第22話 心折れ意気尽く
エメインが気絶するように寝ていた間にイーシュが整えてくれたインゲルの葉の寝床で、エメインは警戒心が取れない猫のように丸まって眠った。首輪が気道を圧迫して苦しい。
研究棟と違い密閉性は低く、湿った風が常に肌に纏わりつくが、気温は高く、肌寒さはない。マァラトの岩壁は、その向こうに水を含むからか少しひんやりしているが、インゲルの葉がその冷気を遮断してくれていた。
眠れないほど不快という程ではない。それでも、トゥバの縄が伸びれば音が鳴り、
(起きたくない)
このまま朝がこなければいいのにと、少しずつ冷えていく空気を肺に入れながら、願う。
ザラが起きだすのは、そんな時間だ。
薄目を開けても、まだ世界は暗い。その黎明に向かって、ザラは迷いなく歩き出す。
すると、周囲の森も少しずつ動き始める。
何日か観察して分かったが、このマァラトの岩陰は群れの中でも少し高台に位置しているようで、周囲を行きかう人影がちらほら見えた。
目の前の藪の向こうはなだらかな斜面で、その下に獣道か何かがあるらしい。数人が連れ立って歩きながら、和やかに会話をしている声が時折届く。そしてそれは、前方以外からも聞こえていた。
(何でそんなに普通なんだよ……)
残虐非道な声も、雄叫びも悲鳴も、恐ろしげなものは何も無い。ともすれば優しそうな女性の笑い声すら聞こえる。悪鬼羅刹の巣のはずなのに。
それが徐々に耳障りになり、木漏れ日が瞼の上で踊る頃に、イーシュが朝餉を運んでくる。
ちなみに、芋虫のような添え物が何か聞くと、タマルという木の実だと教えてくれた。棗椰子のような高木の上に生り、外皮は硬く、割って中の果肉をこそいで水と混ぜ、葉に包んで蒸し焼きにしたのだとか。
主食はどうやらこちらの方で、他にも薄く伸ばして焼いたり、肉を包んだりと、他の食材に合わせて加工は変えるらしい。
「何で、僕に出すのは芋虫型なの……?」
三日ほど同じ形状が続き、エメインはうんざりして愚痴を垂れた。すると、聞き咎めたイーシュが意外にも答えをくれた。
「それは、多分それが一番柔らかいから、だと思うよ。焼くと、もっと硬くなるから」
「……何で?」
「何でって……そう聞かれた、から?」
問い返すと、何故かイーシュが首を傾げた。エメインも一緒に首を傾けた。
だがまだ三日が経っても、エメインの体力は完全に回復したとは言い難かった。食べやすい料理――とも言えないほど単純な工程しかなさそうだが――は有り難い。
「もしかして、肉が挽き肉になったのって」
食べやすいと考えて、ふと肉の形も二日目から変わっていたことを思い出した。理由など考えてもいなかったが、もしやエメインを慮って小さくしてくれたのかと聞いたのだが。
「それは、何だかザラが黙々と叩き続けてて、いつの間にかそうなってたみたい。火にかけれなくなって、それも蒸し焼きにしてたよ」
「あ、そう……」
それは絶対八つ当たりの憂さ晴らしだろうと思ったが、黙っておいた。
だがこの話を聞いて、やはりとエメインは思った。
(やっぱり、もうザラは飯炊きとして働いてるんだ)
夜が明けきらぬ前から起き出すのも、群れ全体の朝食を作るためだろう。ザラが料理を始めたのなら、その内塩味くらいは足されるかもしれない。
イーシュがいなくなり、一人でもそもそと朝食を片付ける。挽き肉とタマルを一緒に包んで焼いたのか、肉汁が沁みて少しだけ旨味がついている気がする。
食べた後は、短い休憩を挟んで体をほぐす。トゥバの縄に気を付けながら、屈伸したり跳躍したりして、弱っている体を少しでも回復させる。
その間、エメインはずっと周囲を警戒し続けた。
トゥバの縄のせいで岩陰の前を数メートルうろちょろするくらいが精々だが、藪の向こうや木立の陰に何となく人の気配があることは分かる。周辺を行き交う善性種の存在を関知できたのもそのお陰だ。
最初に連れていかれた
というのも、どうやらマァラトの屋根部分に当たる岩の、更に上に折り重なるように乗っている岩盤に、群れ全体を監視し、外敵を警戒するための見張り台があるらしい。
