第24話 志無き者は事竟に果つ
イーシュがエフェスになったのは、イーシュを産んだ女が死んだからだ。
その時に、イーシュよりも力が弱く、採集も少なく、狩りが下手で、役に立たない者はいなかった。
女の中には少しはいたが、幾つかの理由でイーシュが選ばれた。
エフェスのことは知っていたから、選ばれることを心から喜ぶというのは難しかった。
イーシュを産んだ女は、いつもマァラトで蹲っていた。
エフェスは、従順であればある程度の自由は許される。群れで諍いの気配がない時や、暴力を受けた後など、イーシュは見張りにお願いしてあの研究棟で一夜を明かしたりした。
だが女は、とても従順とは言えなかった。
マァラトに誰かが近寄れば、必ず泣いて逃げた。暴れすぎて歯や足を折られたりすることもあった。
そして最後には、アハト――その頃は、まだハイラムはアハトではなかった――を呼べと叫んだ。
私はアハトの子を産んだのだと、アハトの
女は、あまりに利己的だった。
そしてその姿は、見るに堪えないほど醜かった。
(みんなのためになってるのに)
何の役にも立たない存在よりも、よほど有意義なのに。
実際、イーシュはサカであるために、エフェスであるその女よりも全く群れに貢献できていなかった。
サカでいる間、イーシュは何物でもなかった。
狩りに出れば足手纏い、魔獣に襲われれば見捨てるという判断が出来ない厄介者、群れの中でもいてもいなくても同じ。否、いるだけで誰かの不快を招き、それがエフェスに向けられる分、いない方が良かったくらいかもしれない。
それは、イーシュには暴力を受けるよりも辛かった。
自分のせいで、自分よりも弱い女が傷付く。嫌われているのは自分なのに、大丈夫だと慰められ、和を維持され、見えない場所で鬱憤を吐き出される。
それは、直接責められるよりもイーシュの心を抉った。
だからこそ、アハトやシュナイムのように役が与えられるということは、イーシュの自尊心をくすぐり、自信に繋がった。
それに先代のエフェスのようにはならないという、根拠のない自信もあった。
サカから見た群れは平和で、本当に穏やかで労りに満ちていたから。
(でも、どんなに善い人でも、その心の内には怖いものを隠してる)
それでも、この
だからエフェスの傷は、群れを守った証なのだ。
「イーシュ!」
「!」
エメインの傷の手当をした帰り、突然背後から声をかけられて、イーシュは反射的に竦みあがった。だが身を固くして振り向いて見えたのは、マァラトに浮かび上がる血走った目、ではなかった。
「エフェスの役を替わったんだってな」
「え……あ、うん」
朗らかに笑う、青年だった。名はヨーナ。犬のような垂れた耳と丸まった尻尾が特徴で、とても気さくな人だ。今日もまた薄曇りとはいえ、日中の光の下で見るその栗色の瞳は、とても優しげに見えた。
「これでお前も、やっとエフェスから解放されるな」
「っ」
ぽんっと労わるように背を叩かれる。イーシュはまたびくりと肩を震わせたが、それは本当にただ優しいだけだった。
その手もかつては、目を吊り上げながらイーシュを何度も殴りつけたのに。
(ぼくが、もうエフェスじゃないから)
それは、不思議な感覚だった。拍子抜けしたような、安堵したような。その底では酷く冷めたような、純粋さが死んだような正反対の感覚もある。
「……あ、ありがとう」
イーシュは、どうにか言葉を絞り出した。上手く笑えているか分からないけれど、笑った。
ヨーナもまた笑った。とても穏やかに、他のサカにするのと変わらないように、気さくに。
「イーシュこそ、今までエフェスの役、大変だったな」
「……ぼく、ちゃんと出来たかな?」
「あぁ、勿論。立派だったぞ」
にこにこと、ヨーナが頷く。その話し声が聞こえたのか、傍の繁みから更に二人の男が現れた。エズラとマラキだ。二人とも少しの変異はあるがヨーナと同じ犬系で、やはり二人ともイーシュを殴りに来たことがある。
「……ッ」
「イーシュ、お疲れ」
「今度のエフェスは
イーシュはやはり今までの感覚が抜けずに身を固くしたが、やはり二人ともヨーナと同じく、何の屈託もなく笑っていた。
