第29話 心の欲する所に従え

 右のエーブリエータスの木群こむれはオレンジ色に燃え上がり、左の蔓が巻き付いた気根はまるで人影のようにおどろおどろしく燃えている。

 背後からも焦げ臭い匂いが漂い、天幕が焼けるのも時間の問題だろう。

 だが、白灰色の髪と細長い尻尾を炎の赤に染めるイーシュに、逃げる素振りは豪もない。


「イーシュ、逃げ遅れたのか? 何を見て……」


 エメインはそう問いかけながらも、その奇妙な様子に言葉を続けられなかった。

 イーシュは燃え盛る森を見上げてはいるが、その頬は緩み、口元は緩く開き、踊るように揺れる火先を熱心に見つめている。とても、怯えて様子を窺っているという様子ではない。

 イーシュは、風に舞って届く火の粉からやっと視線を離すと、道の先のエメインを見て、にこりと笑った。


「燃えてるなぁって、思って」


 その微笑みは、マァラトでエメインの手当をしてくれた時と変わらず穏やかで、だからこそ異様だった。


「なんで、笑って……」

「その黒いのは何だ?」


 小さく慄くエメインを遮って、ザラが視線を落とす。その視線の先では、不規則に揺らめく炎が作る黒い影が、イーシュの足元に纏わりつくように蠢いていた。


(影……じゃ、ないのか?)


 ザラの指摘で改めて影を注視してやっと、エメインはその不自然さに気付いた。それは影というよりも、地面から立ち昇る朝靄のように立体的だった。だが黒煙や黒炭という風でもない。


(なんか、どこかで見た覚えが……)


 どこでだったかと、記憶を辿る。

 一方イーシュは、少しだけ驚いたように赤い目を大きくした。


「見えるの?」


 それから、何かに応じるように隣の黒い影を振り返る。


「この火で……? そうなんだ……」


 そして、小さく頷く。その仕草は、まるで誰かと会話でもしているようだった。

 エメインは、高温の炎に囲まれているというのに薄ら寒ささえ感じた。


「イーシュ? そこに……誰かいるのか?」


 是非いないと言ってくれと願いながら、尋ねる。

 しかしイーシュは、はにかみながらこう答えた。


「うん。ぼくの……トモダチ? オンジン?」


 そこには、子供が初めて聞く言葉をそのまま繰り返すようなぎこちなさがあった。だから余計に、その答えに疑念を挟むことができなかった。


(黒い影が、友達? 何を言って……)


 イーシュはこの火事で視力でもやられたのかと、エメインは思いたかった。だが心の中でそう決めつけるよりも早く、イーシュの傍に纏わりついていた黒い影は見る間に人の形となってそこに現れた。


「ヒトに、なった……?」


 それは、イーシュよりも遥かに背丈のある、成人男性らしき姿だった。向こうが薄っすらと透けて見える霞のような影からも分かる長い手足に、厚みのある肩。頭部から流れて靡く長い髪は、膝裏まである。

 だが何より引っかかったのは、頭部から王冠のように伸びる、大小三つの突起――角のようなものだった。額の中央から伸びるものが最も長く、こめかみからはその半分ほどの長さのものが見える。

 まさかと、エメインが本能的に足を引いた時、



「ヒトなものか。悪者まものだろう」



「!」


 別の方向から、聞き知った声がした。

 振り向けば、少し上がった岩場の陰から、ハイラムともう一人の善性種エピオテスが近付いてきていた。頬や服が所々黒く煤けるところを見ると、出火原因を確かめに行っていたのかもしれない。

 だが今は、聞き捨てならない単語の方が重要度が高かった。


「魔者って……まさか強人種スクリロス!?」


 エメインは痛む喉を引きつらせて、ハイラムと黒い人影とを見比べた。

 封鎌の地スフラギタの地下には、魔王に従った邪悪な強人種が封じられているとは、教養のある大人なら誰もが知る伝説だ。だが奴らは、英雄神が突き立てた封印の鎌によって二度と地上に出られない、はずだ。

