第23話 炒り豆に花は咲かず
気を失っていたエメインは、頬に触れる冷たさで目が覚めた。
「……ッ、な、なに……ッ?」
ハッと目を開け、反射的に体を起こそうとしたが、全身を貫いた激痛にその場で声もなく蹲った。
それを宥めるように、戸惑う声がした。
「ま、まだ動かない方がいいよ。いま手当てするから」
イーシュだ。痛ましそうな顔をして、横たわるエメインを見下ろしている。その顔は年相応に幼くあまりに善良で、だからこそエメインは恐ろしくなった。欺瞞や建前といったものが、どこにも見当たらなかったから。
(まさか、僕を本気で心配してるのか? 君がその手で、この場所に僕を堕としたのに……?)
だとしたら、頭がおかしいとしか言いようがない。それとも、この破綻しきった矛盾に、本気で気付いていないとでもいうのだろうか。
「痛いよね。エーブリエータスも持ってきたから、深く吸うといいよ」
エメインの脇で両膝を揃えて座っていたイーシュは、傍らに手を伸ばしてあの薄紅色の花を一枝、エメインの鼻先に置く。その痺れるような甘ったるい匂いが鼻腔に忍び込んで、エメインはウッと息を止めた。
「それ、麻痺……」
「え? あぁ、じかに吸うと痺れるけど、匂いだけなら痛みを和らげる程度だから、大丈夫だよ」
それは痛みを緩和しているのではなく思考力を奪っているのではないかと思ったが、今のエメインには花を押しのける力もない。
されるがままのエメインの前で、イーシュは再び膝の前に置いた乳鉢に似たもの――タマルの果肉を削いだ後の外皮を再利用しているらしい――に手を突っ込むと、真緑に染まった手をエメインの顔に塗りつけた。
「ッ」
ひやりと冷たい感触と、ピリッと痺れるような痛みが走る。しかもエーブリエータスの甘い花香があるというのに、それを打ち消してなお余りあるほど草臭い。
「今日は
ぺたぺたと、恐らく薬草を擂り潰したのだろうものを、イーシュは赤く腫れあがった箇所に丁寧に塗り込んでいく。
「殴られるのって、痛いし、怖いよね。ぼくも、すごく苦手なんだ」
爪で浅く裂けた場所には、皮膚を引っ張らないように慎重に。
「いつも来ないといいなって思っちゃうし、怒ってる人なんか見るだけで怖くて」
腹や背中は、触診をするように触れながら、労わるようにゆっくりと。
「我慢しなきゃって思うんだけど、いつも泣いちゃうんだ」
その手が冷たくて痛くて、イーシュの話す内容が自分の感覚と同じで、エメインはまた生理的な涙が目尻から零れていた。
「……ぅっ、……」
痛いことを、辛いことを、誰かに理解してほしかった。こんな酷い目に遭うのはエメインのせいでは全然なくて、周りが、世界が悪いのだと。
暴言や暴力を受ける間は恐ろしい程に孤独で、絶望的で、縋れるものがあれば何にでも飛び付きたかった。でも救いは何にもなくて、嵐が去った後の惨めなだけの自分を、大丈夫だと、君が弱いわけでも、情けないわけでもないと言われれば、それが自分をこんな目に遭わせた元凶でも、涙を止めることはできなかった。
「……辛かったね。よく頑張ったね」
そんなエメインの葛藤を何もかも察したように、イーシュが薬のついていない手でエメインの栗色の髪を撫でた。それはエメインよりもずっと幼い見かけなのに酷く大人びた手付きで、益々涙が鼻先を伝った。
けれど。
「これで、また群れの秩序は守られたね」
「…………、は?」
続いた言葉の誇らしさに、エメインは耳を疑った。
イーシュが続ける。
「エフェスがいないと、すぐ群れの数が減るんだって。些細なことで諍いが起きるから。ハイラムが子供の頃に酷い時期があって、一気に半分――今の三十人くらいになったって、ハイラムが言ってた。だから、ぼくは――エフェスは必要なんだって」
理解できない、とエメインは思った。
「……ちつじょ? 人を殺す秩序が?」
言葉も単語も理解できないが、それ以上にイーシュが分からなかった。
たった今、エメインを理解してくれたのではないのか。この悲しみを、辛さを、憤りを、不条理を、分かると同意してくれたのではないのか。それと同じ口で、この理不尽な暴力を肯定するとでも言うのか。
(『だから』必要? 僕が、殴られることが?)