ヨーナが、二人に朗らかに応じる。
「あぁ、ケーレブが行ったって。人間種相手なら、遠慮なく憂さを晴らせるよ」
「全くだ」
「殺さないように気を付けろよ」
「!?」
ははっと、三人が面白い冗談でも聞いたように笑う。だが、イーシュはとても笑うことなどできなかった。
何故悪意もなく、穏やかな表情のまま、一人の命をそうも軽く扱えるのか。しかもイーシュを労わったのと全く変わらぬ声で。
殴られるのは、蹴られるのは、本当に痛いのに。恐ろしい声で罵声を撒き散らし、怒気を湯気のように立ち昇らせ、太い腕を振り上げる仕草は、それだけでイーシュの考える力を根こそぎ奪うのに。
だが三人は、イーシュの怯えなどまるで見えないように続けた。
「だがな、今まで散々
「あぁ。この島でさえ、奴らが来る度に息を潜めてやり過ごさなきゃならないんだからな」
「一度でいいから、殺してみたかったんだよな。船の連中」
「あぁ、その気持ちは分かる」
「でも皆殺しにしたら、次は軍艦がきて殲滅されるんだろ?」
「らしいな。あの船の何倍も大きいものが、更に何倍も連なって海を埋め尽くすとか」
「代々のアハトも、こればっかりは同じ意見だったしな」
三人が三人とも、熾火のような怒りと諦念をない交ぜにして頷き合う。
毎年現れる船と人間種からは隠れる。痕跡も消す。手は出さない。決して殺さない。
それが、乾季に毎年現れる船との付き合い方だった。そこに憎い人間種が乗っていることは皆承知だが、連中がいる間は怒りを堪えて息を潜めてきた。ずっと、それこそイーシュが生まれるより遥か昔から。
だが本当は、イーシュにはその感情も理解できなかった。
善性種が人間種に奴隷として酷い扱いを受けていたのは、もう何百年も昔の話だ。その当時を生きていた者はいないし、三人ともその屈辱など知る由もないはずだ。
だというのに、いま目の前に
「仕方ない。我慢だな」
「あぁ、我慢だ」
「今は、エフェスだしな」
三人は、実のない冗談は終わりとばかりに苦笑を交わし合う。それから、各々手を上げて本来の目的方向へと歩き出した。
「じゃあな、イーシュ」
「サカとして、またよろしく」
「う、うん」
イーシュもまた三人と別れて足を踏み出すも、彼らが見えなくなるとすぐに立ち止まってしまった。
「『エフェス』だから……」
ヨーナたちの言葉が、何度も脳裏を巡る。
彼らはエフェスだから、エメインを生かす。だがエメインが人間種だから、容赦なく憤懣をぶつける。その憤懣は、いずれ普通になるだろう。
だが人間種の寿命は短い。しかもエフェスなら、きっとイーシュよりも早く死ぬだろう。
その時――容赦のない憤懣が普通になった時、エフェスの役は一体誰が務めるのか。
(きっと、ぼくだ)
彼らは、エフェスがイーシュに戻った時、また以前のように手加減してくれるだろうか。憎悪を自分の体に押し戻し、同じ種族だからと斟酌し、役だからと労わりを向けるだろうか。
(そんな保証、どこにもない)
ゾッとした。
いつかきっと『人間種だから殺しても構わない』が、『エフェスだから殺しても構わない』にすり変わる。
『つまり、君は僕に死なれると困るわけだ。僕がいなきゃ、また君に
途端、エメインの最初の疑念が脳裏に蘇った。そして次には、役を奪われて怒り狂う先代のシュナイムたちの声が。
『己はシュナイムだぞ! いや、アハトがいない今、己がアハトだ! それを汝は――!』
続けて、またエメインの別の言葉が呼び掛ける。
『本気でそう思ってるの? 例えば、あのハイラムと同じくらい凄いって』
エフェスは大切な役だと、求められるのだから立派なことだと言ったイーシュに、エメインはそう尋ねた。
思っていると、肯定は出来なかった。けれど、否定する必要もないと、本心から思っていた。
(思って、いたのに)
怖い。
(思えなくなったら、どうしよう……)
否、答えなど分かりきっている。
きっともう、エフェスはできない。怖くて、惨めで、意味を見出せなくて、いつか逃げ出す。先代のエフェスのように。
