第28話 灰を飲んで胃を洗う

 思わず駆け出した足は、幸いと言うべきか、首輪に結ばれたままだったトゥバの縄が足に絡まって岩陰から出ることはなかった。

 だがそのせいで、エメインは爪先の半歩先でザラの頭に火に包まれた木が直撃するのを、呆然と目撃する羽目になった。

 ドゴッ! という鈍い衝突音に続き、ぼわりと火の粉が飛び散る。一瞬で視界が明るくなる。

 その火の粉が近くの藪に引火し始めてようやく、エメインは我に返って声を張り上げた。


「ザラッ!!」


 違う。そんなわけがない。

 ザラが、焼け落ちただけの幹に潰されて死ぬなんて。


「ザラ!」


 エメインは悲鳴を上げながら目の前の火に突っ込んだ。がすぐに、ぐんっとトゥバの縄が伸びて首が詰まる。


「こんのっ」


 出来るなら引き千切ってやりたかったが、エメインの膂力では不可能なので、もどかしくなりながらも結び目を解いた。その間中ぴぃぴぃっと煩かったが、監視のことなどもう頭になかった。


「ザラ! ザラ! 返事しろ!」


 地面にめり込んでなお燃え続ける木を目がけて走る。

 ザラがあんな木を避けられないはずがない。寸前で避けて、近くでピンピンしているに違いない。

 何の根拠もないのに、ひたすら名前を呼んだ。ぱちぱちと巻き上がっては飛んでくる火の粉が、エメインの軟弱な肌を焼く。


「ザラ……!」


 果たして。


「……るせぇ」

「!」


 呻くような掠れ声が炎の向こうから聞こえ、慌てて駆け寄った。


「ザラ!」


 まだぶすぶすと燃える木の反対側に回って三歩分離れた場所に、ザラが横たわっていた。燃えてはいない。だが力なく投げ出された左足は、服が裂けて端が焦げ、剥き出しになった肌は赤黒く爛れていた。


「ザラ、足が……!」

「掠っただけだ。すぐ治る」


 言いながら、ザラが体を起こす。だがその動作は重たげで、動かすのも痛いのだろうと察せられた。


「今、治癒をかけるから」


 言いながら、すぐに風の神アネモスと水の神ネロへの枕詞を唱える。

 治癒は学校でも必修だった。だが水と風の二柱に力を借りる上、唯一人体に直接力を注ぐ神法で、繊細な力加減が必要とされた。

 当然、エメインは苦手だった。

 毎年何度も補習をして、長期休暇にはいつも次兄を練習台にしていた。庶務課に配属希望したのも、治癒を使う機会がまずないと聞いたからだ。

 だが今は、そんな理由で躊躇している時間はない。

 だが枕詞を終え、神言を詠み上げようとした時、


「希うは――」

「いい。神法はとっておけ」


 火傷した皮膚に翳した手を、ザラ自身に跳ね除けられた。


「でも、その怪我じゃ」

「後ろを見ろ。怪我治してる間に自分が丸焦げになるぞ」


 目顔でエメインの背後を示され、エメインは肩越しに振り返った。明らかに火勢が強くなっている。汗が、背中をつぅと流れる。

 マァラトの背後からやってきた火は瞬く間に周囲の高木を飲み込み、あちこちに火の粉を撒き散らして勢力を広げていた。バチバチめらめらと、新しい木を飲み込む度に高く立ち上がる炎が、湿度の高さなど知ったことかと嗤っている。


(怖い……)


 大きな火は、圧倒的な恐怖だ。触れていなくてもじりじりと皮膚を焼くその猛威に、出来ることなら今すぐ逃げ出したい。

 エメインにザラを担ぐことができたなら、すぐにでもそうしていた。だが無理だ。背丈も筋肉量も、ザラの方が上なのだ。


「そんなの分かってるよっ。ザラこそ、その足でどうやって逃げるつもりなの」

「俺がこんなことで死ぬか」

「それは……そう思うけど」


 素直に治癒されておけと言うよりも早く堂々と自信過多な発言を返され、エメインは思わず説得する口を淀ませた。


(ザラなら、確かにけろっと帰って来そうだけど)


