1-13話


 楊太儀たちは、ここまで大事になってしまった以上、きっとしばらくはあからさまな嫌がらせはしてこないはずだ。

 でもこんな騒動が起こってしまっては、噂が噂を呼び、もう今までのように薬茶を欲しがる人もいないだろう。そうなると、今後は何を目指していけばよいものか、先が見えない。

(薬が駄目なら、まさか本当に、皇帝陛下のお気に入りの妃嬪を目指すとか……? そんなことしないし、できるわけもないし……考えたことだってないのに)

 これまでずっと実家の手伝いや、薬学の勉強をしてきたために、恋愛なんて欠片かけらも縁がなかった。なのに今、自分は一足飛びに、立場的に皇帝の嬪の一人になってしまっている。

「はあ……」

(部屋に閉じこもって、考えていても暗くなるだけだよね)

 ──気分を変えなくては。

 外の空気を吸うために、英鈴はこっそりと、自室を抜けだした。外は渡り廊下のようになっていて、広大な後宮の庭がよく見える。といっても、ここはその一部に過ぎないけれども。

 庭には大きな池があって、月明りに照らされた水面には、はすつぼみがいくつか頭をのぞかせていた。きっと朝になれば、大輪の花を咲かせるのだろう。

 そしてその向こうには、石造りの壁がおぼろげに見えていた。

 あの壁の向こうが、従一品以上の妃嬪しか入れないという庭──つまり、秘薬苑があるとされている場所だ。あそこに入れる日は、果たして来るのだろうか。

「……」

 英鈴は、深く呼吸をした。夏の夜の空気は、澄んでいる。朱心が燕志に命じた通り、ここは後宮の外れのほうにある部屋なので、話し声も聞こえず、とても静かだ。

 見上げた夜空に、星々が帯のように集まって輝いているのが見えた。あれは確か、天の川といっただろうか。

(こうやって、ぼんやりと星を眺める時間も、最近はなかったな……)

 とにかく今日は疲れた──そろそろ、休もうか。

 そう思いなおし、英鈴が部屋へと戻ろうとした、その時である。

「……は、順調に……」

「…………を……」

 向こうからぼそぼそと聞こえてきたのは、男性同士の話し声だ。

(ん……?)

 妙だ。後宮で話しているということは、宦官同士なのだろうけれど──こんな夜更けに、こんな外れの場所で、一体なんの話をしているんだろう? それに──

(どうもこの声、聞き覚えがあるような)

 そう、燕志だ。

 それにもう一人は、もしや、宦官ではなく朱心ではないだろうか。声の雰囲気が似ている。

(陛下と燕志さんが、密談?)

 気にせず、無視して部屋に戻ることもできる。そうするべきかもしれない。けれど──

(陛下は何を考えて、私を嬪にしたんだろう)

 心にふと浮かんだ疑問は、それだった。

 もし皇帝陛下が英鈴の薬の技術を惜しんだのだとしても、それならば、宮女に留め置いて白充媛以外の者に仕えさせるとか、いくらでも手段はあったはずだ。

 それなのになぜ、昇格させたのだろう。助けてもらったこと自体には、純粋に感謝してもしきれない。けれど、理由は判然としないままだ。

(少しだけ、近づいてみよう。何かわかることがあるかも……)

 意を決し、英鈴は薄暗い廊下を、ゆっくりと、声のするほうへ歩いてみた。

 しばらく進み、ちょうど角を曲がれば二人のすぐそばに出るのでは、というような位置に差し掛かった時──

「……そうか」

 聞こえてきたのは、朱心の声だった。いや、確かに彼の声ではあるのだが──どうも、その声の調子が違った。

「では、他の者には勘づかれずに済んでいるんだな?」

 よく声の似た別人かと言いたくなるほど、しやべり方が違う。声の主は続けて言った。

「結構。そうでなくては」

 ククッ、と酷薄な笑い声がこぼれる。

(えっ……?)

 本当に、この角を曲がった先にいるのは朱心だろうか?

 しかしいぶかしむより先に、燕志の声が聞こえた。

「はい、陛下。また、街道の封鎖も順調に進行しております」

 ──陛下。ということは、やはり、この先にいるのは朱心なのだ。

「人員の出入りを制限できれば、ご計画が成る日も近いかと。後は、だけですね?」

「ああ、そうだな」

 朱心らしき声は続ける。

「一刻も早く、あの忌々しいの息の根を止めたいものだ」

 ──息の根?

(あ、暗殺計画……!?)

 まさか、この平和な旺華国でそんな恐ろしい計画を、皇帝自らが?

(どうやら……これ以上ここにいるのは危険みたい)

 早く部屋に戻ろう。そして、今日のことは忘れて──いや、人命がかかわっているのなら、できればなんとかしたいのが本音だけれど──などと、考えていたところ。

「あっ……!」

 時すでに遅し。英鈴の眼前には、ちょうど角を曲がってきた黒髪の男性──朱心その人の姿があったのである。

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