(そうなったら、ぼく、もう……)
逃げ場がない、と続ける前に、息を潜めていた黒い靄が足元から立ち昇って、耳元で囁いた。
《良い機会だ》
男の声だった。低く良く通り、痺れるように心地良い揺れがある。
この黒い靄が一体何なのか、イーシュ自身も分かってはいない。いつの間にか傍にいて、物思いに沈むと不意に現れる。けれど他の者がいる時には現れない。だからこれが何なのか、誰かに尋ねる機会もなかった。
だが、今のところ困ったこともないので、イーシュは靄については深く考えることはやめていた。
その靄と声が、肌寒い日の夜明け頃、ゆっくりと立ち昇る霞のように、イーシュの肌に纏わりつく。
《言っただろう。お前が望めば、連中を皆殺しにすることも、船を奪うことも出来ると》
今年も船が帰っていくのをあの丘から見送った時も、この黒い靄はそんな風に甘く囁きかけた。
だがイーシュは、力なく首を横に振った。
「ぼくはそんなこと、一度も望んだことはないもの」
ただ平和で、皆が幸せであれば、それで良かった。エフェスでいることでそれに貢献できているのなら、それで良かった。
《本当に?》
「…………ッ」
優しく聞き返され、イーシュは見事に口ごもった。
《
「……でも、それまでは傷付かずに済む人が、一人はいるってことだから」
《あぁ、お前の代わりに、今の安全を得ている者がな》
「…………」
黒い靄が何を知っているのかも分からないが、そう言われれば想起する顔が一つ、あった。
「誰かと話しているの?」
「!」
またもや不意に背後から声がして、イーシュは飛び上がった。慌てて振り返れば、今まさに考えていたのと同じ顔が、そこにいた。
「アデルフィ……」
それは、少女だった。イーシュよりも小さな背、折れそうな程細い首、珊瑚石のように白い肌、薪拾いなどとても出来そうにない薄い背中には、美しい銀の髪が三つに編まれて流れている。
だが何よりこの儚げな少女の庇護欲を掻き立てるのは、その円らな青い瞳だろう。生まれつき視力が弱く、相手の表情をよく見るために、近付いて食い入るように見るのだ。
「イーシュよね? 今、誰かと話していなかった?」
今も人と木との区別がやっとつくくらいなのか、アデルフィは両手を探るようにしながらイーシュに歩み寄っている。
イーシュは慌ててアデルフィの手を取りながら、まごまごと否定した。
「いや、独り言だよ」
「……やっぱり、そうよね。気配は一人分しかなかったし」
「……うん」
頷きながら、イーシュはアデルフィの向かう方へと共に歩き出した。
そもそもマァラトから降りた先の道は、群れの各方向に向かう交差点のような場所だ。そんな所で独り考えごとに耽るなど、適切ではなかった。
「どこへ行くの?」
「薬草を採りに。また飯炊きの人が怪我をしたみたいだから」
「ぼくも行くよ」
アデルフィもサカではあるが、その視力のせいで出来ることは限られている。薬草採りは数少ない仕事で、エフェスに食事を運ぶのもそうだ。イーシュの時には、アデルフィが食事を運んでくれていた。
(……アデルフィは、小さいな)
本来なら、視力の弱い者など議論の余地なくエフェスだ。だがアデルフィはそうならなかった。父親が先代のアハトだったからだ。そして唯一生き残った兄弟が、当代のアハトになった。
そしてエフェスから産まれたイーシュがいた。加えて髪も目も色素が薄く、陽に弱く、体力もない。
アデルフィとイーシュのどちらがより役に立たないかには、議論の余地があった。だが結局、イーシュになった。群れの会議で、公明正大に決められたことだと告げられた。
だから、イーシュは受け入れた。
求められたのだと、誇らしくさえあったのに。
《お前は、本当に群れの全ての幸せのために犠牲になっているのか?》
本当は、ハイラムが諍いの果てにたった一人残った妹を守るためだけに、イーシュに苦難を強いているのならば。
それは本当に善いことなのか――許せることなのか、イーシュには一つも分からなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます