第25話 縁と浮き世は末にはない
その間のエフェスとしての生活は、一言で言えば最低だった。
夜明け頃にザラが起きだし、イーシュが食事を運んでくるところから、エメインの一日は始まる。だが殴られて口の中が痛いと食事がまともに食べられず、なかなか体力の回復は進まなかった。
口の中が痛くなくなってどうにか食べられるようになる頃には、また別の善性種が現れ、殴られ、蹴られる。酷い者はエメインの頭や腹を何度も踏みつけ、
不気味なのは、時折感情の読めない顔でやってきて、おもむろに抱きしめてくる者がいることだ。相手は男で、エメインは勿論戦慄し突き飛ばす。すると相手は驚いて、戸惑いながらも帰っていく。
イーシュが食事を届けに来た時に問えば、ただ温もりを求めるだけの者もいるのだと言われた。そういう者には黙って優しく抱きしめ返してほしいと。そうすれば、それで心穏やかに帰れるからと。
群れの中は、良くも悪くも弱肉強食だ。今のアハトは競争を推奨したりはしないが、シュナイムなどは特に実力主義で、力を誇示する。中にはそれに疲れる者もいるのだとか。弱さを見せないように気を張っている者は、特に。
(どうでもいい)
実力主義とか、弱さを見せられないとか、気を張って疲れるとか。
どれも身に覚えがあったけれど、どうでもよかった。エメインが痛くて辛くて苦しいことだけしか、ここにはなかった。
食べるだけ食べて、逃げる体力を取り戻して、隙を見て一人で脱走する。
そんなことは夢想だと、もう思い知っていた。
体力は回復しない。傷が塞がる前に、また新しい傷ができるから。どんなに歯を食いしばっても口の中は切れるし、両腕で腹を庇っても、最後には吐く。だから結局食べられないし、食べても大して意味はない。
それに、恐らくだが瘴気の影響が徐々に出始めていた。今までは、彫言が施された通行証が、島を覆う瘴気を中和してくれていた。だが襲撃を受けて、エメインの荷物はもう一つもない。
最初は、気怠さや悪寒を感じて、風邪でもひいたかと思った。ずっと薄っぺらな葉っぱ一枚の上で寝起きしているし、年中温かい島とはいえ、夜気は体温を奪う。だが咳は出るが鼻が詰まることはなく、熱が出るようでもない。
「ゴホッゴホッ……」
だが、どちらにしろ同じことだ。
(病死と殴殺と、どっちが先かな……)
瘴気ではなくただの風邪でも、ここでなら呆気なく死ねるだろう。自虐的な諧謔が、少しも笑えない現実として眼前に横たわっていた。
「ゴホッゴホッ……」
飲み込んでも飲み込んでも込み上げる咳が、冷ややかな岩場に跳ね返って反響する。
昼は、別に構わなかった。
だが夜は、ザラがいる。
「ゴホッゴホッ……」
両手で口を覆い、どうにか音を殺しても、耳の良いザラには煩く聞こえるのだろう。咳をする度に、ザラが身じろぐのだ。けれど何も言わない。
エメインには、その無言すら煩わしかった。
だが次の日は、少し様子が違った。
「ゴホッゴホッ……」
やはり堪えきれない咳を手の中に吐き出している時、ザラが黄昏の森の中から帰ってきた。
最初のうちは群れのどこにも明かりがなく、陽が沈めば森は暗いばかりで見通しなどは皆無もだった。だが一週間も岩陰に繋がれていれば、少しは夜目も利くようになる。
薄暗い藪を掻き分けて戻ってきたザラの顔を、葉に頬をつけたままぼんやりと見上げる。そして、気付いた。
「ザラ、バンダナが……」
ザラの額を隠していた薄汚れたバンダナが僅かにずり落ち、右眉のすぐ上にある灰紫色の角――らしきものが露わになっていた。
声を出すつもりはなかった。なにせザラを責めたあの夜から、一言も口を利いていなかったから。
「……あぁ」
案の定、ザラはそうとだけ言って雑にバンダナを上げると、そのまま自分の葉の上に寝転がった。
別に、いつものザラだ。無用な会話はしない。
エメインは結局、ザラがエメインのことを怒っているのか恨んでいるのかも分からないままだが、それを確かめる気力もなかった。
だが、バンダナの他にも、エメインは気付いてしまった。頬や耳には擦り傷があり、口の端は切ったように血が付いていたことを。
ザラは傷の治りが早いから、仕事終わりにでもやられたということになるのだが。
(でも、なんで?)
身の安全を確保するために飯炊きになったのなら、無用な喧嘩はしないはずだ。ザラがどんな風に群れに馴染んでいるのかは知らないし、そもそも和気あいあいと会話に応じるとも思えないが、目立っていいことはない。
それとも。
「……何かあったのか?」
もしや、一人で逃げようとして見付かったのか。
疑念が、エメインの声を低くする。
だが。
「お前には関係ない」
返るザラの声はやはりいつもと同じで、洒然として取り付く島もない。
だからこそ、仄暗い感情が立ち上った。
(……あれが、
既に沈黙したザラの背中をぼうっと眺めながら、先程見たものを頭の中で反芻する。
らしきもの、と表現したのは、明確に角と言えなかったからだ。角と言えばカモシカのように円錐に尖っているものを想像するが、それはまるで根元から叩き切ったように高さがなく、一見すると鉱石でも嵌っているかのようだった。
(『師匠にやられ』たって、もしかしてそういうこと?)
