第27話 干天の山火

 アハトの寝床は、群れの中心である玉座キッセのすぐ後ろにある。監視との連絡が取りやすく、いざという時に群れの全員に声をかけるためだ。

 群れの寝床は、縄張りの中であれば自由に決めていいことになっている。基本的には親と同じ場所に住み続けるが、デフテロのように、シュナイムになってすぐ最も住み心地の良い洞窟を勝ち取った者もいる。

 夜半も随分過ぎた時頃。

 ハイラムは、難破船から持ちだした上等な綿の寝台で横になりながらも、度々目が覚めてしまっていた。


『そういうことをしなくていいようにするのが、群れの長の――アハトの役目じゃないのかよ』


 エフェス=エメインの言葉がいつかに聞いた父の言葉に重なって、ハイラムは顔をしかめた。


人間種ピリトスが、分かったようなことを言いおって)


 先代のアハトであった父パテラスは、善い男だった。当時はまだ百人近い善性種エピオテスがいたが、その中でも一番の体格を持ち、投げ矢アトラトラの腕も一、二を争う使い手だった。

 また心持ちも良く、誰からも愛され、パテラスの種を欲しがる者には、快く与えた。強い種を得ることは、この島での生存競争には必須だからだ。

 だから、ハイラムには異母兄弟も多かった。

 父が、あの決定を下すまでは。


『この群れにエフェスはもう必要ない。のれらは自らの意思と善性によって、悪意を制御できる』


 結果から言えば、善性ほど当てにならないものはなかった。

 人々は、日々に感じる些細な苛立ちや理不尽を、思いやりや群れ全体への貢献のために飲み込むことが、出来なくなっていた。

 エフェスにぶつければいいと思えばこそ生まれていた余裕と優しさは消え、怒りがそこに座り込み、その不満は群れの底に静かに、そして確実に蓄積していった。

 爆発したきっかけは、恐らく大したことではなかった。大獣狩おおししがりの夜、宴のどこかで口論が起きた。

 それは些末な諍いに過ぎなかったが、さざ波が大海の波濤となって岸を削るよりも早く、群れ全体を飲み込んだ。

 パテラスは早い段階で仲裁に入ったが、当時のシュナイムにはめられて殺された。エフェスを廃止したアハトに不満を感じていた者はこれを許容し、そこから凄惨な殺し合いは始まった。

 次のアハトの座を巡っての争いも加わり、有力候補であるパテラスの子供たちはそれぞれに勢力を作って争った。

 反対に、その他の力のある者は、群れるよりも単独行動を選んだ。

 ハイラムもまた勢力を作ることはなかったが、エフェスの子であるアデルフィを守っていたことで、弱い者や争いを嫌う者が自然と集まった。

 その頃には死体を喰い漁る魔獣も多くうろつき出し、餓死者も増えた。単独行動を取っていた者も、最後の方にはハイラムたちに合流するようになった。

 結局、独りでは生きてはいけなかったのだ。

 弱い者も、強い者でさえも。

 ハイラムたちが生き残った最も大きな要因は、争いよりも食料を優先し、仲間で協力しあったことは明白と言えた。

 その後、ハイラムがアハトになって最初にしたのは、死体を魔獣の巣に捨てることと、エフェスを改めて決めることだった。


『アハト=ハイラムは、命の恩人だから』


 イーシュは、笑っていた。ハイラムがいなければ、先代のエフェスのように真っ先に死んでいたからと。

 その純朴な笑顔が、ずっとハイラムの胸に棘のようにじくじくと突き刺さっている。


『どうして私じゃないの?』


 そして、皆が仲良くなるなら、自分がエフェスになるとずっと言っていたアデルフィの、責めるような真っ直ぐな瞳も。


(あの人間種が現れて、これでやっと二人を救えると思ったのに)


 どうも、思ったように進みそうにはない。

 人間種が思った以上にか弱いのもそうだが、飯炊きのザラもまた群れに不要な不和をもたらしていた。それが意図的なのか無意識なのかは知らないが、いるだけで群れ全体の雰囲気がぴりぴりと悪くなる。

 理由は分かっている。ザラの発言が、一々正論だからだ。


『社会性がくずだということは、生まれた時から知っている』


 エフェスという役を説明すればそう吐き捨て。


『善いことも悪いことも、同じところにしかない』


 群れの皆が平和に穏やかに笑い合い、獲物を譲り合えばそう言い。


『自分を律することができない奴の言葉に従う義理なんかあるか』


 近付いてきたハイラムに荷物を返せと詰め寄ったザラをそう諫めれば、そう跳ねのけた。

 だがだからといって、エフェスにすることもできない。ザラには、群れのために苦痛に耐える理由が皆無だからだ。


(……そのうち殺すか)


 剣や手提げ袋など、武器になりそうな物や使える物は既に取り上げているが、ザラは恐らく素手でもある程度は対抗してくる。エメインが死ぬ前に、人質として脅して殺すのが最も効率が良いだろう。

 そして可能な限りエメインを生かし続ける。

 それが二人を最も安全に、平和に過ごさせる最善手だ。

 エメインには、何より酷な話ではあるだろうけれど。


(人間種など、滅べばいい)


 エメインが死んだら、桟橋の前に磔にしてもいいかもしれない。


(そんなことをしたら、次は軍艦……か)


 建設的ではないと、自嘲気味の吐息が漏れる。その時、ハイラムの狼の耳が不穏な音を捉えた。


「!」


 上半身を起こし、尖った耳を小刻みに動かして全方向の音を拾う。


(騒ぎか?)


 ネフェロディス島は年中雨雲が空を覆っているため、陽が沈むと途端に見通しが悪くなる。その中で火を使えば、慣れた魔獣は獲物があると狙ってくる。

 そのため、群れでは日没に合わせて夕食を済ませると、そのまま自分の塒に戻って静かに過ごす。火をつけることはまずない。

 だというのに、風や梢の音に混じって、微かにだが喧噪がする気がする。


(また飯炊きか?)


 ザラが強人種スクリロスかもしれないという噂は、監視役のディユゥーから既に群れ全体に回っていた。今日は噂し合うだけで済んだが、恐らく明日には感情の制御が利きにくくなるだろう。些細なことで。

 だがそれが夜のうちに起こるとまでは考えていなかった。


(火の臭い……やはりあいつか?)


 すんと鼻を動かす。体の末端だけでなく、顔にも獣の特徴が出ている者に比べれば五感は劣るが、縄張りの範囲程度なら嗅ぎ分けられる。

 些細な口論ならアハトが出向く程ではないが、ハイラムの中では、ヘーレムの夜――先代のアハト=パテラスが殺された時から始まった一連の惨劇は、忘れられない心的外傷トラウマになっていた。あの時も、きっかけは些細な口論に過ぎなかった。


(……見に行くか)


 重大事であれば監視役が駆け込んでくるが、念のため、と腰を浮かしかけた時だった。


「アハト=ハイラム! 火事だ!」

「!」


 水を弾く樹液を染み込ませた帆布の天幕を跳ね除けて、今夜の監視役であるイラナが駆け込んできた。兎の長い耳と跳躍力の高い足を持ち、飛べはしないが退化した翼もある。


「場所は」

「東の岩場だ。それに、エーブリエータスの森にも」

「また飯炊きか?」

「いや、奴らはマァラトから出てない」


 黒目がちの双眸に困惑を乗せて、イラナが首を横に振る。原因はまだ確認中の段階らしい。


「雷、ではないよな?」

「あぁ。ここ最近は小雨も降ってない」


 落雷により森が焼けることは、時々ある。だが今日の空模様は穏やかで、雲の唸る声すら聞こえなかったはずだ。


「イラナはシュナイムから回って、全員に避難を呼びかけろ」

「分かった」

「己は火を消す。原因が分かったらまた使いを寄越せ」

「うん。そっちはトビトが調べてる」


 イラナが承知しているというように頷いてすぐ、アハトの寝床を飛び出す。

 玉座から見て東は第三結界ヒュスタトン側で、危険な魔獣が少ない分群れの塒が密集している。躊躇っていては犠牲が出る。

 ハイラムは完全に日の暮れた森の中を、草木の焼ける方へ向けて迷わず駆けた。

 群れの中の植生はほとんど記憶している上、魔化した樹木は匂いが強い。等間隔に植えてある仄かな花灯りだけで、十分速度が出せる。

 だが暗闇に沈んだ樹林の間に赤い炎が見える距離になって、足が鈍った。エーブリエータスの蜜が焦げる強烈な花香が周囲に漂い、嗅覚が鋭い者には呼吸も辛いほどだ。


(鼻の利く者には、この匂いは辛いな)


 前方は全体的に明るいが、白煙が充満し、視界は悪い。デフテロの実力主義の考え方は心配だが、イラナが上手くやると信じるしかない。


(しかし、この規模……魔獣の襲撃か?)


