第48話 眼中より釘を抜け
その鳴き声を聞いた時、小馬鹿にしたサイルには黙れと怒鳴ったが、ハイラムも内心ではイーシュまで気が触れたかと思った。
ザラは再びサイルに完全に意識を奪われ、ハイラムは満身創痍。ザラの下手な挑発などなくてもサイルごと殺すことに躊躇はないが、本当はもうまともに走るのも難しい。
それが、こんな時に『ナハル』と『撤退』とは。
(声など届かない)
ハイラムの呼びかけに応えてくれた仲間たちはもう虫の息で、鳴き声が聞こえていても動けない。残してきた仲間たちは、ここから最も遠い場所――北の海岸に既に辿り着いた頃だろう。
ましてや、数日前までエフェスだったイーシュの声など。
そう思ったのに。
「何をする気だ!?」
「!?」
サイルが目の色を変えて、ハイラムではなくセファを攻撃した。勿論攻撃は通らない。
だがその砂煙が消えて視界が晴れる前に、ハイラムもまたそこに起きた異変を察知した。
「……消えた?」
鋭い嗅覚と聴覚を持つ
それはまるで、一夜の内に森を潰す嵐のような、神代の精霊が起こした気紛れのような、一瞬の出来事だった。
だがハイラムがそう感じるのも、無理のないことだった。
ハイラムはネフェロディス島で何十年という長い歳月を過ごしたが、そのせいで神法についての知識は皆無だった。だからこの現象へも、すぐには理解が追いつかなかった。
だが。
「空間移動……?」
サイルが愕然と呟いた単語に、ハイラムは遅まきにもこれもまた神法の内かと理解した。
「今更、どこに……っ」
サイルが、ハイラムへの警戒も忘れて周囲に目を血走らせる。
今が好機と思いながらも、ハイラムもまた消えたイーシュの行方を思った。
頭の中で、先程聞いた鳴き声が響く。
『ナハル』『撤退』
一人で逃げるだけなら、合図など要らない。合図は、仲間との連携を取るために用いるものだ。つまりイーシュは、仲間に何かを伝えたくて声を上げた。
(今更……本当に)
イーシュのことが、どんどん分からなくなる。
イーシュにとって、仲間とは何なのか。何のために変化を望むのか。
(イーシュ、
出来るなら、すぐにでもそう問い質したい。だが今は時間がない。
サイルが消えた二人の次の手に警戒している間に、奴を殺すか、仲間を起こして逃げるか。
今のうちなら、この火災に紛れて逃げればある程度は距離を稼げるはずだ。既に強人種の肉体を手に入れたサイルにとって、ハイラムたちは無理に追いかけてまで殺す対象ではなくなったはずだから。
(ヤミン……ハーム……)
サイルが闇雲に放つ魔法や、周囲の木々が燃える音にも掻き消えるほどの声量で、倒れたままの仲間に呼びかける。
(ミーカー、ロート、ナフーム、ノオミー、ルート……誰でもいい、返事をしろ……!)
返事はない。だがまず、ヤミンの肩がぴくりと動いた。水の加護を持つ者は、治癒はできないが自身の止血なら可能だ。朦朧とする意識の中で、どうにか自らを繋ぎ止めてくれていたようだ。
だが仲間を皆逃がすには、やはり風の加護がほしい。
もう一度ミーカーたちに呼びかけようと、ハイラムが彼らに歩み寄った時、
キュゥゥー……キュゥキュゥキュゥ……
また、同じ鳴き声が遠く聞こえた。驚いて耳を澄ませば、繰り返し同じ合図を叫んでいると気付く。
聴こえてくるその方角は。
(東……ナハルの方?)
まさかと、思わず少しだけ藍色が薄まりだした東の空を振り仰ぐ。
(本当に、合図の通りに空間移動したのか?)
その事実が導かれれば、もはや何故と考える隙もなく、ハイラムもまた顔を上げて喉を反らし、獣の声を上げていた。
クゥゥー……クゥクゥクゥ……!