別れ際に派手な喧嘩でもしたのかと思ったが、もしかしたら角を折られたということだったのかもしれない。
強人種の角にどんな特性や能力があるのかは、詳しく解明されていない。絶対数が少ないこともあるが、強人種は角を誇りにしており、他者に触られることを極端に嫌がった。
だが今は、そんなことはどうでもいい。
(ザラの素性が知れたら、どうなるかな……)
ふと、魔が差した。
善性種は人間種を憎んでいるが、自分たちを動物たちと交わらせた強人種もまた、酷く憎んでいる。
自分たちの群れの中に報復できる怨敵が紛れ込んでいると知った時、善性種はいったいどこまで『善き人』でいられるだろうか――。
◆
翌日、都合の良いことに再びハイラムが現れた。
「居心地はどうだ」
「!」
葉が揺れたと思って見上げたら、ハイラムがマァラトの入り口に仁王立ちしていた。
相変わらず、整った筋肉を持つ、美しい男だ。肩に垂らした濃灰色の髪や豊かな尻尾は櫛もないはずなのに艶やかで、日中の明るい中ではいぶした銀のように見える。そして切れ長の青い瞳は、緑の屋根を透かす光を受けてますます青空のようだった。
(青空……もう随分見てないな)
本当なら、ザラ一人を島に置き去りにして、今頃は既に洋上か、或いはもう自宅に帰り着いていたかもしれないのに。
(……帰りたい)
久しぶりに胸に
エメインは、トゥバの縄に気を付けながらハイラムに向き合った。そして、窺うようにこちらを向く三角耳に向かって、分かりきった答えを刺々しく言った。
「最悪だよ」
「の、ようだな。酷い顔だ」
ふんと、ハイラムが詰まらなそうに鼻を鳴らす。
この島に鏡はないが、言いたいことは分かった。生傷が絶えないこともそうだろうが、食事が摂れないから頬がこけ、眠れないから目の下に隈もできているだろう。
だが、それもじき終わる。
「弱いエフェスもいたが、来て早々に
「……だったら、今すぐ解放してよ。すぐに死ぬエフェスなんて、もう要らないでしょ」
「いいや。手放さない」
「何で!」
目当ての会話ではなかったとはいえ、思わず食いついていた。
定期的な暴力に耐えられないエフェスは不十分だ。役立たずと言われるのは辛いが、それで解放されるのなら願ったりだ。
だがハイラムは、残酷な答えを淡々と告げた。
「エフェスが仲間でないことは、最も理想に近い状態だからだ」
「…………」
そうだろうと、心の中だけで同意した。
犠牲を強いるなら、自分たちからかけ離れた者であればあるほど、罪悪感も感じにくい。それは種が違っても、文明が違っても同じらしい。
「……だったら、もっと適任がいるだろ」
「ザラのことか?
それはどういう意味かと、問う発想もなかった。
ただ、今だと、言ってしまえと心が叫ぶ。
それがどんな結果を招くかなど、どうでも良い。
ただ、自分だけが逃げられれば良かった。
だって別の生贄を差し出さなければ、この苦しみからは決して逃れられないのだから。
「ザラは、
果たして、針を飲み込むような思いで、エメインは言った。
それで自分以外がどうなろうと自分のせいではないと、無意識のうちに言い聞かせて。
だがエメインの密告に対し、ハイラムは何も言わなかった。だが三角耳だけが僅かに横に開いたことは見逃さなかった。それでいい。
(明日には、エフェスはザラだ)
やった、とエメインは思った。後ろめたさはあるが、それ以上に期待に動悸が早まった。いつまでこの島にいるかは分からないが、少なくとも明日からは、暴力に怯えなくて済む。
そう考えて逸る動悸を抑え込んでいたエメインに、ハイラムは何故か確認ではなく質問をした。
「仲間ではないのか?」
「仲間? 僕も強人種なのかってこと?」
人間種だからと散々容赦なくいたぶってきたくせに、今度は強人種だと言って殺しにかかるつもりだろうか。冗談ではない。
「僕はひ弱な人間種だ。角なんかどこにもないっ」
「そうではない」
前髪を両手で持ち上げて額を見せるエメインに、ハイラムは呆れたように半眼になった。
その表情を見て、エメインは察した。そして笑ってしまった。
「まさか仲間って、人の手柄を横取りしてエフェスを押し付けるような奴のことを言ってるの?」
ハイラムはアハトだから、何よりも仲間が大事とでも考えているのだろうか。
この島に取り残される前なら、エメインもそう考えただろう。だが今となっては、何も見えていないと言う他ない。
そう、嘲笑をもって受け止めたのに。
「要らぬ疑いで半殺しにされてまで荷物を取り返そうとした奴を仲間と呼ばず、なんと呼ぶ?」
「……にもつ?」
今度こそ理解できない単語が出てきて、エメインは眉をひそめた。
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