 そうでなかった場合、エメインは死ぬほど後悔する。そんなのは嫌だ。


「それでも、今は」

「逃げるなら、桟橋の反対側に行け」

「一緒に逃げた方が……は? 反対側?」


 強引にでも説得を続けようとしたエメインはしかし、強引さにかけては一日の長があるザラにあっさり押し負けた。

 突然出てきた単語に、こんな場合だというのに首を傾げる。反対側ということは、島の北側全体のことだろうか。

 桟橋は島の南にあり、研究棟はそこから見て東の小高い丘の上にあった。マァラトから見える範囲は鬱蒼と茂る森や藪のせいでごく限られたものだが、それでも日没よりも日の出の方が長く感じたことから、群れの範囲も島の東側だろうくらいには推測してはいるが。

 それにしても脈絡がなさすぎる。


「何だよ突然。今はそれより」

「船がある」

「ふね?」


 またもや唐突な単語がきて、エメインは瞠目した。困惑と、今度は胸がざわつくような不穏さを感じた。

 こんな問答をしている時間はないと分かっているのに、震えた声で続けていた。


「船、なんて……この島には……」

「作った。使える物で」

「…………」


 使える物と言われ、エメインはいつしか小型の廃船を海に落とすのを手伝ったことを思い出した。

 研究棟での生活の間、ずっと何かしらしていることは感じていたが、それだったのかと、エメインはこんな時なのに納得してしまった。


「でも、何でわざわざ反対側に……」

「万が一迎えに来る奴らがいて気付かれたら、壊されたら面倒だからな」

「壊すなんて、そんなこと……」


 言いながらも、先程感じた不穏が否応なく膨らむ。そしてその答えは、明白だった。


「俺を捨ててこいとでも言われたんだろ」

「……っ」


 サラッと言われて、エメインはやはりと息を呑んだ。そして益々肩を落とした。


「……気付いて、たんだ」

「最近、師匠がまた近付いてきたみたいだし、上からも何度か探りがあったしな」


 ザラは何でもないことのように続けるが、エメインはもう言葉もなかった。

 ザラと少しでも打ち解けられたと思ったことも、エメインの失敗を見限り捨てられたと思ったことさえ、傲慢で身勝手な勘違いだった。

 ザラは最初からエメインのことを仲間だとは思っていないし、打ち解ける気など微塵もなかった。エメインが今更謝ったところで、何の救いにも慰めにもならなかったのだ。


(気付いてたくせに、騙された振りをして、僕が要らなくなるまで利用してたのか?)


 そんな疑問も、エメインには口にする権利すらない。

 だから、やはりエメインは言うと決めた言葉を口にした。


「だったらやっぱり、ザラを治すよ」

「だから!」

「それで、ザラの剣を探そう。それで、僕を守って」


 珍しく声調を荒らげたザラを遮って、エメインは言い切った。合理的な考えがあるとでも言うように、笑みを添えて。


「お前……」


 何の打算があるのかと、ザラが炎の赤に浮かび上がるエメインを窺う。その疑念を晴らすため、エメインは更にもう一言、我ながら情けない理由を付け加えた。


「そうしたら、僕はもう神法を使わなくて済むだろ?」


 本当は、研究棟で過ごした時のように、ザラを信頼しているから、と言えたらよかった。

 でもきっと、ザラは打算の方が受け入れやすいだろうから。


「……なら、頼む」


 何かの計算でも済んだのか、ザラが数秒の間を空けてそう言った。

 エメインは、酷く苦い思いを飲み込んで、うん、と頷いた。




       ◆




 エメインの気力が半分近く削られた代わりに、ザラの火傷がほとんど快癒した頃には、周囲の半分以上が炎に包まれていた。

 マァラトの上にはあの後も燃えた枝がぼたぼたと落ち、バチッと大きな火の粉を撒き散らしていた。先程までは人がいるかどうかも判別しがたいくらいの真闇だったのに、今は目が痛くなるほど森が明るい。

 エメインの背中に裂けた木片が飛んできた時には、恐慌を来してわぁわぁと叫んだが、ザラが手近な魔草で叩いて、焦げることは免れた。

 そしてこれだけ騒いでも、やはり善性種は来ない。


「持っとけ」

「う、うん」


 センリョウのような膝丈しかない低木を力任せに手折って、ザラがエメインに押し付ける。その低木は地面に近いからか水分量が多く、小さな火なら数度叩けば消すことができた。