朝と夕の決まった頃合いに、数人が昇り降りしている気配がある。恐らく夜行性が多い魔獣のために、毎日交代で監視を行っているのだろう。
トゥバの縄の音がそれ程大きくないのは善性種の耳が良いからかと思ったが、どうやら上の監視が気付けば十分ということらしい。
(今日も、何もない、のかな)
食べて、休んで、観察して、警戒して。
だが恐れていた来客は、現れなかった。
デフテロの脅しのような言葉に過剰に恐れていたが、思えば当のイーシュがそこまで悲惨な表情をしていなかった。
案外、暴力は恐れるほど頻繁ではないのかもしれない。
そう僅かな希望を抱いたのは、愚かなことだった。
変化が訪れたのは、エフェスになって四日目の昼。兆しは、静寂だった。
「何だろう……いつもと違う?」
エメインは、そわそわと落ち着かない気持ちで周囲を窺った。
理由は、後で知った。大人数で狩りに出ていたのだ。
日々の食料は、男が二、三人一組になって危険の少ない魔獣を狩り、女が交代で水汲みや果実の採集を行う。だがたまに群れを狙う強い魔獣の存在を察知すると、その討伐のため複数組からの討伐隊が編成されるのだとか。その間、女たちは各自の巣穴に戻り、息を潜める。
そのせいで、群れは一時静かになる。
そして討伐隊が戻ってきた時、群れは反動のように賑やかになる。一番槍を果たした者には栄誉を、致命傷を与えた者には褒美を。反対に臆病を見せた者には誹りが、何もしなかった者には叱責が与えられる。
討伐した魔獣の肉を群れ全体で振る舞いながら、そこでは明暗が画然と分かたれる。
その余波を最も受けるのが、エフェスだった。
「…………?」
宴のような笑い声や口笛が森の中から聞こえるのをぼんやりと聞いていた時、エメインは徐々に近付いてくる話し声を捉えた。イーシュでもザラでもない。複数人の男が、苛立ちの混ざった声で何事か言い合っている。
(喧嘩?……っていう感じでもないけど)
更に耳を澄ますと、押さえた足音に混じって少しずつ内容が聞き取れるようになってきた。
「……い気になりやがって」
「信じらんねぇ。何だよありゃ」
「やってらんねぇぜ」
怒りや悪意を内包する、エメインの苦手な声だった。トゥバの縄がなければ、躊躇いなく逃げて隠れている。
ついに来たのだと、エメインは嫌でも悟った。
「ど、どうしよう……っ」
奥行きのないマァラトには、隠れる場所などない。体力はある程度戻っている。走ることもできる。
「に、逃げる?」
どこにも相談相手などいないのに、エメインは左右を見回した。必死で可能性を考える。
トゥバの縄の強度は、分からない。だがエメインの細腕では流石に千切れなさそうだ。神法で切るしかない。そしてその直後に、神法で素早く距離を稼ぐ。
今のエメインに出来るのはそれだけだ。やってくる男たちを倒すのに神法を使ってもいいが、走って逃げなければならないのだから結果は一緒だ。
次に追いつかれれば、エメインは終わる。
(次は、殺される)
神法を使って逃げるのであれば、夜になる前。群れが寝静まる頃だけだ。
まだ、逃げる時ではない。
「いやだ……逃げたい……」
声の主たちがここに着けば、何をされるのか。嫌な想像だけが無限に膨らみ、エメインは冷たい壁に張り付いて頭を抱えて蹲った。
痛くありませんように。怖くありませんように。どんどん速く強くなる心音を聞きながら、自分で作った希望に祈る。
端的に言えば、無駄なことだった。
「!」
がさり、と音がして、目の前の藪が掻き分けられる。そこから、三人の男が現れた。
「これが今のエフェス?」
「本当に
蹲るエメインを見付けて、値踏みするような視線を向ける。狐のような黄色い三角耳を持つのが二人、残る一人は猿と人の中間のような容貌だ。三人とも所々負傷し、あちこちに血が付着している。
「何でもいい」
先頭に立った狐耳の、最も傷の多い男が、苛立たしげに吐き捨てた。その声の鋭さに、エメインが体を強張らせる暇もなかった。
「ッぁが!?」
容赦のない蹴りが、無防備な顔面にめり込んだ。弾かれた後頭部がガッと壁にぶつかり、脳が二度揺れる。
そこからは、成す術もなかった。