 長く垂らした腰帯で口と鼻を覆いながら、周囲を警戒しつつ進む。

 第二結界デウテロン内には、知能が高く、発火能力のある魔獣もいるが、不毛な争いにしかならないため、暗黙の了解で手出ししないことが決まっている。

 他に火というと、火死鼬レプティクの最期を仕留め損なうと発火に巻き込まれて共倒れしたりもするが、この火災は規模が大きすぎる。


(この距離で、ここまでの火力とは)


 辿り着いた東の森は、既に右から左まで火の手が回っていた。樹脂やにの多い樹皮が焼けるのか、時折バチッと大きな火花が散る。それがまた離れた枯れ葉やゴミなどに引火しているらしい。


(これ以上は近寄れないか)


 獣の本能がそうさせるのか、善性種は全体的に火が苦手だった。料理程度なら良いが、あまり大きすぎると本能的な恐れが込み上げてくる。

 それに、常に湿度が高く、乾季でも完全に乾くことのないこの森をここまで焼くとなれば、もう土でも水でも間に合わないだろう。火の平気な男手を集めて周囲の森を切り倒し、これ以上の引火を防ぐ方が早そうだ。


「アハト=ハイラム!」


 どこから手を付けるか目測していた所に、背後から声がかかった。イラナと共に監視についていたトビトだ。


「トビトか。原因は分かったか」

「それが……魔獣が暴れた形跡もないし、飯の後始末も問題なかった」

「……そうか」


 ハイラムは微かに切れ長の瞳を伏せた。

 事故でないとなると、意図的な何かが発生した可能性も出てきた。あまり考えたくはない。


「どうやって消す?」

「木を倒して延焼を防ごうかと思ったが、全員逃げられたなら、自然鎮火するまで離れてた方が得策かもしれん」


 塒には私物も勿論あるが、いざとなれば身一つで生きていける。最悪、一時的に島の反対側に縄張りを移してもいい。


「森の向こうは岩場だし、嵐の気配も近いし……その方が早いかもな」


 対処を変えたハイラムに、トビトも森全体を見渡しながら同意した。

 善性種と火の相性の悪さに加え、嵐が近いのか今夜は風が強く、火の回りも早い。何より、エーブリエータスの花香が酷い。消火中に吸い込み過ぎれば、耐性のある者でも倒れる危険がある。

 そしてその全ての条件を承知した上で火を放ったのであれば、容易に消せないよう細工がある可能性もある。


(デフテロが関わっているなら、イラナがすぐに知らせてくると思ったが)


 今のところ、避難に専念しているようだ。

 と思考を纏めた所に、トビトが声を上げた。


「あ」

「どうした」

「マァラトはどうする?」


 互いに踵を返しながら問えば、失念していた言葉を返された。

 マァラトは群れの中心から見て東寄りにある。あの一帯の地盤は岩だが、周囲にはやはり木々が生い茂っている。目の前の火災を放置すれば、いずれマァラトにも火の手は届くだろう。

 だがそこに、善性種はいない。


「放っておけ」


 ハイラムは迷うことなくそう告げた。トビトも、それもそうかと賛同する。

 そこに、避難を優先していたはずのイラナが戻ってきた。


「アハト! イーシュがいない!」


 炎に照らされ息を切らしながらも、蒼白な顔をして。




       ◆




 夕食後にまたうとうとしていたエメインは、すっかり暗くなってから目が覚めた。

 しばらくぼうっと暗闇を眺めて、それからハッと自分の失態に気付く。


(しまった! ザラに話を聞こうと思ってたのに)