 それに専門家による五日間の調査でも、結界には異常なしと結果が出たばかりだ。出てこられるはずがない。


「でも、島には生きてる強人種はいないって……」

「どうでもいい。強人種なら、殺す」

「ザラ!?」


 希望を探すように否定するエメインの前で、ザラが猫のように飛び出した。

 左手の剣は逆手に、右手を拳に変え、一息に影までの距離を詰める。エメインが危険だと止める声よりも早く、ザラは影の前まで迫ると右の拳を躊躇なく振りかぶった。

 人の形をした影に、拳がめり込む。


「え? なに――」

「!?」


 イーシュが緊張感もなく瞬きするその横で、黒い影がパッと散った。ザラが三白眼を小さく見開く。


「サイル! 大丈夫っ?」


 イーシュが、吹き散らされた煙のように辺りに散った黒い靄に呼びかける。それを険しく注視しながら、ザラが再び体勢を整える。

 そしてエメインは、


「……あ」


 その薄くなった黒い靄を見て、ついに思い出した。


「まさか、瘴気……?」


 あまりに濃すぎて結びつかなかったが、それは第一結界に留まりきらず外に漏れだして漂っていた、瘴気と同じ気配だった。

 だが研究棟よりも善性種の縄張りの方が中心部に近いとは言え、向こう側がよく見えない程とは、濃いという範疇を越えている。


「でも、そんなこと……」


 瘴気が意思を持つとか、人型を取るなど、聞いたこともない。

 だが唯一事情を知るだろうイーシュは、驚いたようにザラを一度見ると、黒い靄を掻き集めるようにしてから、その場から逃げ出した。


「イーシュ!」


 ハイラムともう一人の善性種が、その小さな背を追いかける。

 ザラもまた迷わず追いかけようとするものだから、エメインは必死に呼びかけながら追いかけた。


「ザラ、待って!」


 しかし反応はない。エメインはまだあちこち痛む体をおして、懸命に走りながら言葉を続けた。


「追いかけてどうするの!? 今はともかく、火から逃げなきゃ……ッ」

「お前は船か、火が回ってるなら桟橋に逃げろ」


 エメインの苦しげな息遣いに気付いて、ザラが僅かに速度を落としてそう返す。だがエメインが言いたいのはそうではない。


「だからっ、ザラも一緒に」

「強人種は殺す。実体がなくても殺す。そいつに協力する奴がいるなら……そいつも殺す」

「協力って、それ……っ」


 その先を問おうとして、けれどそれ以上はザラの走る速度についていけなくて、エメインは途中でもつれるように足を止めた。両膝に手をついて、大きく肩で息をする。

 怪我が治ってないから体を動かすのはまだ辛いし、通行証を取り戻したとはいえ、完全には瘴気を中和しきれていないのが分かる。

 どんどん暗い森の奥に走っていくザラたちの背中を見つめながら、エメインはまたあの思いに駆られた。


「ど、どうしよう……」


 火の手はどんどん広がり、もう逃げ場は前方にしかない。月も星も見えないから方角の見当もつかないが、今はザラやイーシュのことは関係なく走るしかない。


「…………違う」


 そうではないと、勃然とエメインは思った。

 走らなければ自分の身も守れないのは事実だ。助かるためには、ザラが密かに作ったという船か、海に突き出た桟橋まで行くのは正しい。

 けれど、そうしたいとは思えなかった。


「『どうしよう』は、もう嫌だ……」


 もう誰もいない森で独り、呟く。バチバチと騒ぎ立てる木々と炎に急き立てられるようにして、ゆらりと、足を前に踏み出す。

 『どうしよう』には、もう答えは出ている。ザラの指示通りに逃げることだ。けれどエメインは、そうはしたくないと思った。

 ならばその先にあるのは、何だ。


「……『どうしたいか』?」


 答えが、エメインの心の真ん中からゆっくりと浮かび上がった。

 エメインがしたいと思うこと。

 一人で安全な場所に逃げることは、したくない。ではザラを止めたいとか、助けになりたいかと言われれば、そこまで大それたことまでは言えない。

 エメインは落ちこぼれで、出来ることはほとんどなく、大抵のことは実力が伴わなかった。

 けれど一緒にいることは、力がなくたって出来る。今までと同じようにとは、いかなくても。


「ザラを、追いかけたい」


 何も出来ないことも、足手纏いで邪魔になるだけだとも分かっている。

 でも、いま離れるのは違うと、エメインは思った。


「……ザラ!」


 エメインは、走った。火の手に追われるのでもなく、誰かに言われたからでもなく、ただ、自分の意志に従って。




       ◆




 拳に手応えはなかった。殺すという以前に、そもそも生物でない可能性の方が高い。

 それでも、強人種を――あの禍々しい角を見てしまっては、見逃すという選択肢は最早有り得なかった。


『強人種は悪だ。決してこの地上に存在してはならない。見付けたのなら、刹那よりも早く殺せ。その存在を、絶対に許すな』


 角を見た瞬間から、物心つく前から聞かされていた師匠の言葉が脳裏に無限に鳴り続けている。

 まるで呪いだ。

 師匠に捨てられてからもう何年も経つのに、いまだに逆らうことが出来ない。

 だが、それでいい。

 強人種は、存在そのものが罪悪であることに、間違いはないのだから。


(まさか、こんな辺境でまで強人種と出くわすとはな)


 これぞ悪縁と言わず何と言おう。


(必要なら、先にあのガキを殺す)


 思ったよりもイーシュの足は速く、既に闇の中に見付けられないが、ハイラムたちの背中はまだ捉えられている。それに火から離れた分、他の匂いが少しずつ嗅ぎ分けられるようになってきた。イーシュの匂いは朝晩嗅いでいたから、多少離れても追跡できる。

 イーシュがどうやって強人種と接点を持ったかも、強人種に利用されているのかも、どうでもいい。

 強人種に繋がるものは、全て殺す。強人種に魅入られた者も手を貸す者も、同じく罪深いのだから。


『夜明け……お前の名前は夜明けザラだ』


 虐殺の夜が終わり、血と瓦礫の海に差したまっさらな陽光を見つめて師匠がそう言った時、名前も食事も与えられず放置されてきた幼子こどもは、ザラになった。


『夜明け前は最も暗い。だが手の届くところに光はある。子供も同じだ。まだ善悪の定まりきらない夜明けにいる』


 それは心からの教導であったかもしれないし、やはり心からの警告でしかなかったかもしれない。

 どちらにしろ、あの日の言葉が、ザラが生きる理由の全てであることには変わらない。


『お前が存在し続けることができる唯一の条件は、お前が善であることだけだ。お前の夜が明ける時、お前がじゅんせいの善であるために、証明し続けろ』


 ザラよりも低い背で、細い腕で、声で、もう傍にもいてくれない薄情な師匠が脅し続ける。


「……分かってるよ。クソ師匠」


 ザラはもう一度拳を握り締めると、火事の明かりも届かなくなった暗い森に向かって、迷わず速度を上げた。


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