セフレに振られて

滝田タイシン

セフレに振られて

「ここに来るのは、今日で最後にするわ」


 ベッドで仰向けに寝ている俺の横で、吉川京香(よしかわきょうか)が下着を身に着けながらそう言った。


「えっ? 俺の部屋は嫌なのか? ホテルの方が良かった?」


 俺は京香の言葉の意味が分からず、上半身を起こしながらそう聞き返した。


「そういう事じゃ無いの。私達の関係を終わらせようって事」

「関係を終わらせる……」

「そう、実はさ、私彼氏が出来そうなんだ」

「えっ、そうなんだ……」


 京香の意外な告白に俺は上手く言葉が出なかった。


「好きな奴が出来たって事?」

「そういう訳じゃなくて、向こうから告られたの」

「ええっ、告白? いくつよ、そいつ。社会人なの?」


 俺と京香は会社の同期。今は二十六歳だ。


「一つ下の二十五歳よ。真面目な子なの」

「二十五歳? 二十五にもなって、付き合って下さいって? お前そんな奴と付き合うつもりなの?」


 俺達二人は、いわゆるセフレと呼ばれる関係が一年続いている。切っ掛けは同期の男女で行った飲み会。その帰りにお持ち帰りしたのだ。だが、酔って判断力を失くした京香を無理やりモノにした訳じゃない。もちろん酔った勢いはあっただろうけど、ちゃんとした相互了解の上での行為だった。事実、その後の飲み会の帰りも自然な形でラブホに行ったし。今では休日前に俺の部屋に泊まりに来て、次の日の夜まで一緒に過ごし、帰って行く。

 俺には他にセフレがいるし、京香もそれを知っててとやかく言っても来ない。体だけの関係だと割り切って付き合っているのだ。

 そんなノリの京香だったし、真面目に告白されて付き合うなんて意外だった。

 京香は俺の煽りに何も反応を見せずに、下着の次は服まで着だした。


「あれ、今日は泊まっていかないのか?」

「そのつもりだったんだけどね。でも付き合うって決めたから、彼氏に悪いと思って」

「彼氏って、もう返事はしたのか?」

「いや、まだだけど、もう決めたから」


 服を整える為に、京香が立ち上がる。


「ちょっと待てよ。付き合うのは良いけど、俺達の関係を終わらせなくても良いじゃん。付き合い始めても長く続くとは限らないし、今のままそいつと付き合えば良いだろ」


 京香が振り向き、冷たい瞳で見下ろすと小さくため息を吐いた。


「じゃあ、さよなら」


 京香は寝室から出て行くと、身支度を整え、アパートから出て行った。


「なんだよ、突然」


 俺はベッドの上で胡坐をかき、枕元の煙草を手に取り火を点けた。

 京香は性格は明るく社交的だが、容姿で言えばどこにでも居そうな普通の女だ。だが、話が合うし、一緒に居て楽しい。最近一番一緒に過ごしている女だった。京香もこの関係を楽しんでいたと思っていたので、こんな形で向こうから関係を切られるとは考えていなかった。

 俺は煙草の横にあったスマホを取ってラインを開いた。


(相手は俺の知っている男か?)


 しばらく待って返事が帰って来る。


(それ、言う必要ある?)

(だって、知ってる奴だったら、ぽろりと俺達の関係を話してしまうかも知れないぜ)


 既読は付いたが、なかなか返事が帰って来ない。これは知っている奴に違いない。知らない人間なら、何も気にせず、そう言うだろうから。


(誰にも言わなきゃ良いじゃない)

(だから酔った時とか分からないだろ。そいつの事知ってたら、近付かないようにするしさ)


 既読なのにまた返事が来ない。これは絶対に知っている奴だ。


(検査管理部の藤井(ふじい)君よ。言ったんだから、絶対に近付かないでよ)


 検査管理部の藤井か。藤井は別の部署の人間で、性格も見た目も地味な、真面目だけが取り柄のような奴だ。仕事も見た目通り、目立った話を聞いた事は無い。

 一方俺は学生時代から女に困った事など無い。清潔感に気を付けた髪形や服装。社交的で明るい性格。それで積極性があれば余程選り好みしない限り、いつでも彼女は作れると思っている。いかにも童貞そうな藤井に負ける気はしない。

