第一章 いざ、世界の果てへ

第1話 白羽の矢が二本

 事の起こりは、二か月程前。

 エングレンデル帝国王室府の神法みほう室庶務課の片隅で、ラリス伯爵家末子エメインは死んだ魚の目で仕事を片付けていた。

 事務机の右側には、裁断前の白紙の山。左には、それを法術に使用できる規定の大きさに鋏で切り揃えた後の山。エメインはその間に座り、白紙を一枚取っては、黙々とちょきちょきちょき。


(……終わる気がしない)


 この単調な作業は、出仕してすぐに上司から言い渡された。今日中に千枚は必要だとか。本当に? などとは、勿論聞き返せない。

 しかも足元には、課内から集められた壊れた日用品や雑品が木箱に詰め込まれ、仕分けされるのを圧を放って待っている。


(今日こそは、発注に回すものだけでも選り分けようと思ってたのに)


 財務室からは、修理可能なものはなるべく修理して使うようにと言われているが、そんなことをしていてはどちらの仕事も間に合わなくなる。


(いっそ、全て発注に回そうかな)


 一瞬魔が差しそうになったが、それをすれば財務室からお叱りと共に発注書が突き返され、上司の罵声まで上乗せされるのは目に見えている。そうなれば、この雑務地獄から抜け出す日がまた遠のいてしまう。


(はぁぁ~。頑張んなきゃ……)


 エメインは吐き出せない文句を呑み込む代わりに、陰気な溜息を出して再び白紙を手に取った。今度は、思い切って二枚。

 綺麗に端を揃えて、木札を当てて、鋏の峰で跡を付ける。それから慎重に木札をどかし、また綺麗に端を揃えて、鋏を持ち上げた時。


「ラリスくん」

「ヒッ」


 出し抜けに背後から声をかけられて、エメインは揃えた紙を手放していた。あぁ、と思いながら、恐る恐る後ろを振り返る。

 上司が、笑顔で立っていた。両手に、嫌な紙の束を抱えている。


「これも頼める? こっちは明日まででいいから」

「…………は」


 い、という前に、紙の束が机上の左側に置かれた。五十枚ずつに並べた法術紙が、ばさりと崩れる。


「過去五年分の実績数と照らし合わせて、変化の大きいものだけ書き出してまとめるだけでいいから」


 そして去り際には「簡単だよね」と付け加えて、疑問を差し挟む間も与えず去って行ってしまった。

 パタン、と庶務課の扉が閉まる。


(『だけでいい』って……僕も、一応神法士なのに)


 エメインは今年王室府に入ったばかりの新人だが、それでも神法士であることには間違いない。

 神法士とは、繁殖力が高い代わりに非力な人間種ピリトスの中でも、天上に昇った神々に祈りを捧げ、その力の一端をお借りして奇跡を起こす者のことを言う。

 神法の素養がある者は協会に登録が義務付けられ、その力量や技術を資格等級の取得によって管理する。

 エメインも例に漏れず神法士の学科に通った。万年劣等生だったが、十八歳の時には、

卒業に必要な最低限の六級まではどうにか取得できた。

 配属前の三か月の軍事研修では百回くらい死ぬと思ったが、それでも生還した。

 父や兄には及ばずとも、これからそれなりに活躍できると期待していたのに。


(学校でも出来なかったのに、仕事を始めたからっていきなり上手く出来るようになるわけ、ないよな)


 配属後最初の一か月は、新人研修ということで先輩について色々と宮廷内を回った。

 庶務課は、神法室の幾つかある部署の中でも専門性が低く、特に事務作業や雑用の多い部署ではある。実務となれば、他部署の管轄に入らないもの全般を引き受け、時に他部署と連携して取り組むこともあった。

 例えば宮廷内の結界の維持管理や、宝蔵室にある法具の管理と修繕、神職室から依頼のあった法術符の作成など。

 その間に、何度かエメインが神法を施すこともあった。そしてそのほとんどに失敗した。

 結界の法術符を張り替える間の結界の維持では暴発し、法具の修理では間違って二重に神法をかけ、法術紙に神法を書くだけだったはずの仕事では、後から神職室から怒涛のクレームが届いた。


『正確さは認めるけど、威力がちょっとなぁ……』

『それに、日に二件が限度じゃ、やっと人を増やしてもらったのに意味がないぞ』


 ある時には、先輩たちが話しているのを偶然聞いてしまった。それは恐らく陰口ではなかったが、役立たずと思われていることは否定のしようもなかった。

 そして。


『でも、課長の雑用係が出来たんだから助かったよ』

『本当だよ。新人には可哀想だけど、これでしばらくはあの陰湿さから解放されるぜ』


 安堵と憐憫の混じったそのやり取りの意味を、エメインは一月も経たず実感することになった。

 まず神法を使った仕事を徐々に減らされ、最終的には一日中事務机で作業するような日々が続いた。

 先輩たちがこなした仕事を報告書にまとめ、不足した法術紙などの必要な消耗品を代わりに手配・作成し、経費などの申請もまとめて担当した。

 辛かったし惨めだったけれど、それでもエメインは黙々と仕事をこなした。自分の実力不足なのは明白だったからだ。

 時々、上司から執拗に嫌味や否定を受けることはあったけれど。何でそこまで言われなければならないのかと、思うことはあったけれど。

 間違っては、いないから。


 けれど、決定的に心が折れることはあった。先々月の仕事の失敗だ。

 上司から渡された経費申請でどうしても合わない数字があった。上司に相談に行くなど怖くて仕方なかったが、一人で抱え込むことも、誤魔化すこともエメインにはできなかった。

 だが相談し始めてすぐ、説明途中にも関わらず物凄い剣幕で怒られた。そしてエメインが弁明を挟む余地もなく仕事は取り上げられ、追い返された。


『君には全く失望したよ』


 と吐き捨てられて。

 以来、エメインへの扱いは下級官吏以下になった。仕事も、雑用が圧倒的に増えた。

 何が悪かったのか、エメインは今でもよく分かっていない。同僚に助けを求めても、明らかに避けられるようになった。上司がいる前では、会話すら嫌がられた。


(僕って、やっぱりダメなんだなぁ)


 こんなことになるなら、次兄と同じ武官を選べば良かったと思ったこともあったけれど。


(……無理。絶対無理。僕が武官とか)


 たった三か月の軍事研修でも、エメインは何度も吐いては逃げていた。なんなら最終日も吐いた。

 在学中も実技は最底辺の成績だったくせに、一生魔獣や危険な他種族を討伐するなんて、考えただけで卒倒してしまう。


「これ、どうしよう……」


 積まれたばかりの書類をぱらりとめくりながら、エメインは頭を抱えた。

 仕事内容としては、恐らく間違っていない。だが変化とはどの程度を言うのかとか、数値以外に内容も必要なのかとか、確認しなければ分からないことが幾つもあった。

 けれどそれを聞きに行けば、そんなことも自分で考えられないのかと言われるのは容易に想像できた。だが確認せずに行えば、これでは使えないと二度手間になることも確実だ。


(嫌だなぁ……)


 先々月の叱責を思い出すと、怖くて足が少しも動かない。あんな思いはもう二度としたくない。


「……とりあえず、縛ろう」


 エメインは、現実逃避した。法術紙を改めて束ね直し、麻紐を取りに席を立つ。


「あぁ、そうそう」

「ヒッ」


 そこに再び背後から上司の声がして、驚いた弾みに足が机に当たってしまった。机上の書類が、綺麗に雪崩を起こす。

 げっ、と視線が逸れた時、


「君、封鎌の地スフラギタの調査班に決まったから」

「……へ?」


 にこやかに、最果て行きの辞令が下された。




       ◆




 憂鬱だ、とマリスタ・アーグホス二等上士官は思った。


(いや、こいつが配属になってから憂鬱でなかったことがないな)


 エングレンデル帝国軍本隊歩兵科東方面隊国境警備班第三哨戒係の分隊長になって二年目のことだった。新しい部下に問題児がいると聞き、責任感の強いアーグホスはきっと自分の元で更生させてみせると思った。

 だが、結果は特に変化なしと言わざるを得ない。話を聞けば、問題を起こしては異動するを繰り返しているらしい。

 だがそれならば、せめて自分の分隊からいなくなってからこの命令が発せられれば良かったのにと、思わざるを得ない。


「……ザラ・オルファノス三等下士官」


 アーグホスは、またも出そうになる溜息を無理やり飲み込んで、眼前に直立する男の名を呼んだ。


「はい」


 応えたのは、まだ若い男だ。二十歳前後だったろうか。額に使い古したバンダナを巻いている以外は、帝国陸軍支給の制服をきちんと纏っている。

 確か十四歳頃、養い親に捨てられるようにして帝国軍に入ったと聞いている。最初の数年は見習い兵として中央部隊に所属していたようだが、二度の尋問を受けて北方面隊の国境最前線に飛ばされて以降、辺境と前線を転々としてきた。


(苦労してるんだよな。そのせいだとは思うんだが)


 今も、国境を越えて村を荒らす魔獣の討伐から戻ってきたばかりと聞いたが、疲れた様子も見せない。


「……呼び出したのは俺だが、先に止血するくらいはしても良かったんだぞ」

「平気です」

「…………」


 まるで痛がる素振りもなくそう言われても、見てるこちらがそわそわする。

 兵士として、しかも人里に魔獣が降りてこないようにする最前線の哨戒任務では、日頃から生傷が絶えないのは当然だ。アーグホスも傷などは見慣れている。

 それでも、小会議室でまで額と肩から血をだらだら垂らし続けながら敬礼されては、流石に頬が引きつる。

 が、毎度のことなのでアーグホスも敢えて触れずに本題に移ることにした。


「オルファノス三等下士官に命令が来ている」

「はい」

「もうすぐ封鎌の地への視察船が出る。今年は我がエングレンデル帝国が担当だ」

「はい」

「その調査班の護衛として、お前も選ばれた。出航は来月、ここからの移動も含めれば二か月近くの任務となる」

「はい」

「…………」


 軍において、軍紀と上官命令は絶対である。命令に疑問を差し挟まないのは、悪いことではない。


(だというのに湧き上がるこの不安感はどうだ)


