなってしまうかもしれないという危惧も、当然あった。もし研究者がこれを想定して作ったとしても、エメインは彫言を習ったこともなければ、制作過程を見たこともない。完全な手探りだ。
川が湧き水程度に代わり、生木の焼ける臭いが濃くなるにつれ、とんでもない失敗をしてしまったのではないかという不安がどんどん強くなった。
自分の行動のせいで全員を助けることができなかったらどうしようと、今更に臆病風がエメインの足を鈍らせる。
けれど、どうしたいかは、もう決まっているから。
(イーシュが走ってるのに、僕だけ止まれるかよ)
怖くても、自信がなくても、走る。
(ザラ、待ってろよ)
絶対に、助ける。
「ハァッ……ハァッ、ハァッ……!」
島の中心部が僅かに台地になっていることに加え、森の中の温度が蒸し風呂のように暑くなっているせいで、エメインの息はすぐに上がった。
もう少しネフェロディス島が大きければ、肝心の敵に辿り着く前に一度行き倒れていたかもしれない。
だが幸運にも、その無様は免れたようだ。
「
「やめろ、ハイラム!」
「全員殺すと言ったろう」
燃え盛る森の向こうから響く、幾つかの声を拾う。
(いた……!)
どうやら、サイルはまだサイルのままのようだ。真っ先に落胆と悩乱がエメインを打ちのめしたが、今は悩んでいる時間すら惜しい。
(い、行くぞ……!)
本当なら、水の神法や防御の神法でこの炎を抜けるのが定石だろう。
だが今のエメインに神法を無駄撃ちできる余力はない。何より、ここに来たのは最後の一発を放つためだ。他の神法を同時に発動するなど、エメインには高等すぎる。
幸い、ズタボロになっても捨てずにいた外套を、川が地中に消える直前にびっしょびしょに浸してきた。それを頭から被って、エメインは重い一歩を踏み出した。
左右から迫る火の手を避けながら、枕詞を舌に乗せる。
「いと高きにまします世界を整えし始まりの神々が一柱、死の神タナトスよ。天より来りて、恵みの一滴をこの身に分け与えたまえ……」
死の神タナトスに祈ることは、生の神ビオスと同様、命を削る行為だと言われている。生と死に魅入られ、理性を失い、果ては道を踏み外すと。
だがそれは、何度も祈った果ての末路だ。闇雲に恐れていては、神は力を貸してはくれない。神に力を借りるのであれば、正しく畏れなければならない。
あとは、いつ神言を詠み切るかだが。
「――お前は、一体何なんだ……?」
「ッ!」
それより先に、ハイラムの首筋に剣を振り下ろそうとしていたサイルが、やっと森を抜けたエメインに気が付いた。
ザラの金の瞳が、憎悪を満たしてエメインを凝視している。
島に来た頃だったら、その眼に睨まれただけでエメインは腰が砕けていただろう。
だが今は、そんな素振りを毫も気取られてはならない。
エメインは声が震えないよう、必死に腹に力を込めた。
「ハイラムから手を放せ」
ゆっくりと、慎重にサイルとの距離を詰める。森の燃える黒煙のせいで分かりにくいが、ここまで来ればやはり全体に薄黒い瘴気が充満しているのが分かる。
その最も濃い場所が、サイルの体と、右額の角。
だが。
「……何をした」
「!」
次の問いに、まさかとエメインは心臓が跳ねた。
「お前は、何なんだ。弱いだけの
「ッ!!」
もしかして法具の効果がついに発現したのかと期待した瞬間、エメインのすぐ脇を風の刃が駆け抜けた。ガッと地面に亀裂が走り、背後の木々が火の粉を撒き散らしてどうっと倒れる。瀕死の外套が、跡形もなく塵に消えた。
(やっぱり、ダメだったんだ)
早く逃げてくれと、サイルの足下で動けないままのハイラムたちに目配せをする。その前に、サイルが一歩動いて割り込んだ。
「数しか取り柄のない弱者が……!」