 まあ、しばらくしたら京香も戻って来るだろう。俺は藤井と自分のレベルの違いでそう考えた。


(了解。奴には近付かないようにするよ)

(他の人にも言わないようにしてよ。もう私達の関係は終わったんだから)


 これはすぐに返事が返って来た。


(それも了解。去っていく女を追い駆けるほど困ってないさ。幸せになんなよ)

(ありがとう。じゃあ、これで本当にサヨウナラ)


 あっさりした別れだったけど、彼女って訳じゃ無いからこんなものか。



 京香と別れてから一か月が過ぎた。社内では京香にも藤井にも会う事があるが、仕事で絡まない限りあいさつ程度だ。これは京香がセフレ時代から変わらないので、セックスしていない以外は全く変化が無かった。

 彼氏の愚痴ぐらいラインで言ってくると思っていたのに、予想外だ。正直気になるのだが、理由も無しに俺から連絡するのは、負けた気がして出来なかった。



(今日同期で飲みに行かない? 塚っちゃんが急に行こうって言いだしたのよ)


 営業の出先で昼飯を食べていると、同期の浅田美晴(あさだみはる)からラインが入った。営業部の俺と、同じ部の浅田、経理の塚田正志(つかだまさし)、総務の京香がこの営業所に配属された同期の社員だ。


(今日は早く帰れそうだから、大丈夫だよ。メンバーは三人だけ?)

(京ちゃんも塚っちゃんが確認してくれて参加するって。久しぶりにフルメンバーだね)

(了解。場所はいつもの居酒屋? 仕事終わったら連絡するよ)

(そう、七時に予約入れてるよ。じゃあ、仕事頑張ってね)


 京香も来るのなら、好都合だ。それとなく探ってみるか。案外、あいつも自分から関係を終わらせたので、今更俺に話し辛いって言うのもあるかも知れないしな。



 予想に反して仕事が長引き、俺が駅前の居酒屋チェーン店に到着したのは八時前だった。他のメンバーはもうすでに到着して、飲み会は始まっているらしい。


「竹ちゃん、遅ーい! もうみんな出来上がってるよ!」


 俺の顔を見るなり、浅田が赤い顔で怒ってくる。言葉とは違い楽しそうな表情だが。

 四人掛けのテーブルに浅田と京香が並んで座り、浅田の前に塚田が座っている。俺は「悪い、仕事が長引いちゃって」と言い訳しながら、京香の前に座った。目線で挨拶すると、笑顔で返してくれた。その表情は自然で、別れた影響は感じられない。


「じゃあ、竹田も来てみんな揃ったんで、改めて乾杯するか」


 俺のビールが運ばれて来たのを見計らい、塚田の音頭で乾杯した。


「いやー、やっぱり飲みに来るのは同期が一番だね! 安心して会社の愚痴を言えるもん」

「浅田は飲んでなくても、いつも愚痴言ってるじゃねえか」


 俺は上機嫌の浅田に突っ込みを入れた。


「竹ちゃんキビシー! あ、そうだ、京ちゃん見て何か感じない?」


 浅田が「えっ、何よ?」と驚く京香の両肩を掴み、俺に向ける。

 俺は改めて京香を見たが、浅田が何を言いたいのか分からなかった。京香は自然過ぎて、むしろ、もっと気まずさや戸惑いがあると思ってたのに、それが無いのに気が付いたぐらいだ。


