第26話 握れば拳開けば掌、差し出せば
「何のことだ?」
何度内容を噛み砕いて考えても、ハイラムの言葉が理解できなかった。
困惑しきって聞き返すエメインに、ハイラムは観察するように尻尾を揺らす。それから、肩を上下させた。
「騒ぎが起きたんで見に行けば、イーシュがそう説明した。
「ザラが、僕に……?」
まさかと、エメインは無意識に身を引いた。
確かにイーシュにも咳は聞かれた。咳止めの薬が要るかと問われ、頼むとも言った。
だがザラは、何も言わなかった。風邪かとも、大丈夫かとも。
(それが、薬? 僕のために?)
そんな風に言われても、少しも結びつかない。
それに研究棟にあった二人の荷物も恐らく回収されているのだろうが、あの手提げ袋の中に薬の類はなかったはずだ。
エメインは乾いた笑いとともに首を横に振った。
「……そんなはずない。イーシュの考え過ぎだ」
「そうか? 最低三日はエフェスに手を出すなと、代わりに殴られるような奴だぞ。あながち間違いでもないと思うが?」
「……それ、ザラが言ったのか?」
「あぁ。残った方をどうするのかと聞いて、すぐな」
「――――」
言葉が出なかった。
確かに、最初の数日は、イーシュ以外誰も現れなかった。だがそれは、単に頻度の問題だと思っていた。虐めだって、ない日はある。その程度のことだと。
(……違う、のか?)
ザラは本当に知らなくて、選択を誤ったと気付いた時、少しでもエメインが傷付かないように手を尽くしてくれたのだろうか。
食事をことごとく挽き肉にしたのも、タマルの調理法を確認したのも、弱ったエメインが食べやすいように?
(……違う。また、僕の勘違いだ)
今までだって、何度もザラの行動を勝手に都合よく解釈しては裏切られてきた。事ここに至ってまで、期待なんかしたくない。
だって、ザラはいつだって合理的で現実的だから。
ハイラムへの進言も、エメインがすぐにダメになっては自分にエフェスが回ってくるからという、きっとそれだけだ。それ以外で、敵に捕まっている状況下、役に立たないエメインを気遣うような無駄をする理由がない。会話や他人の気持ちなど、その最たるもののはずだ。
(でもだからって、傍若無人でも、冷たいわけでもない……)
勝手に胸中に湧き上がってきた反論に、エメインは独り戸惑った。
もしかしたらと、ここまで堕ちてなお、都合の良い解釈が胸をよぎる。
もしかしたら、ザラはエメインの処遇を聞いて、交代も申し出ていたのではないか。だがエフェスは弱い者こそ適している。エフェスが抵抗して勝ってしまえば、『エフェスには何をしても安全』という前提条件が崩れてしまうから。
(ザラなら、それも見越して、結局何も言わない気もするけど)
ハイラムの言葉にザラがしそうな行動が次々と浮かんでは弾けて、エメインはもう何をどう考えていいかすら分からなくなった。
その中で一つ、疑問と事実が結びついた。
(荷物って……もしかして、通行証?)