否、違う。そんなこと、あるはずがない。
そもそもこの世に、必要な暴力などあるはずがない。あっていいはずがないのに。
「え? ち、違うよ」
地べたに頬をつけ、ボロボロと泣いていたエメインの突然の鬼気迫るさまに、イーシュは驚いたように首を横に振った。
「人を殺さないための秩序だよ。エフェスがいないと、すぐに無駄な争いが起きるから」
「……起きればいい。みんな殺し合えばいいんだ」
「そ、そんなことになったら、きみも死んじゃうよ?」
「その前に逃げるに決まってるだろ!」
それは至極当然の答えだった。
自分を傷付ける奴など、殺し合って消えればいい。あの狐男も、どうせ誰かに手柄を奪われたか邪魔されたかしたのだろう。それなら、その相手を直接殴りにいけば良かったのだ。そして共倒れすればいい。
そうしてエメインを傷付ける奴も見限る奴も、みんないなくなれば、それが真の平和だ。
その、はずなのに。
「……独りで?」
「…………!」
不安そうに首を傾げて問われ、エメインは勢いのままに肯定できなかった。
だって、きっと死ぬから。
「独りは、寂しいよ?」
イーシュが、声変わり前の無垢な声で、寂しげに言う。
確かに、独りは寂しいだろう。けれど思えば、エメインは本当の孤独すら知らない。
でも、今は強がった。
「……一人でも、生きていける」
でなければ、ここから抜け出すことなど到底できない気がしたから。
しかしイーシュは、ますます肩と声調を落とした。
「独りだと、何もできないけどなぁ。サカだった時は、誰からも求められなくて、冷たい目で見られて、何の役にも立たなくて……」
「サカ?」
「えっと、『役』を持ってない……その他大勢? みたいな」
「…………」
イーシュが、たどたどしく説明する。その言葉もまたエメインの心を抉ったが、それには気付かぬまま、イーシュはパッと笑った。
「だから大変な役でも、求められるのって、すごいことなんだよ」
馬鹿なと、エメインはすぐには言えなかった。
誰もが役割を持つ中、自分だけが何もないという引け目は、強い圧力となって居場所を奪いにくる。その怖さは、エメインにも嫌になるほど覚えがある。
それでも、こんなにも痛いのは嫌だ。こんな求められ方を喜ぶなど、異常でしかない。社会に必要とされたいとは思うけれど、こんな形では決してない。
エメインは懐疑的に尋ねた。その下の本心では、イーシュにもまたこの群れにいられなくなるほどに疑念が生まれればいいと、仄暗く願いながら。
「……本気でそう思ってるの? 例えば、あのハイラムと同じくらい凄いって」
「それ、は……」
すると案の定、イーシュは血のような赤い瞳を泳がせて言い淀んだ。心許なげに、細い尻尾に触れる。
それから、白灰色の丸い耳を倒して情けなさそうに笑った。
「だって、ぼくにはなんにも出来ないもの。群れを率いるなんて」
その笑顔に、エメインは既視感を覚えた。嫌だと思うのに、イーシュが悪意なく続ける。
「きみだって、同じじゃないの?」
「――――」
ことり、と小首を傾げて。伸ばしっぱなしの白灰色の髪が、湿った風にふわと揺れる。
エメインはその無垢な少年の顔から、
(……もう、嫌だ……何も考えたくない……)
イーシュとエメインのどちらが正しいかなど、論じたくもない。
エメインは傷付きたくない、それだけだ。正しさなど、何の救いにもならない。
たとえそれが、自分以外の全員が求める存在で、その全員が楽園に居続けるためには最も効果的で最善の手段なのだと、理解できたとしても。
◆
傷の回復に酷く体力を使うせいか、エメインは薬草の青臭さと痛みにも関わらず、度々短く気を失った。
はっきりと覚醒したのは、第三者の声が聞こえたからだった。
「様子はどうだ」
「アハト=ハイラム」
横たわるエメインをじっと見ていたイーシュの背後に、いつの間にかハイラムが立っていた。
(……怖い)
エメインは横目でハイラムを盗み見上げながら、呼吸が浅くなるのを感じた。
デフテロよりも体格は細身に見えるのに、どこか威圧感がある。やはり、アハトだからだろうか。
ハイラムはあちこち擦り傷や青痣だらけのエメインを冷めた目で一瞥して、イーシュに視線を戻した。
「新しいエフェスは逃げずに役を果たしているか」
「うん。折れてる所もないし、多分」
イーシュが、再度エメインの体を簡単に検分しながら頷く。対するエメインは、その答え方にゾッとした。
つまり、エメインが激しく抵抗して逃げようとするなら、骨を折ることも厭わないという意味ではないか。
「三日も猶予を与えたのだ。飯も分け与えた。働いて当然だ」
「でも、
「だから何だ?」
憐憫を含んだイーシュの言葉を、ハイラムは冷たい青い瞳で黙らせた。そして次には、信じられないようなことを言い放った。
「
「そ、そんなこと……しないよ」
イーシュが、困惑するように眼差しを伏せた。しかしそのやり取りにエメインはもう堪えきれず、嫌悪感をそのまま吐き出していた。
「獣……!」
怖さは勿論あった。
この男は群れの支配者で、エフェスを作り、悪意を許している張本人だ。不快を与えれば、躊躇なくエメインを殴るだろう。
体は正直で、ハイラムの青い瞳がエメインを向いた刹那、ヒッと縮こまった。だがハイラムの手は動くことなく、代わりにその薄い唇が反論した。
