第47話 思いて進まざれば即ち罔(くら)し

 キュゥゥー……キュゥキュゥキュゥ……


 どこか悲しげな鳴き声が、遠く木霊している。何度も、何度も。

 その合間に、途切れることのない水音が鼓膜の裏側を流れ、そして。


 ごんっ


「……っ」


 球がおでこに当たるような痛みもまた、何度か感じ始めていた。


「……イン、エメイン! ねぇ、起きて! 起きてったら!」


 そして感覚が戻り始めると同時に、イーシュの必死な声もまた鮮明に届きだす。


「エメインってば!」


 ごんっ


「ぶっ」


 今度は頬に痛みを感じ、エメインは今度こそはっきりと覚醒した。まだ酸っぱい唾を飛ばしながら、ビシャンッと水の中に落ちる。


「な、何が……?」

「エメイン!?」


 くらくらする頭を持ち上げて辺りを見渡せば、イーシュもまた水に濡れながらエメインの顔を覗き込んでいた。


「やっと、気が付いたぁぁ……っ」

「え、え? イーシュ?」


 エメインの間抜け面の何にそんなに安堵したのか、イーシュは脱力するようにエメインの胸に縋りついた。

 えっぐえっぐと変な泣き声に合わせて揺れる丸い耳を見下ろして、エメインはやっと自分の発言を思い出す。


「あっ、そっか。僕、気絶して……どのくらい気を失ってた?」

「す、少しだけ……。突然吐いて倒れるから、しっ、死んじゃったかと……っ」

「だ、だよね」


 力加減への抵抗が少しは減ったとはいえ、第一の神々に祈るのはやはり負担が大きすぎたらしい。やはり突然兄たちのようにはなれないようだ。


「でも、ちゃんと仲間を呼んでくれてたんだね」

「だって、エベルの傍にいれば安全って、エメインが言ったから」


 どうにか涙が収まってきたイーシュの頭を撫でれば、素直な返事があった。

 やはり夢現に聞こえていたのは、イーシュの鳴き声だった。川と群れとの位置関係が分からないが、第一結界プロートン内より近付いたのだろうか。


「反応はあった?」


 善性種エピオテスを全員この川に集めなければ、折角の移動も意味はない。

 だがイーシュは、ふるりと首を横に振った。


「ううん。でも、近くにはいる。海の方に向かってるみたいだから、呼んでくるよ」

「海? 何で……ハイラムの指示かな?」


 火災から逃れるのなら、海まで移動する必要はない。だがサイルという脅威を考えれば、封鎌ズレパニから最も遠い場所――海まで行くのは、一つの選択だ。

 問題は、その理由をどこまでハイラムが仲間に説明したか、だ。もししていないのであれば、イーシュの説得は難航するだろう。

 その心配を口にすれば、イーシュは早くも立ち上がりながら考えがあると胸を叩いた。


「ハイラムの指示って言えば、きっと大丈夫だよ」

「えっ」


 笑顔で詐偽さぎを宣言された。

 それはつまり、何の根拠もないエメインの提案を、アハト=ハイラムの指示だと偽って導くということだ。

 話を聞いてもらうには、確かに最も確実そうには思えるが。


「でもそれって、バレたらめっちゃ怒られるんじゃ……」

「大丈夫。ぼくにとっては、同じだもの」

「…………」


 目尻はまだ赤いのににっこりと笑みを返され、エメインは思わず反駁を忘れてしまった。


(それは、言い過ぎだ……けど)


 今は怒られても恨まれても、全員の安全が最優先だ。エベルに期待した効果がなかったのなら、その時はまた皆で次の策を考えればいい。


「じゃあ、任せる」

「うん」


 イーシュが、少しだけ満足げな色を見せて頷く。それからすぐに水から上がると、川沿いを下流に向かって走り出した。


「僕も、行かなくちゃ」


 川床の石や膝を支えに、ふらふらしながらも立ち上がる。やはり神法の使い過ぎらしく、貧血のような症状がする。どっぷり水に浸かっていたお陰で、少しだけ回復してはいると思うが。


「あと一回、使えるかどうか、かな」


 神法は修練を積めば使用回数や威力も上がっていくが、急激に成長することはないし、個々人の成長限界がある。身の丈に合わない神法を使えば心身に異常をきたすこともあると、授業で習った。


「攻撃か、浄化か……」


 サイルに最も効果的な神法を、それまでに導き出さなければならない。

 そのためにも、まずはこの六角柱の法具を識る必要がある。


「もし効果を拡張できるなら、それが一番良いと思うんだけど」


 じゃぷじゃぷと浅い川を遡り、改めて六角柱をまじまじと見つめた。

 ここには花灯りも火もないが、薄雲の向こうからぼんやりと零れる月明りで、どうにか表面が見える。

 川床から立つ、膝程の高さを持つ完璧な六角柱。夜を閉じ込めたような深いこしあい色の鉱石で、その表面はまるで鏡のように均一に磨き上げられている。

 法具に用いていることからも、恐らく神法の蓄積率が最も高い無退石ニフタスフェラを加工したものだろう。


「どこかに彫言が……あった」


 慎重に表面を撫でれば、上端の方に彫り込みがあるのを感じた。薄闇では何が彫ってあるか読みにくいが、目を凝らせばどうにか読み取れる。


「枕詞と、やっぱり浄化の神法……いや、『地』が『水』に変えてある?」


 浄化の神法は、終焉と破壊を司る死と再生の神タナトスに祈ることで、一切の不浄を消し去るものだ。その神言の一部を水に変更することで、法具の効果を川に限定しているようだ。

 だがこんな大きな法具を製作できるのなら、島全体を浄化することも不可能ではなかった気がするのだが。


『変人だろ』


 勃然と、水汲みに来た時のザラの発言が思い出された。つい苦笑が漏れる。

 もしかしたら、あえて限定しているのは、特殊な進化を遂げたネフェロディス島に与える人為的な影響を最小限に留めたいと考えたからかもしれない。


「頭の良い人は本当に、何考えてんだか……」


 長兄や、ある意味天才肌の次兄も、凡人のエメインからすれば半分くらい言動が理解できない。と考えた時、ふと手元が明るくなった。


「?……雲が」


 振り仰げば、背中側から一筋、か細い光が射していた。風に吹かれて、一時雲が散らされたのだ。

 だからこそ、気付けた。


「これ、もしかして――」




       ◆




 ナハルは、群れの南端と石棟のおおよそ中間にある。沢が丘の谷間の低い位置にあるため、エメインには見えなかったようだが、ナハルを下って森の開けた場所まで走れば、群れを覆う赤い炎が嫌でも見えた。


「少し、火が落ち着いてる」


 イーシュは、走る足を止めないまま背後を何度か振り返った。

 時間はそれ程経っていないはずだが、周りの森へ延焼することもなく鎮火に向かっているように見える。恐らく、ハイラムが避難を指示しながら木々の一部を切り倒すか何かしたのだろう。


「きっと、みんな無事だ」


 ひりつくような願いを込めて、小さく声に出す。

 心の底では、群れの仲間に追いついた時どんな顔をすればいいか怖くて仕方がないが、今は走るしかない。

 エメインは狩りも採集も苦手だが、日中でなければ人並みには行動できる。特に今日はサイルの気配に怯え、魔獣がこぞって巣に籠っているから、一直線に進める。

 果たして、慣れない全速力で汗だくになった頃には、北の海岸で不安そうにしている仲間を見付けることができた。

 桟橋のある南と違い、北は高台が荒波に削られたように切り立った断崖になっている。とは言っても高さはそれ程なく、波飛沫は足下にかかるし、辺りには大波に打ち上げられたゴミも散乱している。


「トビト! イラナ!」


 木々やゴミの少ない一帯に、二十人以上いる仲間を一人ずつ確認し宥めている二人を見付け、イーシュは息を切らして坂を駆け上った。


「イーシュ? うれ……」

「よくも顔を出せたな!」

「っ」


 驚くイラナとは対照的に、トビトが小柄な体を総毛立てて迎え出た。

 イーシュは咄嗟に体が竦んで、言うべき言葉が全て吹き飛んでしまった。


「ご、ごめん……っ」


 耳と尻尾を伏せ、反射的に両手で体を守る。

 頻度は少ないが、トビトもまたマァラトに来たことがあった。彼の怒りは瞬間的で、大抵は一度殴れば終わりというたちだが、今回のことはさすがに許さないだろう。


「ごめ……ごめん、ぼく……ッ」


 長年染みついた恐れから反射的に目を閉じる。すると一瞬で、ここが海岸からあの薄暗いマァラトになったような錯覚に襲われた。


(怖い……っ)


 だがそこにざざん、と波の音がして、イーシュはハッと目が醒めた。


(……違う)


 ここは逃げ場のない、悪意の最後の掃き溜めじゃない。

 ここには、自分の意思で来たのだ。


「謝れば済む話じゃないだろ! そもそも、何で――」

「……謝らない」


 詰め寄ってイーシュの髪を掴み上げたトビトを、イーシュは真っ直ぐに見上げた。

 勿論、突然勇気が湧いたわけでも、震えが止まったわけでもない。トビトやイラナの目に宿る嫌疑の色は背筋が凍る程怖いし、後ろで不思議そうにイーシュたちを見ている他の仲間たちが、何をどこまで知っているのかと考えれば、今にも逃げ出したくなる。

 だが、今ここで引いたら、何もできない。それこそ、イーシュが願ったものとはかけ離れた形で仲間が犠牲になる。


(そうじゃないんだ)


 変わりたいと願ったのは、仲間が憎いからでも、復讐のためでもない。

 誰にも左右されないくらい強く、自分を信じられる自分になりたかったのだ。

 そのために、誰もが認める善き人になることが必要だと思い込んだ。


(でも、違ったんだ)


 変わりたいと願うのならば、ほんの少し顔を上げ、前を向くだけで良かったのだ。

 心臓が破裂しそうに怖くても、心の奥底まで冷たく見透かされそうでも、誰からも否定され、押さえ付けられると感じても。

 ただ、今のように。


「は? 開き直る気か?」


 イーシュの白灰色の髪を忌々しく引き寄せて、トビトが丸い目をぎょろりと肉薄させる。

 それだけでイーシュの心臓は益々動悸が速まったが、もう言葉を見失うことはなかった。


「ぼくは、みんなを助けたくてここに来たんだ」


 エメインに、約束したから。


「……何を、今更」


 トビトが、今にも怒鳴り出しそうに奥歯を見せる。その前に、イーシュは言葉を滑り込ませた。


「島は今どこも危険なんだ」

「汝のせいだろ!」

「ッ」


 ガッと、トビトの拳がイーシュの顔面にまともに入った。強烈な痛みに視界がチカチカと明滅したけど、泣く前にその拳にしがみついていた。


「お願いだから聞いて!」

「!?」

「安全なのは、ナハルのエベルだけなんだ。だから皆には今すぐ移動してほしい」


 いつも蹲って震えるだけだったイーシュの予想外の行動に、トビトが驚愕する。一方で、普段通り観察の姿勢を崩さなかったイラナが、得心したように口を開いた。


「撤退の合図……やはり汝か」


 やはり聞こえていたのかと、イーシュは内心で悲しくなった。彼らは合図が聞こえていても、ハイラムの指示に従った。今が非常事態だと承知でも、聞こえた声がハイラムのものでなかったから。


「ハイラムは汝を追いかけた。ハイラムの指示か?」


 イラナが、最も重要なことだと言いたげに問う。

 そうだ、と言おうと思った声は、何故か直前で喉に引っかかった。


(ハイラムじゃない)


 彼らを案じ、彼らのために吐いて倒れる程頑張ってくれたのは、エメインだ。

 目的のためにはハイラムの名も使うと言ったけれど、ここにきてどうしても、それができなかった。

 だから代わりに、本当のことだけを伝えた。

 心の中だけで、エメインを想って。


「ぼくを助けてくれたんだ。今も……戦ってる」

「戦ってる? 魔獣とか?」


 トビトが、こんな時にと言いたげに眉根を寄せる。その事実はなかったが、実際群れに危機が迫れば、それを好機と魔獣が攻め寄せることは、今までにも幾度かあった。

 イーシュはあえて否定せず、イラナとトビトをまっすぐに見上げた。


「みんながナハルにいてくれれば、それだけで助けになるんだ」


 思えば、こんなにも自分の想いを伝えたことも、伝えようと思ったことすらなかったと、今更ながらに気が付いた。

 怖かったのもあるが、それ以前に、誰にも伝わらないと思っていた気がする。声も、その意図も。

 それがただの思い込みだとは、イーシュは思わない。

 エフェスは特殊で、同じ境遇の者はおらず、悲しみはイーシュ独りだけのものだった。

 だがその悲しみが誰とも正確に共有できなくとも、その一片が届くまで、少しでも伝わるまで、伝える努力を続ければいいだけの話だった気もする。

 それがとても困難なことだとは、今も思うけれど。


「全部が終わったら、ちゃんと、みんなに謝る。だから今は、お願い」


 前を向いて、目の前の人の顔を――目を見る。想い続ける。

 それは、弱くても出来るから。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る