 お帰りと声をかけて、そこから自然に話をしようと思っていたのに、体力回復のための睡魔に負けてしまった。

 エメインは仕方なく、ザラの寝場所とおぼしき辺りにじぃっと目を凝らした。

 ひとまず、ザラがいるかいないかで、今が何時頃かを知ろうと思ったのもある。

 なにせネフェロディス島は朝晩関係なく雨雲が空に居座り、月も星も見えない。日没後に時間を知る術はほぼなかった。

 結果から言えば、ザラは寝ていた。いつも通りエメインに背を向けて。


(明日に、しようかな)


 ハイラムの言う通り、ザラがサカとして馴染む気がなく度々諍いを起こしているというのなら、きっと今日も疲れているはずだ。

 それに、ザラが強人種だと知れたことで更に風当たりが強くなったとなれば、どんなに回復が早くても体力は激しく消耗しているはずだ。


(いやでも、明日ザラより早起きできなかったら大問題だ)


 ザラは飯炊きとして、夜明け前に動き出す。今が何時か分からないが、もしかしたらあと一時間もないという可能性もある。そうなっては手遅れだ。


(……なんて切り出そう)


 思えばザラとは、ここに来てからろくな会話をしていない。昨夜は「お前には関係ない」で、その前は「自力で逃げる」「好きにしろ」だ。

 突然和やかな日常会話を始めるには、いかにも無理がある。


(とにかくまず説明を……あっ、その前にまず謝らなきゃ!)


 エメインは覚悟を決めて、その場に座りなおした。ごほっと小さく咳が出るが、何とか飲み込む。

 イーシュが食事と一緒に出してくれた薬草――色は薄い緑だったが舌が痺れるほど苦く、絶対に蜂蜜かジャムを混ぜて味を調えるべきだとは思ったが、我慢して飲んだ――は風邪薬とのことだったが、毒消しの効果もあったらしい。咳や怠さが、少しだが軽くなった。


「……ザ、ザラ!」


 両膝を揃え、握り締めた両手を置いて、暗闇の中の背中に呼びかける。


「…………」


 反応はない。深く寝入っているという可能性も皆無ではないが、ザラなら小さな物音でも危険があればすぐに目を覚ます。研究棟にイーシュが現れた時のように。

 反応がないのは、恐らく実のない呼び掛けだったからだ。内容がなければ、反応する必要もない。ザラの思考は、そんなものだ。

 だから、エメインは構わず続けた。


「あの、僕、ザラに謝らないといけないことが」


 その時、むっくとザラが身を起こした。


「あって……、その」

「しっ」

「!」


 鋭い吐息と共に、暗闇の中から金色の双眸がエメインを貫いた。思わず言葉を飲み込む。

 それから、その行動の意味を考えた。


(黙ってろ、ってこと? だよね? でも、何で……)


 だがその思考は、ザラがすぐ傍らに迫って、止まった。


「ザ、ザラ?」


 小声で呼びかける。暗闇を睨む金の瞳が、どこか一点を明確に見つめていたから。

 そして、言った。


「……火だ」

「え?」


 言われて、エメインは何のことかとザラの視線の先を振り返った。

 特に何も見えなかった。

 岩陰の目の前にはいつも通り目隠しの藪が広がっているし、その向こうも木々と獣道があるだけで何もない。広場や玉座も、やはり緑の天蓋に隠れて見えない。

 いつも通りだ。と考えて、はたと気が付いた。


(あれ? 何で見えるんだ……?)


 日没後のマァラトは、雨雲と鬱蒼と茂る森のせいで、視界はほぼ無い。群れの中でも、魔獣などを警戒して夕食を終えた後は極力火を使わない。

 だというのに、木々や岩の輪郭がぼんやりと見える。まさか、もう夜明けが近いのだろうか。

 それとも岩陰での暮らしに慣れ始めて、エメインまで夜目が利くようになったのかと、能天気な勘違いをする横で、今度はザラが岩陰を飛び出した。


「ザラ!?」


 エメインは驚いて呼び止めた。飯炊き以外の時間に勝手に外に出れば、監視が飛んできて殴られる。

 だがそう続ける前に、視界が不自然に明るくなった。明るい、というよりも、赤い。


(なんで……)


 エメインの中から出てくるよりも早く、答えがザラの頭の上から降ってきた。


「――!」


 燃え盛る、火だるまになった太い幹が。


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