のど飴が欲しい

古新野 ま~ち

1

 私は速度制限を気になりスマホを触れずに真っクラだから私の整った小顔が浮かんでいる車窓を眺めているのをヨソに弟はプルーストなる作家の入門新書を読んでいる。厚くない新書にもかかわらず、二週間はそれを手にしているはずで、なのに右手の方のページは私のAQUOSよりも薄そうだ。


 プルーストの『失われた時を求めて』という小説は岩波文庫で14冊出ているそうで、年始、弟はそれを読むと決めた。目が先ほどから同じ行を往来している。私では考えられないほど文字を認識できないのは昔からである。


 そろそろ一章の終わりが近いようで、左のページが途中から空白になっている。


 そしてどうやら読み終わったらしく一息つき、本から顔をあげて首筋を伸ばしてから、私と反対の方の婦人を凝視しはじめた。


 婦人は花柄の手提げカバンを抱えて俯いていた。そのカバンから橙色の喉飴の袋がのぞいている。


 どうやら弟はそれに目を付けたらしい。うつろうつろしている婦人に、それ幾らでくれますか? と聞いた。


 婦人はすぐに目を覚ましたが、電車内で誰かの声が響いただけなのかと感じただろう。周囲を見渡し、また眠りにつこうとした。


「その飴は幾らでくれますか」


 しかし婦人もこの問いかけは自分に向けられていると判断せざるを得なかったようだ。

 唖然としつつも奇怪な青年からできるだけ距離をとろうと隣のオジサンににじりよる。


「くれないんですか」

「馬鹿、すみません」

 私は彼の頭を下げさせるが、警戒をとかない婦人は、しかし飴を私にくれた。

「親切なご婦人で良かった。ところでこれは幾らですか」

「要りません」


「そういうのは、想定外ですよ。ここは電車で、つまり一般的な流通の埒外にいるわけなんですよ。遊園地その他遊興施設をはじめとした自動販売機の飲み物の値段が150円よりも高いことを想起してください。スーパーマーケットよりも100円以上高くなるでしょう。コンビニエンスストアはまた違う理由で高いのでここでは例外とします」


 早く黙らせろという無言の圧力を周囲が放ちはじめたため、目的地ではないのに次の駅で降りた。



 寂れた駅のホームは私達の他、駅員さえもいない。時刻表によればあと三十分は待ちぼうけである。

「姉さん、飴は美味しいです」

「そう」

「姉さんもいりますか」

 彼は溶けた飴を載せた舌を出し、それを指差した。

「要りません」


「姉さんも要らないと言う。けれどもコロナウイルス対策で皆がマスクをしています。僕たちもそうです。マスクをしていると水分補給を忘れてしまいがちになるような気がします。飴をなめておけば、ヨダレで喉が潤うのでは?」


「喉、乾いてない」

「そうですか」

「ご夫妻の迷惑をかけたことは、しっかり反省しなさいよ。母さんにもしっかり報告するから」

「報告は好きにしてください。僕が悪いことをするはずありませんから。しかし姉さん気になることがあります」


 弟は飴を砕いて飲み込んだ。

「この飴はご婦人にいただきました。迷惑をかけぬよう金銭を支払う気があることも伝えました」

「あんたお金持っているの」

 弟はジャケットをパンパンと叩いて

「今日は持ってませんでした」

「じゃあ、嘘をつこうとしたわけ」

「姉さんが払ってくれましたか?」

「そんなつもりは無い」

 弟は顔色一つかえず、しかし、落ち込んでいることを伝えんとする動作をとった。首を上下に揺することで彼はそれを伝えようとしていた。


「なるほど、本来ならば僕は飴を入手することができなかったわけなんですか」

「アクエリアスを持っているのだから、それで我慢しなさい」

「次からは飴を持つことにします」

 弟はジャケットのポケットにいれていた新書を手にとって、二章を開こうとした。

「そうでした。姉さん、どうしてあのご婦人が夫婦であるとわかったのですか」

「そんなの、隣にオジサンがいたから」

「それなら僕たちも夫婦なのですか」


 虚をつかれた。弟はこのように時折、訳の分からない言動の中に考察に値する一言を忍ばせる。

「そもそも、隣に座る男女が夫婦である可能性の方が低いのです」


 夫婦だと、私は確信している。彼らの財布から同じ名字の免許証や保険証が出てくるだろうと。しかし、弟に論駁する証拠もない。

「昔、母さんと病院に行った時、僕は母さんと知らないオジサンの間に座っていました。僕が呼ばれて母さんも立ち上がりました。受付の女の人はお父さんもどうぞと言いました」

「変なことを覚えているのね」大事なことは何も覚えていないくせに。

「プルーストを、まだ読んでいませんが、どうやら意識や記憶といったものをこねくりまわす小説らしいのです。読む前から僕は影響をされているのかもしれません。この記憶が本当にあったのか、それとも姉さんとの会話をするために出来た真新しい過去なのかもしれません」

 アナウンスの後、私達の前を猛スピードで特急が駆け抜けた。

「あの電車に乗ればすぐに大阪に出られました。前の駅で止まったはずです」

「あんたが騒がなければ降りることもなかった」

「僕は騒いだのですか」

 弟は、また這うようなスピードで新書を読みはじめた。





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