ザラが今になって荷物を取り返そうとするのは不自然だ。もしエメインの症状を気にしていて、風邪ではなく瘴気に
そして無用な会話を嫌うザラは、きっと説明もしなかっただろう。そのせいで誤解され、反抗し、バンダナがずれるぐらい暴れたのだとすれば。
(それを僕は、自分のためだけに利用しようと……)
ザラの献身を踏みにじり、彼の最大の秘密を告げ口した。
それはまさに、古代の
「な、なあ!」
エメインはザーッと蒼褪めてハイラムの足元に飛びついた。慌てすぎて、また咳がゴホッと喉に絡む。それをどうにか飲み下して、エメインは言い募った。
「さっきの、ザラが強人種っていうの……う、嘘だから! だから、誰にも言わないで!」
言い訳でも弁明でもなく、それは最早ただの前言撤回だったが、ハイラムは意外にも馬鹿にするでもなく、ただ首を横に振った。
「無理だろうな。ディユゥーが――上にいる監視が、反応した。奴が黙っている理由はない」
「そんな……」
無反応の中で耳だけが動いたのは、どうやら岩の上にずっといるという監視の動向を気にしてのことだったらしい。
ハイラムが言わないと言えば少しは信じられると思ったが、顔も知らない
「そんな……ッ」
ハイラムの足を掴んでいた手から力が抜け、エメインは愕然と項垂れた。
(ど、どうしよう)
これで本当にザラの素性が群れ全体に知れてしまったら、ザラはどうなるのだろう。それでも飯炊きとして、サカとして、暴力は受けずに済むだろうか。
イーシュはそう言っていた。サカは皆穏やかで、互いを尊重しあっていると。エフェスがいるお陰で、群れに争いはないと。
だがエメインは、それを見たことがない。ここにくる者は皆思い詰めて張り詰めて、怖いばかりだ。腹のうちに溜め込んだ怒りを吐き出す場所を求めて、どす黒い自分を見えない場所に置き去りにして、綺麗な自分に戻ろうと足掻いている。
そんな中に、圧倒的な憎悪の象徴が紛れ込んでいたと分かれば。
(……ザラと話さなきゃ)
勃然と、そう思った。
話を聞いてしまった監視に対して、エメインができることはない。その後に起こるかもしれない事態に対しても。
だが、それが間違っていることなのかどうかを確かめることは、エメインにも出来る。
(聞かなきゃ、決められない)
ずっと怒っていると決めつけ、何も話さないまま、自分の中で想像したものを勝手に事実だと決めつけていた。
本当の気持ちなど、本人から聞かなければ分かりはしないのに。
(それで、もし、全部僕の誤解だったら)
謝らなければ。
そう決意した時、はぁと、呆れたような溜息が聞こえた。
「そんなことをせずとも、薬くらい用立ててやったのだがな」
考え込んでいたエメインは、少し挑発的なその言葉に顔をしかめた。すると心外だとでも言いたげに、ハイラムが片眉を跳ね上げた。
「汝が死んでしまえば、イーシュが再びエフェスに戻ってしまうだろう?」
「…………」
どうせそんなところだろうと思った。言い返すのも面倒で、再び先程の思考に戻る。つもりが、妙な問いかけに反応してしまった。
「汝、温もりを拒絶しているらしいな」
「温もり?」
「
繁殖や交わりという単語に、もしや抱きしめてくる不気味な連中のことかと、エメインは頬を引きつらせた。
「何を言ってるんだ……。ここに来るのは男ばっかりだぞ」
「だから何だ? 子を作らないのであれば、性別など関係ない」
そう語るハイラムの言葉に、揶揄はなかった。だからこそ本気なのだと察し、益々嫌悪感が増した。
「……嫌だ」
「何が嫌なんだ? あぁ、ザラがいるから温もりが恋しくなることはないのか」
「そんなわけあるか!」
妙な納得をされて、エメインはまだ痛みもあるというのに全力で否定していた。叫んだせいで、また咳が出た。
げぇほげほっと咳き込みながら、エメインは最悪の可能性に思い至った。
まさか、エフェスのマァラトに二人で寝起きしているのは、そういう邪推があったからだろうか。
(じょ、冗談じゃない!)