ここに来てと叫び続けるイーシュの声に呼応するように、遠吠えする。より遠くまで届くように、細く高く。
(ハイ、ラム……)
「!」
か細い声が、すぐ近くから聞こえた。ミーカーだ。サイルの目を盗んで僅かに駆け寄る。
(立てるか)
見るからに全身の羽根が血だらけのミーカーに、我ながら酷なことを訊く。だが皮肉屋なミーカーは、円らな瞳を半分も開けられないくせに、にやりと強がって肯定した。
(とーぜんだ……)
(ならば皆でナハルに向かうぞ)
(ちぇー……休憩は仕舞いか)
ミーカーが、体中の羽根を揺らして軽口を叩く。そこに、影がかかった。
「「!」」
咄嗟にハイラムとミーカーが互いを押しのける。その中間に、取り上げたはずの剣がサイルの怒号とともに振り下ろされた。
「また獣が、耳障りな!」
「ッ、ミーカー、無事か!?」
立て続けに斬りかかるサイルから逃れながら、起き上がろうとするミーカーから距離を取る。
その鼻先を、剛力な剣先が抉るように横切った。ビッと皮膚が切れ、血が剣筋を追う。
「ッ」
「心配せずとも、全員殺してやると言っただろう!」
そこからはまた、サイルが怒り狂ったようにハイラムたちへの攻撃を再開した。
「どいつもこいつも弱いくせに目障りな!」
目の下をざっくり斬られ均衡を崩したハイラムめがけ、サイルが手の平を向ける。
「強いのは私だ! 私だけが絶対的に強いのに! いつまでも無駄な抵抗を!」
そこから炎が噴き出し、体を捻って避ける――その時に晒してしまった灰銀色の尻尾を、千切れるくらいに掴まれた。
「ア″ァ″ッ」
反対の手に握られた剣が、その根元を狙う。
「私は私だ! 貴様など、要らぬのだ!」
繰り出された剣がブヂッとにぶい音を立てて毛の下の骨を貫通し、地面をも深く穿つ。そして掴んだままだった尻尾の先を、強引に引き千切った。
「ッぐぁア″ア″……ッ!」
刹那、雷に打たれたような激痛が全身を貫いた。視界が真っ赤に明滅し、土埃にまみれながらのたうち回る。根本から千切れた尻尾からビュッビュッと噴き出した血が、その後をなぞるように点々と地面の上に続いている。
とても、腹にも背中にも穴が開いている者の力ではない。
「「ハイラム!」」
ヤミンとミーカーの声が重なる。
(バカが……!)
逃げる時間を稼ぐ意図だったのに、激痛に意識が持っていかれて声が出なかった。仲間たちが動けるのは朗報だが、ハイラムを置いて逃げてくれなければ、全ては徒労に終わる。
(倒れている場合か……!)
ハイラムはアハトだ。アハトは群れの仲間を守るためにある。守られているようでは、何のための役か。
「まだだ……ッ」
痺れて感覚の鈍った尻尾の先から、心臓が脈打つ度に鮮血が零れる。体中の痛みが限界を超えたのか、獣の耳の奥でキィーンと煩い程の耳鳴りがしている。
それでも、倒れるわけにはいかない。
ここで時間を浪費すれば、腹の穴も背中の傷も、強人種の脅威的な治癒力によってすぐに塞がってしまう。そうなれば、ザラの文字通り身を削った行動も無駄になる。
「
既に矢も尽き、折れた
「やめろ、ハイラム!」
ヤミンの制止の声に混じって、風が大きく動く気配がする。ミーカーの風の加護だ、と肌で感じる前に、
「全員殺すと言ったろう」
「!」
サイルの怨嗟混じりの囁きが
(しまっ――!)
首筋から染み込む鋼の冷たさに、死を予感する。
そこで、時が止まった。
ひやりとする感覚は一向に消えないのに、いつまでも鋭利な痛みがやってこない。
何故と目玉だけを動かした時、
「――お前は、一体何なんだ……!?」
サイルが、あらぬ方へ向けて微かに震えるような声を張り上げた。まるで未知のものにでも遭遇したかのように、金色の双眸を驚愕に見開いて。
その視線の先で、声がした。
「ハイラムから手を放せ」
何とも頼りない、微かに震えた男の声が。
◆
血に染まった灰銀色の長髪ごと、その骨張った首を斬り落とそうとした時、サイルは悪寒を感じて顔を上げた。
(この、感覚は……!)
それはかつて灰界にいた時に嫌という程この身を絡め取り、力を奪い続けてきた
(いや、有り得ない)
灰界の扉と、それを塞ぐ封鎌ズレパニは神々の作った封印だ。
だが神々は既に地上にはおらず、必然、この気配が
(どこから……!?)