「何が、二の足を踏んでいるだ!」
「あれは
「よくも己を駒にしやがって……!」
狐男の口から一つ文句が飛び出すごとに、手加減のない蹴りがエメインを襲った。頭、腹、背中。その度にトゥバの縄がぴぃぴぃ鳴いたが、誰も気にしないし、監視が降りてくる気配もない。
まるで練習用の巻き藁でも相手にするかのように、エメインが悲鳴を上げても泣いても、その足が止まることはなかった。
「あぁ、腹が立つ、腹が立つ……」
ぐったりと横たわるエメインの首輪を掴み上げて、男が唸る。それこそ、本物の獣のように。
「ゃ……や、め……」
「腹が立つ!」
「ッ!」
ゴッと、毛深い拳がエメインの頬骨を抉った。二度、三度と、群れの中では抑えていた怒りを、これでもかと乗せて。
「まったく!」
ゴッ。
「憂さ晴らしでもしてなきゃ!」
ゴッ。
「やってらんねぇぜ!」
ゴッ。
暴力は、終わることのないように思われた。その間エメインに出来たことといえば、歯を食いしばることと、血の溜まった口で懇願することだけだった。
「痛ぃ……やめて……っ」
身に覚えのない、自分には微塵も向いていない悪意を浴びながら、エメインはただそれだけを繰り返した。発言に効果はないと分かっているのに、幼子のように、ただ。
痛い。やめて。お願い。
終わりかけの記憶は、もう曖昧だ。
「すっきりしたか?」
「あぁ、少し」
「じゃあ戻るか」
狐男の暴力をただ静観していた残りの二人が、口々に声をかける。まるで善いことをしたかのように、屈託のない声だった。
そして事実、彼らにとっては善意だった。
(……痛い……)
それはエフェスの元に来た者が過剰な行為――例えば殺人とか性暴力――などに及ばないようにするための監視役で、感情を制御し宥めるためにも、付き添いは暗黙の了解となっていた。
(……痛い……)
ならば八つ当たりの先もエフェスではなく木や魔獣など人以外で良いではないかと思うが、それでは十分な発散にはならないのだとは、後でイーシュに言われた。
(……痛い……)
他者を屈服させるという行為と、絶対的な強者という立場の安保。そしてそれが唯一許される、悪と認定されない場所。
それが常に存在することは、無意識の優越感を根底に置いた絶対的な安心感を生み、集団全体の安定した心の平穏を維持することに大きく寄与していた。
たった一人の、生贄が存在するだけで。
(……それが、何で、僕なんだよ……)
エメインは冷たい地面に横たわったまま、止まらない涙を流していた。指一本どころか、瞼を動かすだけでもひりひりと痛い。口の中は歯で切れて血だらけで、けれど唾と共に吐き出すのもまた痛くて、口の端から赤い涎を垂れ流していた。
惨めだった。
(……もう、いやだ……)
学校でも、虐めはあった。
エメインの通った学校は王立専学校で、貴族以外にも裕福で優秀な平民もまた入学が可能だった。落ちこぼれは貴族にも平民にも等しく発生したが、虐めの標的になるのはやはり平民が圧倒的に多かった。
エメインは、伯爵家の子息という出自と兄姉の存在感から、辛うじて陰惨な暴力から逃れることができた。
だが侮蔑の視線は卒業までついて回った。手は出さずとも、目で口で、彼らはエメインを侮辱した。それは時にナイフよりも鋭くエメインの生きる力をズタボロにしたし、辛いと思った。
けれどそれは遥かに生温いものだったのだと、エメインはようやく思い知った。
暴力は、痛い。たった一発で、エメインの生きる力を根元からへし折った。そしてその目は、学校の連中と何一つ変わらなかった。
エメインを自分よりも下等で、貶めて良い存在だと罪悪感なく考えている。同じ人だとは、思ってもいない。
否、同じではなくとも、人とは思っているだろう。だからこそ、憂さが晴れるのだ。その認識は余計にエメインを惨めにするだけで、何の救いにもならないけれど。
(……何で、僕が、こんな目に……)
胸の中で、独り問う。
丁度いいから、という理由以外、見つけられなかった。
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