「えっ、いや分からない」

「もー、男は鈍感よね。京ちゃん、最近凄く綺麗になったでしょ!」

「ええっ、やめてよ、美晴ちゃん」

「京ちゃん、彼氏が出来てから凄く綺麗になったんだよ。女はやっぱり恋をすると変わるよね」

「えっ、そうなのか……」


 もちろん彼氏が出来たのは知っているが、それで綺麗になったと言われている事に、ショックを受けた。


「浅田も恋をすれば綺麗になるのにな」

「ちょっと、塚っちゃん、それセクハラー」


 冗談を言い合う二人を見ていた京香のスマホにラインが入る。


「あっ、ごめん美晴ちゃん、もう行かなきゃ」


 ラインを読んで、京香が謝る。済まなさそうな表情を作ってはいるが笑顔だ。


「ホントごめんね。塚っちゃんも竹田君もごめん」

「まあ、最初から約束あったのに無理言ったのはこっちだからね。その分デート楽しんできてよ」

「ありがとう、美晴ちゃん」


 浅田に会費を払って、京香はいそいそと出て行った。

 この一連の京香の表情を見て、俺も気付く。確かに京香は綺麗になっている。少し照れたようにはにかむ顔。これから恋人と会う期待に自然と湧いて出る笑顔が、表情を輝かせていた。


「良いよねー恋する娘って。惚れてしまいそうだわ」

「お前はおっさんか」


 楽しそうに話している二人をよそに、俺は誰もいなくなった京香の席をぼんやりと眺めていた。

 正直、今日の帰りに多少強引でも京香をお持ち帰りするつもりでいた。強気で押せば、京香も拒まない自信があった。だが、こんなにあっさりと帰られてしまった。しかも恋する女の表情まで見せられて。

 どこにもぶつけ様のない怒りが湧いて来た。その怒りの元が分からない。京香とはもう関係は切れているんだから、怒るのはおかしい。そもそも、京香が何かしたからと言って元々怒れる立場でも無かった筈だ。だが、俺は苛つきを抑える事が出来ずに、その夜は全く酔えなかった。



「竹田さん、その彼女が好きなんじゃないの」


 さっきまで俺の腕枕で横になっていたユミが体を起こしてそう言った。今は土曜の午後七時。セフレのユミを家に呼び、一回戦が終わって一休みしていたところだった。

 ユミは大学時代の二年後輩。サークルの新歓コンパで関係を持ってから、ずっと割り切った関係が続いている。ユミは常に俺以外に関係している男を何人かキープしていたし、ワンナイトも気が合えば気安く付いて行くような奴だ。俺もそんな相手だから気を遣う事など全く無く、平気で他の女の話もするし、ユミの男の話も聞いたりする。なんだかんだで、一番長い付き合いになっている。


「いや、俺が恋愛なんてする奴じゃない事ぐらい、お前が一番よく分かってるだろ」

「私もそう思ってたんだけどね。でも考えてみれば、ここ一年ぐらい、予定はその京香って人を中心にしてたでしょ。私なんか、暇な時にしか連絡来なかったじゃない」

「それは、その……仕方ないだろ。やっぱり新しいセフレが出来たら、しばらくはそっちが中心になるのは。ユミだって、新しい男が出来たら、しばらく連絡来なかったりするじゃないか」

「まあ、確かにそれはあるけどね。それにしたって、関係が切れた後に、これ程執着する事なんか無かったじゃない。来る者拒まず、去る者追わずって感じだったでしょ」

「執着って……」


 俺は執着しているのか? そんな気は全く無いけど、他人から見れば、俺は未練がましく執着していると言うのだろうか。


「馬鹿、違うよ。今まで、別れたくなるように仕向けたり、俺から切ったりした事はあっても、向こうから離れて行った事なんかないんだよ。だから腹が立ってるだけだ。執着なんかじゃねえよ」


 俺はもっともらしく言い訳した。


「まあ、竹田さんがそう思いたいのなら、それで良いけどね」


 ユミはそう言いながら、俺に背を向け、下着や服を身に着けだした。デジャヴを感じる姿だ。


「おい、なんで着替えるんだ? 今日は飯食って泊まってくんだろ?」

「いや、帰るよ。てか、もうここには来ないと思う」


 デジャヴどころか、京香の時の再現だ。


「どうしたんだよ? 怒ったのか?」

「ううん、そうじゃないの。その京香って人の話を聞いて、羨ましくなったの」

「羨ましい?」

「そう、私もこんな楽な関係に身を任せてないで、ちゃんとした恋愛したいなって。いや、しなくちゃいけないなって思ったの」


 振り返ったユミの表情は真剣で、本気でそう考えているようだ。


「お前そんな柄じゃないだろ」

「柄じゃないけど、今から考えを変えるのよ。今までの事を後悔はしないけど、気付いたのに変えなきゃ、これからの事は後悔すると思うの」


 そう言ったユミに、俺は返す言葉を見つけられなかった。

 ユミは帰り支度を終えると、寝室に顔を出した。


「さっき言った通り、竹田さんとの関係は後悔していないよ。でも、今日でさよなら。竹田さんもね、後悔しないように、その京香さんと話をしてみたら? 振られるかも知れないけど、気持ちは切り替えられると思うよ」

