第二章 英鈴、墓穴を掘ること

2-1話


「あっ……!」

 その瞬間、えいりんの身体は硬直した。目の前にあるのは、間違いなく、皇帝・ていしゆしんその人の顔である。静止した英鈴の視界の中で、当初わずかに目を見開いていた彼は──やがて、ゆっくりと笑みを浮かべる。

 それは日中に彼が見せた温厚かつ朗らかなものとは真逆の、冷淡で酷薄な笑顔だった。

(噓……これが本当に、陛下……?)

 明らかに同一人物だというのに、それを疑いたくなるほど、雰囲気が違う。

「おやおや」

 と、朱心は冷たい笑みのままで言う。

「これはこれは、とうしよう。こんな時間に会うとは、意外なこともあるものだ」

「あっ、あ、あの……」

 反射的に、臣下の礼を取ろうとする。しかしそれより早く、瞬く間に伸びてきた朱心の手に、こちらの手首をぐっと握られてしまった。

(へ、陛下の手、温かい……)

 確かにこれほど体温が高めなら、しよちゆうえつさんを処方されるのもうなずける──なんて考えてしまうのは、単純な現実逃避だと自分でもわかっている。

「おい、えん

 後ろにいる燕志に向かって、朱心は楽しげに言う。

「席を外せ。昭儀と話したい」

かしこまりました」

 燕志はといえば、事態を気にしてもいないかのように、落ち着いたものだ。

 彼はいつものように恭しく拝礼すると、速やかに廊下の奥の暗がりへと去っていく。

 それを見届けた朱心の視線が、また、こちらに向けられた。その目はなおも冷たい。

(こっ、怖い!)

 ──何をされるんだろう!? こんなことになるのなら、部屋に戻っておけばよかった。

 今日は後悔するような出来事ばかり起こる。

 頭の中で判断を呪う英鈴を置いて、朱心はしばらく黙った後、やがてぽつりとつぶやく。

「……どのみち、都合がよかったな」

「えっ」

 発言の意味を理解できずに、戸惑っていると──英鈴の手首を握ったまま、朱心はぐいっ、と身体を押しつけてきた。そのままこちらが後ずさると、必然、英鈴は朱心によって、壁に押しつけられるような形になってしまう。

(うう……)

 皇帝のまとう白い上衣から、ほのかに清廉な香りが漂ってくる。これは、じんこうだろうか。本来なら気分を安らげるはずのそれが、今は、状況が状況だけにまったく楽しめないけれど。

「さて、董昭儀」

 長身の朱心は身をかがめ、こちらに目線を合わせると、声を低めて言った。

「反応を見れば、お前が何を聞いてしまったのかはすぐわかる」

「ごっ、誤解です、陛下!」

 英鈴はようやっと口を開き、反論した。

「わ、私は何も、聞いたりなんて……」

「ほう。そのわりには、妙に慌てているようだがな?」

 形のいい唇の端を、朱心はかすかに上向きにゆがめた。その様は、昼間と変わらぬぼうに加えてようえんさを漂わせていて──つい、れてしまいそうになる。

「いいか、董英鈴」

 しばらくして、彼はこちらを名で呼び、はっきりと言った。

は一度しか命じない、よく聞け。今日ここで見聞きした事柄は、他言無用だ」

 手首を放した彼の白く長い指が、英鈴の頰に軽く触れ、そのまますっと首元まででるように下ろされる。

「言えばどうなるか……わかっているな?」

「っ……!」

 首元に置かれた指が、真横一文字に素早く動かされた。

 つまり、この動きが指すのは──言うまでもない。

「は……はい」

 英鈴はなんとか返事する。

「承知しました、陛下。決して……た、他言いたしません」

「結構」

 にやりと笑い、朱心は身を引き離した。次いで彼は、目を細めたままで言う。

「お前の命は、私が救った。つまり、私が買ったのだ。だから好きなように使わせてもらう」

(つっ、使う……?)

「どうした? 話は以上だ。用があるのなら、明日にせよ。私はそろそろ休みたい」

「うっ……!」

 朱心の物言いに対し、恐怖一色だった英鈴の心に、怒りがちらりと湧いた。

 いくら──いくら皇帝とはいえ、あまりにも身勝手だ。

 こちらが戸惑っているのはわかりきっているだろうに、あえて無視している。

(皇帝陛下が、本当はこんな人だったなんて……!!)

 なんだか、裏切られたような気持ちだ。もっとも、こちらが勝手に相手を信用していただけだと言われてしまえば、その通りかもしれないけれど──

「そっ……それでは」

 きようしゆの姿勢を取り、震える唇を動かして、英鈴はなんとか告げた。

「失礼いたします、陛下」

「ああ」

 腕組みをした朱心は、さして感情を交えない声音でこたえる。

「よく休めよ、昭儀」

「……!」

 一礼し、きびすを返す。英鈴はそのまま、一目散に自室へと向かった。それから上衣を脱ぎ、寝台に潜り込む。寝台は驚くほど柔らかく、疲れた身体を包み込んだ。

 こうの奥には、さっき香ったばかりの沈香の匂いが、妙にはっきりと染みついている。

(もう、わけがわからない……!)

 頭の中で今日の出来事がぐるぐるして、混ざり合わない色彩の坩堝るつぼのようになっている。皇帝の意図はなんなのか。自分はどうなるのか。考えれば考えるほど、恐ろしいことしか浮かんでこない。悩んだところでどうしようもないのだけれど、思考は止まらない。

 その後、英鈴がようやく眠りに落ちたのは、薄明を迎えた頃だった。

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