 国境警備班という仕事は首都から離れた辺境地である分、戦闘以外での軍紀や素行には緩みが出やすく、砕けた口調も態度もそこまで目くじらを立てたりはしない。年中左遷対象のような荒くれ共を相手にしていれば、自然とそうなる。

 だからこそ、唯々諾々と従うザラ・オルファノスという人間はある種異様と言えた。何を考えているか分からない。

 とりあえず、忠誠心は欠片も感じない。

 アーグホスは自分の良心のためにも、肝心なことは確認しておこうと口を開いた。


「ちなみにだが、お前は封鎌の地が何かは知っているか?」

「いえ」

「…………」


 この脳筋馬鹿が! と他の部下がオルファノスを怒鳴っていた言葉が、一瞬脳裏を過ぎった。勿論声には出さない。


 封鎌の地とは、創世神話に語られる天地創造で生まれた八つの島の内、神々がまだ地上にいた頃の姿を唯一残す島のことだ。

 かつて地上では神々と人々が共に暮らしていたが、人々は徐々に傲慢になった。これを見かねた神々は度々諫めたが、特に邪悪な者たちはこれを聞き入れず、神々の怒りを買って島ごと地中深くに封じられた。

 その後神々が楽園の島と共に天上に昇ると、人々はまたもや尊崇と畏怖の念を忘れ、ついに神々の逆鱗に触れた。神々は地上の海をぐちゃぐちゃに混ぜて嵐を起こし、残った六つの島もそのほとんどの陸地が海に没した。

 そしてこの時、地中に封じられていた島もまた共に混ぜられ、地上に現れた。そのせいで島に封じられていた邪悪な種族は再び地上を跋扈し、世界は益々荒廃した。

 混迷の時代の始まりである。

 これを終わらせたのが、一対の男女神であった。女神が邪悪な者たちを地中に押し返し、男神が携えた大鎌で島の入り口を塞ぎ、二度と地上に出られないように封印した。


 その後、大陸の同盟参加国は、その封印に異常がないか、島の結界に綻びがないかを確認するため、毎年輪番で視察船を出すことを決めた。

 視察船には大鎌の状態を確認する他、島の地質調査もするため様々な分野の有識者が乗船する。その護衛には勿論優秀な人材が選ばれ、軍人の他にも武官神法士や文官神法士も同行する。

 調査班に選ばれるというのは、つまり精鋭と認められたようなものだ。選ばれた者は、まず光栄と喜び、断らない。


(いや、一人いたな)


 同じく前線に配属され、どんなに討伐数を増やしても前線から離れるのが嫌だからと昇級を断る戦闘狂だった。二週間ほどの船旅の間は特にすることがないと話した途端断ったとか。


(阿呆と比べても仕方ない)


 そもそもザラ・オルファノスが阿呆でないという確証はどこにもないが、この際確認したりはしない。

 本来なら封鎌の地のことも、神殿の教典でもある神識典ヴィヴロスにも記載のあることで、学校に行っていれば子供でも知っているものだ。それを知らないという時点で常識を疑うが、それもまた今さらである。


「封鎌の地とは、……伝説の島のことで、今は無人島だ」


 アーグホスはとても簡単にまとめた。


「はい」


 案の定、返事はそれだけだった。何だかどっと疲れた。


「心して任務に当るように」

「了解しました」


 オルファノスが、そろそろ乾いてきた血を拭うこともせず敬礼を取る。それを「下がって良し」と退室させてから、アーグホスは今度こそ大きな息を吐き出した。


「……辺境では不十分だから封鎌の地で本性を見極めるとのことだったが」


 東方面隊隊長から直々の下命を受けた時は、畏れ多くも疑問を差し挟む余裕もなく受けてしまったが、今さらながらに分からないと思う。

 ザラ・オルファノスは、協調性もなく、自分で命令内容を吟味し柔軟に対応するということも出来ない兵士だが、決して違反が多いわけでも、反抗的でもない。出自や種族の問題があるから昇級は難しいだろうが、現場では重用される人材だ。

 それがこの短い年数の内に東西南北全ての国境警備班を転々とし、挙句には世界の果てとも言われる伝説の島に放り込まれるという。

 とても、名誉なこととは思えない。


「お前は、一体何者なんだ……」


 憂鬱だ、とアーグホスは再び頭を抱えた。


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