「大きなお世話だ。俺の気持ちは俺が一番分かってるさ。行くなら行けよ。止めないから」


 俺はユミまで離れていく事にショックを受けていたが、止めるつもりはなく、強がりを言った。


「じゃあ、さよなら」


 ユミは小さくため息を吐いた後に、呆れた様子でさよならの挨拶して出て行った。ユミが出て行ったドアが閉まる音を聞いて、俺はベッドの上に、仰向けに寝転んだ。

 ユミも離れて行ったか……またどこかでセフレ見つけなきゃな。しかし、学生の頃と違って、最近はすぐにコンパとかも出来る当ても無いしな……。

 考えてみれば、いつから正式な彼女って居ないんだろう。大学の頃にはもう、そんな感じの付き合いは面倒だと、遊び相手にしかしてなかったからな。人を好きになるってどんな感じかも忘れてしまっている。ただ、別れてからは、いつも京香の事が気になり、あいつと彼氏の事を考えるとモヤモヤする。ユミの言うう通り、俺は好きだったのに気が付かず、京香を手放してしまったのだろうか。

 急に京香と話がしたくなった。それが好きだという感情なのかは分からないが、話をして気持ちのモヤモヤの元を確かめたくなったのだ。

 いきなり電話もなんなので、枕元のスマホを手に取りラインを送る。


(久しぶり。最近どう? 元気か?)


 我ながらどうでも良い用件だなと思いつつ、それ以外思いつかなかった。


(どうしたのよ急に。久しぶりって、会社で何度も顔を合わしてるでしょ。そう言えば、この前の飲み会は先に帰ってごめんね)


 関係を終了させたとは言え、喧嘩別れした訳じゃない。こうして会話をすると、親しみが戻って来る。


(彼氏とは上手くやってる?)

(うん、申し訳ないぐらい気を遣ってくれるからね。喧嘩も無く上手くやってるよ)


 特に迷った様子もなく、既読になると、すぐに返事が返って来る。俺に対して、彼氏の話をする事に抵抗がないようだ。俺は何とも言えぬ苛立ちを覚えた。


(体の相性はどうだ? もう寝たんだろ?)

(そんなの他人に言う事じゃないでしょ)

(他人なんて冷たいな。俺だって気になるだろ。藤井がセックス下手で京香が欲求不満になってないかってさ)

(仮にそうだとしても、あなたには関係ないでしょ)


 関係ないだと。


(藤井には黙ってるから、家に来いよ。性欲を解消した方が、あいつと仲良くできるぜ)


 俺は意地になって、下ネタを言い続けた。ユミならいざ知らず、京香にこんな誘い方しても、嫌われるだけで、乗って来る事など無いと分かっているのに。

 既読にはなったが、しばらく待っても返事は来ない。怒ったのか、呆れたのか、どちらにせよ、これ以上俺と話す気は無いようだ。


「くそっ!」


 俺は誰にともなく、毒づいた。

 俺はいったい何をしたいんだ? 話をしても、逆にモヤモヤした感情は強くなった。これじゃあユミの言う通り、京香に執着して嫉妬しているだけじゃないか。

 俺は夕飯も食べていないのに、布団を被ってふて寝した。



 家で悶々と過ごした土日が終わり、月曜の午後七時。仕事が早く終わった俺は、会社と駅の中間にあるカフェ「コレット」の、歩道が見える席で道行く人を眺めている。会社から駅へと向かう人は必ずここを通るので、待ち伏せにはちょうど良いのだ。