「弱いからこそ、何にでも頼るんだ。神様にも……友達にだって」
「ハッ。頼る? 友達? それこそ弱者の思考よ!」
サイルが苛立たしげに侮蔑する。その言葉選びが今更で、エメインは恐れながらも呆れてしまった。
「人間種は、神の恩寵を受けたわけでも、神罰の代行者でもない。ただ最も愚かで、最も弱く、最も操りやすかったからに過ぎない」
勘違いするなと、歩みを止めないエメインに再びサイルが掌を向ける。薄黒い瘴気が、どろおどろしく集まり始める。
それでも、不思議と足は自分のものではないみたいに進み続けた。
「それが何だ?」
「……は?」
「人間種は人の間にまた人がいると言われる程飛び抜けて数が多いんだから、誰も気付かないなんてあるはずないだろ?」
神法の起源は、学問というよりも神話に近く、誰もが最初の学び場である神殿付属学校に通い始めてすぐに学ぶ。そのためか基本は神に感謝し、真心を込めて祈りを捧げ、常に清廉潔白であることで神は人を愛し、力を貸してくれるのだと教わる。
だが神法学校に入れば、嫌でも様々な角度からの研究や学術に触れる。
人間種が特別ではなく、常に失敗を繰り返しては、忘れ、幾度も神罰を受けてきたことを。神法を授けたのも消極的選択の結果にすぎず、深い愛があるわけではないと。
「それでも、神様は力を貸してくれる。だから、お願いするんだろ」
どんな力も、正しく使えば善いことができる。たとえそれが悲しみや憎しみや、弱さでさえも。
「……殺す。お前を真っ先に、徹底的に、殺さねばならない」
言いながら、サイルの金眼に殺意が確定し、初めてエメインに正面から体を向ける。
それを受けて、エメインは思わず笑ってしまった。
全く嬉しくないし、小さい肝は更に縮み上がったし、全身汗だくでなかったら、小便を漏らしていたかもしれない。
それでも、目的の一つは果たせる。
(向こうが見えていた腹の傷がもう塞がりかけているのも、良いんだか悪いんだかだけど)
だが今は、それでいい。
(今の内に、逃げてくれよ)
サイルの背後で膝を立てながらも、二人の一挙手一投足を注視し続ける
「死ね!」
「ッ!」
ハイラムたちが膝を上げたのを見届けるよりも先に、再び風の刃がエメインに向かう。咄嗟に両腕で顔を庇って身を低くするが、勿論何の役にも立たなかった。肩や腕がビッビッと容赦なく裂け、激痛が走る。
だが、この身はまだ真っ二つにはなっていない。
だから、祈った。死の神タナトスに捧げた枕詞の、その先を。
「ッ……、死の神タナトスは、死者の血と肉に穢され、怨念と憎悪とあらゆる不浄に満ちたその
神法は、世界を造り給えし神々に願い、その力の一端をお借りすることで奇跡を起こす。
その祈りを最も効率よく簡潔に整えたのが神言だが、簡略化せずに
だがそれには、必然的に支払う代償もまた大きくなる。肉体への負荷は無論のこと、何より大きな障害は。
「人間種など、そもそも一番の嫌われ者」
「!」
「強人種よりも先に一掃されねばならなかったのだ!」
詠唱する時間、つまり発動にどうしても時間がかかるということだ。
「ッ、こ、『この地には、私の導きを必要とする者があまたいる』……!ッ」
一気に距離を詰めたサイルが、今度は腕を振り抜いて火球を放つ。必死で善性種たちとは反対の方向に逃げるが、すぐに無様にすっ転んだ。背中に、煮え立った鍋を引っくり返したような熱が広がる。
「あァア……ッ」
だが、まだだ。まだ口は動く。
「……ッ、『私は、与えよう……ッ。死の中に生があり、生の中に死があるように、破壊と終焉の中に死と再生はある』――」
「させるか!」
「ッぐが!」
這いつくばって逃げていたエメインは、ズドンッと背中に重い衝撃を受けて、体を地面にめり込ませた。エメインの背中を踏みつけたサイルが、今度はエメインの首を締め上げる。