「行くぞ」


 一方のザラは、エメインが驚くほど素早く走り出した。治癒の神法でも肌の引き攣れや肉体的損耗までは治せないはずだが、ザラの足取りに不安はない。


「場所、分かるの?」


 エメインはというと、獣の唸り声のような不気味な燃焼音がゆっくりと、だが確実に背後に迫って気が気でなかった。

 火の回った森は蒸し風呂のようで、汗が止まらない。生木が燻された煙が充満して、一息吸うごとに喉がチクチクする。我慢しても漏れる咳が煙のせいなのか風邪のせいなのか、エメイン自身にもよく分からない。

 だが前を行くザラはどこまで心臓が強いのか、一度も振り返らなかった。


「この群れの主要な武器は投げ矢だ」


 返事はないかなとも思ったが、意外にもザラは口を開いた。何のことかと思いながらも、相槌を打つ。


「そうなの?」

「森だからな。長物を振り回す利点はない」

「はぁ、なるほど」


 確かに、枝などが邪魔して可動範囲が限られるし、相手が人でないなら正面からぶつかる必要もない。だが弓などの大きな武器は見かけないとは思っていた。


「だが壊れていない物は貴重だ。だから多分ハイラムの所にある」

「ハイラムの場所が分かるの?」

玉座キッセの傍だ」


 何故関係のない話を思ったら、そこに繋がるらしい。

 だがそう断言するからには、やはり飯炊きで得た行動の自由で群れの中を確かめていたということなのだろう。エメインは単純に凄いと思う反面、引け目と負い目で複雑な気持ちになった。


(やっぱりザラは、僕が考えるような卑怯な真似なんか、しないんだ……)


 火を避けながらなので一直線とはいかなかったが、どうにか二人は丸焦げにならずに玉座までたどり着いた。高木に囲まれた檻のような広場を見て、最初の嫌な記憶が刹那に蘇ったが、ぐっと飲み込んで先を行くザラを追う。

 ハイラムの塒らしきものは、すぐに見つかった。

 エーブリエータスの木が密集する中、幹同士に破れていない帆布を打ち付けて垂らした場所があった。布は幕屋のように四方を囲み、中には船室用らしき大き目の寝台まであった。自然の中に隠すのが基本の群れの中で、明らかに異質だ。


「あった」


 エメインがそわそわしながら外で火勢を見ている間に、ザラが天幕の中に入ってすぐ、そう声が上がった。


「持っとけ」

「えっ?」


 見慣れた長剣を左手に持って戻ってきたザラが、帆布をめくってすぐそう言いながら何かを投げて寄越した。反射的に手を出して受け止める。受け止めた瞬間、呼吸が少しだけ楽になった。


「あ、通行証……」


 それは、真鍮製の通行証だった。掌に収まる程の五角形に、大鎌の印章が刻印されている。


「やっぱり、魔気ゼーン中毒だったんだ」


 大きな安堵を感じて、エメインは思わず通行証を両手で抱きしめた。だがその間にも、ザラは迷わずまだ火のない場所を選んで進む。

 エメインは慌てて通行証を外套の胸元に仕舞いながら、その後に続く。だが、先行きは不安しかなかった。


「う、うん。でも……」


 群れが何故燃えているのかは不明だが、ここに来るまでに一人の死体もみなかった。火の海の底で黒焦げになっているのか、残らず逃げたのか。

 全員焼死体になったのなら、研究棟に逃げ帰ればいい。だがそうでなければ、逃げ延びた善性種が再び現れるだろう。次は恐らく、群れを焼いた仇として。


「この後、どうしたら――わぶっ」


 悩みながらもどうにか後に続いていたエメインは、急に立ち止まったザラの背中に思い切りぶつかった。一瞬鼻が潰れた。


「なにか……」


 あったのかと、鼻を押さえながらザラの向こう側を覗き込む。その先に見えたものに、エメインは思わず息を呑んだ。


「イーシュ……?」


 この一週間でやっと傷や痣が目立たなくなってきた頬を炎の赤に染め、燃え上がる森を恍惚と見詰める小さな少年が、そこに立っていた。


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