「来た」


 目当ての人間が来たので、俺は急いで支払いを済ませ、後を追う。


「藤井」


 俺は歩道を走って追い付き、目当ての人間、京香の現彼氏である藤井を呼び止めた。


「あ、あなたは営業の竹田さん」


 振り向いた藤井は、少し驚いて、警戒するような目で俺を見た。


「ちょっと話があるんだ」

「話って……すみません、僕、人と待ち合わせしているんで」


 藤井は俺の話に興味を示さず、また駅に向かって歩き出そうとする。


「京香の話でもか?」


 藤井の動き出そうとした足が止まり、またこちらを向く。


「京香と待ち合わせしてるんだろ? 良い事教えてやるから、話を聞けよ」


 藤井は俺の事を睨みつけている。


「話って、あなたと京香さんがセフレ関係だったって事ですか?」


 俺は藤井を驚かせるつもりだったのに、逆に驚かされた。


「お前知ってたのか?」

「僕と付き合い出す前に、京香さんから話してくれました。こんな私だけど良いの? ってね」


 そんな話聞いてなかった。もっとも、俺の部屋を出て行ってから、京香とまともに話をしていないのだから当然か。でも、どうして京香は自分から話したんだ? 俺を信じて無かったって事か?


「お前それでも良かったのか?」

「過去は変えられませんからね。悔しいけど……」


 藤井は視線を斜め下に逸らした。


「竹田さんはなぜ今になって、僕にその事を話そうと思ったんですか? もう京香さんとは終わったんでしょ?」


 藤井は、もう一度俺を睨みつける。


「あなた、本当は京香さんの事が好きなんでしょ?」

「違っ……」


 俺は藤井の言葉を完全に否定は出来なかった。


「勝手過ぎるでしょうが」


 藤井は苛立たし気に呟いた。


「駅前の『ハル』ってカフェで京香さんが待っています。行って話をしてきてください。俺はそこのカフェで待っていますから」


 藤井は俺が出て来た「コレット」を指さす。


「お前、どうして……」

「他人の気持ちを変える事は出来ないでしょ。あなたが京香さんを好きなんだったら、その気持ちをぶつけて来てください。僕が一番嫌なのは、くすぶった気持ちのままで僕達の周りをちょろちょろされる事なんです。今日で決着を着けてください」

「俺が取り返しても良いって事だな」


 俺がそう言うと、藤井は言葉に詰まる。


「京香さんを信じます」

「分かった。行ってくる」


 俺は駅に向かい歩き出した。京香になんて話すのか考えても無かった。藤井の言う通り、勝手過ぎるが、今日を逃せばチャンスは無くなる。決着を着けないと。



 駅に着き、ロータリーに面した「ハル」に入る。カウンター席と四人掛けのテーブル席が六つある小じんまりとしたカフェだ。

 一番奥の窓際のテーブル席に座っている京香が驚いた顔で俺を見ている。藤井からは連絡が行っていないようだ。

 俺が席に向かって歩き出すと、京香は焦ったように外を眺める。藤井と俺がバッティングするかと慌てているようだ。


「藤井は来ないぞ。あいつは『コレット』で待っているよ」

「どうして? あなた藤井君に何をしたの?」


 俺は質問に答えず京香の前に座り、店員を呼んでコーヒーを注文した。


「俺は今日、あいつに話をしに行ったんだ」

「話?」

「そう、俺達の関係の事さ」


 俺がそう言うと、京香は驚いてしばらく絶句した。

 俺のコーヒーが運ばれてきて、二人の間の空気が変わる。


「言わないって約束したじゃないの」


 京香は咎めるような口調でそう言うと、俺を睨んだ。


「ああ、そうだな……ごめん……でも気が変わったんだ」


 俺は軽く頭を下げたが、京香はまだ俺を睨んでいる。


「藤井君はなんて言ってた?」

「俺が話をする前に、奴の方から言ってきたよ。お前、俺達の事話してたんだな」

「いい加減な事をしたくなかったからね。藤井君は誠実な人よ。私も誠実でありたいと思ったの」

「そうだな。その通りだと思う」


 俺を信用していなかったからと言われなくて、少しホッとした。


「どうして、こんな嫌がらせするの? 私が幸せに向かって歩き出したのが、気に入らないの?」


 悲しそうな表情を浮かべた京香を見て心が痛む。


「俺、お前の事が好きだったんだ」


 京香は何とも言えない表情を浮かべた後に、視線を天井に向けた。


「どうして、今頃そんな事言うの。今までに何度も言うチャンスは有ったでしょ?」


 京香は視線を戻して、俺を責める。


「俺は自分の気持ちに気付いて無かったんだ。今更勝手なのは分かってる。でもまた戻って来て欲しい」


 京香は「もう」と呟くと、今度は下を向いた。


「私はずっとその言葉を待っていたんだよ」

「ホントか? じゃあ、戻ってくれるのか」


 俺は京香の言葉に喜んだが、真顔でじっと見つめられて、気持ちが不安になる。


「昨日ね、藤井君からプロポーズされたの」

「えっ? まだ付き合って二か月ぐらいだろ」

「まあ、すぐに結婚って訳じゃなく、結婚を前提に付き合って欲しいって事だったけどね」

「そうか……で、受けたのか?」

「少し考えさせてって返事した」

「そうか……」


 それを聞いて、ホッとした。まだ京香はそれほど本気にはなっていないのだと思ったから。


「私ね、藤井君と付き合いだしてからも、ずっと引け目を感じてたの」

「引け目ってどういう意味でだよ」

「あなたは私の事を体だけの関係だと割り切ってると思ってた。私はあなたが好きだったけど、その気持ちを伝えて振られるのが怖くて言えなかった。抱かれる事で満足しようとしてた。そんないい加減な自分が嫌だった。誠実な気持ちを伝えてくれる藤井君に申し訳ない気持ちで一杯だった」


 感情が極まって、京香の瞳から涙が零れだす。いつもクールな京香には考えられない事だった。


「俺のところに戻って来いよ。そうだ、俺と結婚してくれ。これからは前以上に仲良く付き合っていこうよ」


 俺は自分でも驚くぐらいに、京香に惹きつけられていた。外の奴に渡したくないと心から思った。


「ありがとう」

「じゃあ、戻って来るんだな」


 俺は今すぐにでも、京香を抱き締めたくなった。


「気持ちを伝えてくれて嬉しかったよ……。私達、ずっと不器用だったね。お互いの気持ちを伝える事が出来ず、体だけで繋がってた……でも、ちゃんと恋愛していたんだ」

「そうだよ。俺達はセフレじゃなく、恋人同士だったんだ」


 俺がそう言うと、京香は笑顔になった。


「私、藤井君のところに行ってくる」

「断りに行くんだな。俺も付いて行くよ」


 俺がそう言うと、京香は笑顔のままで首を振る。


「ううん、違うの。プロポーズを受けに行くの」

「ええっ、どうしてだよ! 戻って来てくれるんだろ?」

「私、ちゃんと気持ちを伝えてくるの。藤井君を好きだって」

「ええっ!」

「あなたとの恋愛はすれ違いに終わったけど、もう同じ間違いはしない。ちゃんと気持ちを伝えて、藤井君と一緒に歩いて行くの」


 俺は体の力が抜けて、言葉が出なかった。


「ありがとう。本当にありがとう。私の背中を押してくれて」


 京香は笑顔で俺の右手を両手で握り、感謝している。俺はなにもリアクションが取れずに、されるがままだった。

 京香は財布からお金を取り出し、テーブルの上に置くと「じゃあ」っと言って席を立つ。顔には迷いのない笑顔が浮かんでいる。

 店を出た京香が、窓の前を通過する。京香は俺をチラリとみる事もせず、前を真っ直ぐに見ていた。

「ちくしょう……幸せになれよ……」


 俺は遠ざかって行く京香の背中に呟いた。

 馬鹿な男だ。だが、馬鹿と気付いただけ救いがある。俺も京香のように前を見て歩き出そう。

 俺は冷めかかったコーヒーを口に運んだ。


                           了

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

セフレに振られて 滝田タイシン @seiginomikata

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