エメインは、蒼褪めているのか赤面しているのか自分でも分からないまま動揺した。
だがハイラムは、余計に怪訝に眉をひそめた。
「ならば体を開けばいい。暴力より、快楽の方が何倍もマシだろう?」
「
「またそれか」
二番煎じの悪態に、ハイラムが詰まらぬというように尻尾を振り下ろす。そしてもう用はないとばかりに踵を返した。
その背に、エメインは恨みがましく嫌味をぶつけていた。
「そういうことをしなくていいようにするのが、群れの長の――アハトの役目じゃないのかよ」
それは、ずっと言ってやりたかった言葉だった。
過去に群れに何があったかとか、どんな経緯でアハトやエフェスが出来たかも興味はないが、長というのなら長らしく、仲間の苦しみを全力で消し去ってほしかった。
一国の王とまでなれば難しくもあろうが、この群れには三十人前後しかいないという。それくらいなら、一人ひとりに目を配れば、エフェスなどいなくても、平和を維持できそうなものなのに。
「……なくなるものか」
ぼそりと、声が返った。
ハイラムは、振り返りはしなかった。だが返事どころか、足すら止めないと思っていたエメインは、少なからず驚いた。
「悪も差別も苦しみも、決してなくなりはしない。どんなに消しても、消しても消しても……」
それは、飢えた獣が手の届かない果実を見上げて唸る、最期の断末魔のような掠れた声で。
「ならば、よりマシな苦しみの中で生きるしかない」
その背は、拭い去れない罪を枷のように引きずって歩き続ける罪人のようだった。
◆
エフェスだったイーシュだけでなく、アハトのハイラムでさえ、群れが安全に平和に種を残し続けるために、抗えない苦悩を抱えている。
そしてそれは、心を開かない他人には容易に見せるものではない。
(ザラも、本当は……)
どんなに強く完璧に見えても、見えないところで苦しんでいるのかもしれない。
自分と同じように。
それは、自らを弱いと公言し、常に言葉と態度の端々からそれを周囲に訴え続けるエメインよりも、或いはずっと抱え難いものなのかもしれない。
(……聞こう)
夕飯の片付けを終え、繁みを揺らして帰ってきたザラは、無言のままインゲルの葉の上に横たわっている。
ザラなら、ハイラムのように極力音を立てずに戻ることもできるだろう。それでもわざと音を立てるのは、エメインが怯えないようにという気遣いだろうか。
それすらも、聞かねば分からない。
(聞こう)
エメインは、闇に包まる岩陰の中で、決意とともに息を吸い込んだ。
その夜、群れが火に包まれた。
◆
エングレンデル帝国首都にあるレテ宮殿は広い。
謁見の間や各会議室が並ぶ宮殿本館を始め、皇族が起居する翼棟や皇妃の離宮、女官棟に兵士棟と、広大な敷地だというのに新旧大小幾つもの建物がひしめき合っている。
それを一望できる場所は、多くない。宮殿の敷地を囲む環状城壁や鐘楼塔の屋根はその一つだが、見えたとしても常人の視力では奥までは見通せない。
だが
麗姿種はその美貌により、古代六種族で唯一神々に供をすることを許され、一時天上で過ごした種族だ。結局最後には地上に堕とされたが、天上から地上を盗み見るために視力が発達するほどの時はあった。
「ふぅむ。気配はするが……」
環状城壁の中でも最も高い見張り塔の屋根の上に片胡坐を掻きながら、フィービーは兵士棟と宮殿の間の更に奥に広がる庭園に視線を伸ばした。
大人の背丈よりも高い生垣が綺麗に刈りこまれ、迷路になっている。密談にはお誂え向きだ。
「お」
屋根の上からでは豆粒のように小さく見えるが、そこに出てきた二人の人影が、フィービーの目には確かに見えた。
一人は
対するもう一人も男で、こちらは若かった。人間種の基準で見れば二十歳そこそこだろうが、違う、とフィービーは一目で断じた。
服装だけを見れば上等だし、仕草も洗練されているから、一見しただけではどこぞの貴族の子弟に見える。だが畏まっているのは年上のはずの人間種で、若者の方が隠してはいるが圧倒的に禍々しい
「出たな、
強人種の身体的特徴である額の角は、幻惑の邪法を施した上に帽子で隠しているが、フィービーの目は誤魔化せない。
馬鹿弟子にちょっかいをかけ始めたからそろそろ動くだろうとは思ったが、案の定だ。
「ふん。小物だな」
角が小さいのもそうだが、邪魔者を排除してすぐに自ら動き出すようでは、底が知れている。
強人種は大抵快楽と遊興に正直で、力に驕っている分迂闊だが、数を減らしている現代では手強い者ほど慎重になる。特に国の中枢に食い込もうとする者は、その傾向が顕著だ。そういう場合、往々にして被害が拡大しがちなのだが。
「おっと」
両手を筒にして観察していると、迷路に三人目の男が乱入してきた。軍人だろうか。胸元の階級章の他にも、幾つもの紀章が陽光に反射している。
分厚い胸板を堅苦しい軍服に押し込んだ、五十絡みの人間種だ。気難しそうな顔で、口許は性格を表すように固く引き結ばれている。
別の協力者か、それとも敵対者か。
「さて今回は、道連れはどのくらいかな?」
楽しくなってきたと、陽気な晴天の下、フィービーは仄暗い笑い声を上げた。
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