「人も獣だ」
「……僕は違う」
嘲笑を含んだ断言に、エメインは心臓がキリキリするのを感じながらも、どうにか否定した。
ここで認めてしまったら、きっともう、逃げるために立ち上がろうと思う気力すらなくなってしまう気がしたから。
ふん、とハイラムが鼻を鳴らす。
「知らんのか? 動物も群れを持てば最下位を作って標的とする。自然の摂理らしいぞ」
「それは……」
報復行動や転嫁行動は、社会性のある動物の間ではしばしば見られると、調査班の学者も言っていた。魔獣は群れと社会性が共存しにくいが、この狭く特殊な環境の島でなら芽生えるかもしれないと。
実際、芽生えたのは獣よりも人が先だったようだが。
「か、神様がそう決めたとでも言いたいのか」
エメインの決死の反論に、ハイラムはハッと吐き捨てた。
「神? そんなものはどうでもいい。ただ、生まれた時から世界がそうなっている。だから、それが『普通』で『自然』というだけだ」
「そっ、そんな『普通』が『自然』でいいはずないだろ……!?」
堪らず、エメインは腕を突っ張りながら叫んでいた。
「ま、まだ動いちゃだめだよ」
イーシュが慌てて止めに入るが、その小さな肩を押しのけて語を繋ぐ。
「
「愚か者め。個体差は必ず生じる。皆同じならば、死ぬ時もまた同じになるからだ。それでは種が絶える。故に個体差は生まれる。好むと好まざるとに関わらず」
「そ、それでも、最下位を決める必要なんか……!」
「個体差が生じれば、最下位もまた必ず生まれる。だがそれが明確でなければ、次は
「っ」
何を言っても理論整然と反駁するハイラムに、エメインは段々と追い込まれるようにたじろいだ。
獣同然と見なしていた相手が、発達した文明の中に生きてきたはずの自分よりも遥かに社会的な理由で暴力を容認する。
それは、戦争が憎悪ではなく政治に過ぎないこととどこか似ているようで、エメインは呆気なく負けそうになった。
(戦争はなくならないって、アステリ兄上が言っていた)
次兄が常に前線に駆り出されるのはなぜかと聞いた時、長兄は寂しげにそう答えた。理由も聞いたが、エメインにはどうにも理解できなかった。
だが、いま分かることはある。
ここで引けば、それはエフェスとしての役割を――自分への暴力を受け入れるということに等しくて。
(そんなの嫌だ……!)
痛いのは嫌だ。自分だけ損をするのも嫌だ。こんな場所で殴り殺されるなんて、絶対に嫌だ!
エメインは、吐き気を覚えながらも言葉を振り絞った。
「でも、それは……最下位を虐めるからだろっ? 話し合えば――」
「
「――――」
「悪意は、完全に絶つことはできない。だがある程度制御することはできる。制御されない悪意は、いずれ群れ全体を蝕む」
「……ッ」
淀みなく返される正論に、エメインはついに言葉を失った。
嫌なことがあれば、話し合いで解決すればいい。
それはとても美しい正論だ。
だが人は嘘を吐くし、自分を守るために本音を隠す。それは決して悪いことではないし、往々にして自他を守る。それで円滑に進むなら、責められるようなことではないはずだ。
けれどそれは善と悪を入れ替えるだけで、呆気なく気遣いから嘘つきに成り果てる。
そしてそれは、相手の心が目に見えない限り、死ぬまで続く。
何故なら、この世界は善人だけが生きる楽園ではないから。
(……つらい)
周囲は敵ばかりだと思いながら生きるのは辛い。いつか心が折れる。
だが残念なことに、学校でも宮廷でも、悪意は常にあった。会話は善意だけで構成されることは決してなく、必ず何かに敵意が向けられていた。それは反りの合わない学友だったり、意地の悪い教師だったり、その場にはいない、話したこともない相手の場合もあった。
そしてその敵意を向ける先が消えても、敵意はなくならない。次の標的に移るだけだ。しかもそれは、最初の標的がいた時には許せていたはずなのに、いなくなると不思議に許せなくなるのだ。
エフェスとは、それを意図的に行っていた。エフェスのいる岩陰は、群れのどの場所からでも大体見えるから。
ゴミは塵箱に捨てるように、この群れで生まれる悪感情は、エフェスに向けられる。結果、平和は保たれる。塵箱の周囲にはゴミが散乱しないように。
(最低な仕組みだ……)
けれど、ザラに裏切られた苦しみを、エメインはもう身をもって知っている。明日も明後日もその苦しみに怯えるのかと考えるのは、あまりに鬱々として恐ろしかった。
この世界には本当の善意などはなく、死ぬまで他者を疑い、怯え苦しむのだと絶望し続けるのは、あまりにも。
エメインは、喋り過ぎたせいで体の中も外もギシギシと痛むのに、それでもなお、乾いた涙の痕にまた涙を伝わせて、縋るように言った。
「お前は、一番上……支配者だから、そんな風に簡単に考えられるんだ」
「エメイン、それはちが――」
「イーシュ」
それまで無言で手当てを続けていたイーシュが口を挟んだが、ハイラムが一言で黙らせる。
それから、一拍を空けてエメインを見下ろすと、粛々と続けた。
「アハトは、群れを守り、種を守る。その全ての責を負う。……それだけだ」
この島には決して現れない蒼天の瞳を、少しだけ寂しげに伏せて。
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