第46話 死んで花実が咲くものか

 ザラは死のうとしている。

 サイルに奪われていた体を半ばまで取り戻したザラの行動に、エメインは嫌でもそう推測せざるを得なかった。


「ダメだザラ、まだ手はあるよ! だから……ッ」


 だが結界の中からどんなに叫んでも、ザラがその方針を覆すことはなかった。ハイラムを挑発し、瘴気に取り込まれた自分を殺せと迫る。

 エメインは涙が出そうだった。あまりに悔しくて。


「僕に賭けるって、そういう意味じゃないだろ!?」


 エメインがザラに賭けると言ったのは、ザラならどんなに困難で不利な状況でも、諦めずに勝機を掴んでくれると思ったからだ。

 だがザラのそれは、諦めているだけだ。エメインに賭けると言いながら、エメインを少しも信じていない。


「手はあるって、言ってんのに……ッ」


 今までザラの力になれなかった自分に、信じられないほど腹が立った。ザラにエメインの言葉が響かないのは、ひとえにエメインに実績がないからだ。

 だが、届く者もいた。


「手って、何のこと?」


 群れの仲間が皆ほとんど動かなくなってしまった光景を目の前に、壊れたように泣き続けていたイーシュが、傍らのエメインを見上げていた。


「ハイラムは……皆は助かる? ねぇ、エメイン。ぼく……ッ」


 こんなのは嫌だと、イーシュがまた顔をくしゃりと歪める。その涙が頬を伝う前に、真っ赤に腫れた瞳ごとイーシュを抱き締めた。


「っ、エメ……?」

(聞いて、イーシュ)


 戸惑うイーシュの声を遮って、白く柔らかな丸い耳に小声で囁く。


(島にある川で、決して汚れない沢が一つあるよね)

(え? うん……ナハルのこと?)


 イーシュが腕の中でもぞもぞと顔を上げながら答える。

 島には、エメインたちが水汲みをしていた沢以外にも幾つか川の痕跡はあった。だが乾季のせいか、その半分近くは干上がっていたはずだ。

 それでも生活用水程度なら、瘴気の滲んだ川水でも、雨水でも事足りるだろう。だが飲用には、綺麗な水が必要なはずだ。


(そのナハルに、六角柱の変な石があるよね?)

(……ある)

(あれは瘴気を浄化している)

(……浄化?)


 イーシュは、ピンと来ていないように首を傾げた。

 どうやら善性種エピオテスたちは、その川一本だけが何故特別なのか、理由を知らないで利用していたらしい。神法に縁のない善性種たちには、結界や法具と結びつけることはないのかもしれない。

 実際、瘴気に体を慣らし、魔気ゼーンに影響されない善性種たちには実感がないかもしれないが、今はそれが最も重要なことだった。

 サイルは、自身のことを「瘴気そのもの」だと言っていた。瘴気の満ちた場所のことは、おおよそ分かるとも。

 逆に言えば、瘴気の及ばない場所のことは分からない――手が出せないのではないか。


(その六角柱の所に群れの皆を集められれば、サイルは手出しできないはずだ)

(エベルの傍にいるだけで、いいの?)


 イーシュの言葉に、エメインは小さくない葛藤を呑み込んで頷いた。

 六角柱――彼らのいうエベルの効果がどれ程のものかは、エメインにも定かではない。エベルは水にしか作用しないかもしれないし、サイルが本気になれば、簡単に突破されるかもしれない。

 こんなことになるなら一度ちゃんと調べておけば良かったと、自分の向学心の無さに心底嫌気が差した。

 エメインは毎日水汲みに行ったのに、その恩恵を何も考えずに受けていた。学者たちだったら、きっと何時間も動かずに調べ続けただろう、貴重な遺産だったろうに。

 だがその学者たちも、今年の調査班に水文学者がいなかったからか、川や海に関しては素通りしていた。

 だが浄化という可能性では、六角柱以外にはもう望みはない。

 ここにいては、ザラがどんなに抵抗し続けても、別の体がある限りサイルに終わりはない。

 だが逆に言えば、それを防ぐことができれば僅かでも勝機はあるとも言える。


(出来る?)

(……やってみる)


 腕の中で頷くと、イーシュは細く長く息を吸い込んで空を仰いだ。


 キュゥゥー……キュゥキュゥキュゥ……!


 鈴のような澄んだ高音が、結界内の瘴気を揺らして天に昇っていく。それは不思議と心に響き、見えないはずの音の行く先を一時、見送ってしまった。


(この声は、どこまで届くんだろう)


 ネフェロディス島は小さな島だ。半日あれば外周を徒歩で踏破できる。だが避難中の他の善性種にも届いたかどうかは確かめようがない。


(まだ……まだ足りない)


 エメインはつい聴き入ってしまったが、ザラの意識を奪ったサイルに攻撃を続けていたハイラムは、驚愕したようにイーシュを振り返った。


「何を……、ッ」


 その一瞬の隙を逃さず、サイルがハイラムを風で切りつける。


「最期の断末魔か? これだから獣は!」

「ッ、黙れ!」


 一方で、辺りに倒れていた善性種たちの耳が、ぴくりと反応した。どうやら、誰も死んではいなかったようだ。


(後で利用する気だったのか?)


 死体は脆いと言ってはいたが、ザラの体に満足しているのなら、生かしておくのは危険でしかないはずだ。


(もしかして、ザラが……?)


 サイルに乗っ取られながらも、僅かに残ったザラの意識的がぎりぎりのところで急所を避けてくれたと考えるのは、少し希望的に過ぎるだろうか。

 それにしても。


「鳴き声、初めて聞いた」

「鳴き方で決まった合図があるんだ。今のは“ナハル”と“撤退”っていう意味」


 思わずただの感想を漏らすと、少し気恥ずかしげに答えが返された。


(暗号とか? でも、この島じゃ要らないよな?)


 人語を解する存在の方が少ないのに何故と思ったが、逆かもしれない。

 魔獣が鳴き声の型を覚えれば、互いに接触前から牽制できる。善性種を捕食する魔獣でなければ、無駄な衝突も減らせる。

 自然界では特別なことではない、普通の習性。善性種は、人と動物の長所を自然に活かしている。


「善性種って、凄いんだな」


 賢才種ソフォス強人種スクリロスに体を造り変えられ、人間種ピリトスにも虐げられ、不運と悲劇ばかりの人種かと思っていた。けれど彼らは、嘆くだけの弱い存在ではなかった。


「そ、そう?」


 イーシュが、面食らったように目を見開く。きっと、何が凄いのかも分からないのだろう。

 人の良さなどもしかしたらそんなものなのかもしれないと、ふと思った。


(イーシュ。今度はエベルのことを強く考えて)


 エメインはもう一度腕に力を込めると、再び声を潜めた。


(強く?)

(うん。あと、もし僕が気絶したら、殴ってでも起こして)

(え、なぐ……?)


 イーシュが、意図が分からないというように首を傾げる。それを可愛いと思いながら、エメインは口を開いた。


「いと高きにまします世界を整えし始まりの神々が一柱、空間の神コーロスよ」

「え、え……?」


 粛々と詠み上げた枕詞に、イーシュが驚いたように声を漏らす。けれどすぐにエメインにしがみつくと、力いっぱい目を閉じた。エメインが頼んだ通り、エベルのことを考えてくれているのだろう。

 エメインもまた、何度も水汲みに行った沢と六角柱の法具を頭に浮かべながら、祈りを捧げた。


「天より来りて恵みの一滴をこの身に分け与えたまえ」


 第一結界プロートン魔気ゼーンを決して通さないが、神法はその限りでないことは既に証明されている。懸念は、空間の神の力がどこまでエメインとイーシュを守ってくれるかということ。

 そしてもう一つ、ザラが扱える空間移動の神法は、好きな場所に自由に行ける万能の技ではないということだ。


「希うは神翼しんよくの陰、我らに安息を――」


 この神法は基本、神へ庇護を求め、窮地から逃れる脱出のための法で、移動先は血とえにしと、神のご意志に頼るしかない。

 法術や法具を用いれば移動先を指定することも可能だが、そんな都合の良いものはこの島には当然ない。


 神様お願い、ここから助け出して――!


 畢竟ひっきょう、体中の血を湧き立たせて、そう祈っているに過ぎなく。


「御許への招応……!」


 額に脂汗を浮かべ、どうにか神言を詠み切る。

 克服したと思っても、やはり急に何度も神法を使い続けるのは、負担が大きすぎたようだ。いつもの慣れ親しんだ吐き気が、喉元までせり上がる。


(ダメだ……!)


 途端、世界がぐらりと歪んだ。


「ッ?」


 腕の中のイーシュが、治癒の時とは違う変化に怯え、丸い耳を後ろに伏せる。

 そしてその変化に、サイルも気が付いた。


「なに――!?」


 聞こえたのは、そこまでだった。

 次の瞬間、世界が変わっていた。



 バシャン!



 派手な水音が上がり、次にバシャバシャッと頭に雨とは違う大粒の水がかかる。押しのけられた水が波を打って戻ってきて、エメインとイーシュの腰を洗う。


「……みず?」


 恐る恐る目を開けたイーシュが、信じられないという風にそう言った。

 つい先程まで砂しかなかったはずの場所が、刹那のうちに水の中に変わっている。

 辺りは荒涼とした荒れ地から鬱蒼とした森の中に変わり、視界が霞むほどに満ちていた薄黒い瘴気は、影も形もない。

 ただ、静かに流れ続ける沢の音が、島の夜に木霊している。


 ここなら安全だよと、神様が導いてくれた場所。


 その結果は、自分が祈ったという以上に、神法という不思議の業を知っていてもなお信じがたい奇跡に感じた。


「エベルだ……」


 腕の中で首を捻ったイーシュが、驚いたように呟いている。きっと視線の先には、川の真ん中に立つ傷一つない完璧な六角柱の石があるのだろう。

 それを朦朧とした意識の中で聞きながら、エメインはもう目を開ける力もなかった。


(かみさま……)


 ただ、神という存在を想った。

 神法士は神に祈りを捧げ、その力の一端をお借りして奇跡を起こす。神を信じ、神に感謝する気持ちが絶対に必要だ。

 だが慣れ過ぎると、その現象と結果が、ひとえに自分の努力の賜物に思えてしまう時期がある。その力は自分の物で、努力と工夫次第で何でも出来ると思い込む、危険な万能感。

 それは神法士の資格を失う程に危険な思い違いだと、学校の教師は問題が起こる度にそう生徒に諭した。

 生憎、劣等生だったエメインには、今まで一度も味わったことのない感覚だけれど。

 でも、それで良かったと、今は少しだけ感謝した。


(神さま、ありがとう、ございます)


 目には見えない、感じることも出来ない神様が、エメインの情けないがむしゃらな祈りの声を聞き届けてそっと掬い上げてくれた感触が、確かにあったと思うから。


「……ぅ……っ」


 舌の奥に、酸っぱいものが込み上げてくる。頭が鈍器で殴られたみたいにぐらぐらする。


「! エメインッ?」


 エメインの異変に気付いたイーシュが、しがみついていた手を支えるように変えて名を呼ぶ。

 けれど返事は出来なくて、オエッと吐しゃ物を水中にぶちまけて、そのままエメインは気を失った。


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