手元のハイラムなど最早眼中にもなく、気配の発生源を求めて視線を彷徨わせる。
燃え盛る周囲の木々の間をくまなく見渡し、そして見付けた。
その小さな
――……エメイン……
奪ったザラの体よりも小さく、厚みもないひ弱そうな生き物。滲む覇気はなく、使えるはずの神法の重圧も感じない。
脅威とは真逆の存在。
だというのに、鳥肌が立つほどに怖気が走った。
「……何をした」
既にろくな抵抗もできないハイラムを打ち捨て、静かな表情で森から歩み出てくるエメインに向き直る。
「お前は、何なんだ」
見れば見る程弱々しいのに、サイルに近寄る足取りに恐れはなく、何か得体の知れないものが迫ってくるようにさえ感じる。
既に内臓も皮膚も塞がり始めているはずの腹の傷が、耳障りなほどじゅくじゅくと傷んだ。
「弱いだけの人間種のはずだろう!?」
サイルはその苛々を爆発させるように、エメインに風の刃を叩きつけていた。ガッと地面に亀裂が走り、背後の木々が火の粉を撒き散らして倒れる。
だが、肝心のエメインには僅かに逸れていた。完璧に殺して抑え込んだはずのザラの意識が、頭の中で再び抗い始めている。
サイルは忌々しいその声を、強く踏み出すことで振り払った。
「数しか取り柄のない弱者が……!」
「弱いからこそ」
苛立ちを増すサイルの声に、やっとエメインが応えた。緑褐色の瞳に、燃え盛る炎の赤を映して、真っ直ぐにサイルを見つめ返す。
「何にでも頼るんだ。神様にも……友達にだって」
「ハッ」
あまりに下らない返答に、サイルは苛立ちと怒りが混ざり合って言下に吐き捨てていた。
「頼る? 友達? それこそ弱者の思考よ!」
それまで感じていた微かな恐れが、高らかな嘲笑とともに消え去った。
神が人間種に力の一端を貸し与えることを許したのは、そもそも神の御業を盗んだ
人間種はそれを、最も敬虔で篤信であることを神に認められたゆえだと信じているようだが、他の五種族にそんな間抜けな理由を信じる者などおりはしない。
人間種が選ばれたのは単に、授けられた知恵を悪用する力がなく、神を妄信するように仕向け易い程に愚かだからだ。
決して脅威にはなり得ない種。そこには神の――世界の支配者の打算しかないと、人間種以外の誰もが知っている。
「人間種は神の恩寵を受けたわけでも、神罰の代行者でもない。ただ最も愚かで、最も弱く、最も操りやすかったからに過ぎない」
勘違いするなと、歩み寄り続けるエメインに再び魔法を帯びた掌を向ける。
だというのに。
「それが何だ?」
「……は?」
エメインは、足を止める気配を微塵も見せず、そう問い返した。
「人間種は六種族中最も数が多いんだから、誰かはそんな風に考えることだって、普通あるだろ?」
自身に向けいつ魔法が発動されてもおかしくないサイルの指先を前に、不思議そうに小首を傾げる。退路は炎で塞がれ、眼前には強人種がいるというのに、それはどこか異様に映るほど呑気な仕草で。
「それでも、神様は力を貸してくれる。だから、誠心誠意お願いするんだろ」
真っ直ぐに、非力な人間種はそう言った。疑うことなく、純粋に。
だがサイルの目には、その純粋さこそが狂気に映った。
(有り得ない……)
人は、神々の血より生まれて以降、神々に何度も見捨てられてきた。神々の争いに翻弄され、自由に振る舞えば傲慢だと粛清され、大地も海もまとめて引っくり返された。
その上で更に地上の勢力図を神々の思い通りにするためだけに騙され利用されてきたと知ってなお、その相手に祈りを捧げ、願うという。
そんなもの、強人種には決して肯定できない考え方だ。
――よく分かんねぇよな、あいつ
(有り得ない……ッ)
やられたら、倍にしてやり返す。騙されたら騙し返して搾取し、利用されたのなら利用し返して勝利する。それが出来ないのなら、消すだけだ。
祈って、頼って、願うなど、尋常の沙汰ではない。
――だが、あいつはそれが出来る。自分の弱さと、真正面から向き合っているから
(有ってはならない……!)
地べたを這う蟻よりも無力と侮っていたはずの存在が、いつの間にか奇妙で気持ち悪い眼中の釘にしか見えなくなっていた。
サイルには決して理解することのできない、正反対の異物。
「……私は、どうやら思い違いをしていたようだ」
サイルは、着実に距離を縮めるエメインを凝視したまま、右額の角に最大の魔力を向かわせた。
「殺す。お前を真っ先に、徹底的に、殺さねばならない」
理解できない異物は排除する。
それが、世の理だ。
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