(こ、声が……ッ)
「魔法が当たらないのなら、直接攻撃するだけだ」
それは単純で原始的な手法だったが、今のエメインには最も効果的と言えた。
「何の神法か知らんが、使わせるわけがないだろう?」
「……ッ、ッ……!」
ギシギシと皮膚が絞られる音が聞こえる程、サイルの両手が喉に食い込む。発声も息もできなくて、それでも無理に絞り出そうとして、ヒューヒューと喘鳴が漏れる。
苦しいと、思う余地さえない。
「お前を殺して、次は善性種だ。この島にいる奴は、全て殺す。その次はテュエッラだ」
耳裏に囁かれた言葉に、思考が止まりそうになる頭の中で戦慄した。
テュエッラとは、神代に人間種に与えられたアイルティア大陸の、嵐の島と呼ばれていた頃の古称だ。どうやって他の島に行くのかは知らないが、サイルは人間種を根絶やしにする気らしい。
そこまで本気にさせたのは他でもない、エメインだ。
(あと、一節、なのに)
声が出ない。体中を巡る血が滾り、目眩がし、吐き気が込み上げ、確実に神法の気配は強まっているのに。
(死ねない……このままじゃ……)
エメインは半ば白目を剥きながら、首を掴むサイルの血だらけの指を掴み返した。
だが背中を押し潰され、首を万力で締め上げられて、力の入るはずもなく。
(ザラ、を……たす……)
意識が濁って、消えていく――
「ガッ……!?」
その最後の一瞬に、ふっと首を絞める力が緩んだ。堰き止められていた空気が一気に気管を通って喉を灼く。
ガハッと噎せるばかりで頭上を振り返る余裕すらないエメインには分からなかったが、いまだ燃え盛る森の際まで逃げていたハイラムが、折れていない投矢器と矢でサイルの背中を貫いたのだ。
だが浅い。
「この……!」
サイルが目を血走らせて投げ手の青眼を睨む。
だがその一瞬で、十分だった。
エメインの思考は霞んだまま、突然冴えることもない。誰が助けてくれたのか、そもそも何が起こったのかも分からない。
それでもただ、最後に残った意識に突き動かされるように、言葉を紡いだ。
「……『浄も、不浄も、ことごとく洗い去り』」
今はこんな、不格好な祈りだけれど。
(お願いだ、神様……)
聞き届けてほしい、と。
「『全ては死に絶える』と」
朦朧とする意識の中、掠れて誰にも聞き取れないような酷い声で、ついに言い切る。
その瞬間、エメインを中心にして、嵐が落ちてきたかのようにその場の薄黒い瘴気が打ち払われた。
「な――!?」
サイルの驚愕の声が聞こえた気もしたが、もうエメインの耳も意識も何も拾ってはいなかった。いつもの数倍の吐き気が込み上げ、またオエッと胃液を吐き出す。
だがそのお陰で、呼吸が少し楽になった気がする。だがきっと、それだけではない。
通行証に刻まれた中和の彫言でも完全には防ぎきれていなかった周囲の瘴気が、明らかに薄まったのだ。
ナハルの法具に刻まれていたのと同じ、浄化の神法の効果で。
(できた、のかな……)
死の神タナトスの御手により、その場に満ちる歪なもの全てに終わりを告げる。攻撃でも、防御でもない、ただ全てをあるべき姿に戻すだけの神法。
だがこれで、サイルの力の源である瘴気も
「……よくも……!」
どうやら、そこまで都合良くはいかないらしい。それに、神法で得られる効果は一時的だ。永続的な島の浄化は、とてもではないがエメインには不可能だ。
だが今は、その一時で十分だ。
「人間種の分際で、よくも、よくもよくもッ――
――よくやった」
「…………へへ……」
懐かしい声色が、エメインの無様な献身を受け止めた。
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