1-12話


(ええっ!? 今、なんて!?)

 慌てて振り返り、英鈴がひざまずくと、朱心はなおもにこやかに言う。

「そういえば、嬪のうちのしようの位が空いていたな、燕志? 余の記憶違いではないな」

「はい、陛下」

 ずっと控えていたのだろうか。まるで突然その場に現れたかのような燕志は、恭しく朱心にこたえる。

「仰せの通りです。従二品・昭儀の位には今、どなたもおりませぬ」

「それならちょうどいい。董英鈴よ」

「はっ、はい!」

 拱手して顔を伏せたその耳に、信じられない言葉が告げられる。

「そなたをこれより、従二品の昭儀とする。嬪の一人として、余に仕えるがいい」

「なっ……!?」

 動揺が嬪と宮女たちに広がる。しかし言われたこちらだって、たまったものではない。

(う、噓……)

 思わず、目をぱちぱちと瞬かせてしまう。

(わっ、私が昭儀? ……今日、たった今から?)

 白充媛よりも立場が上になってしまった──などと頭の片隅で考えるが、そんなこと、今はどうだっていい。

「燕志、すぐ昭儀の部屋を支度させよ。ああ、こんな騒ぎがあった後では、昭儀も気持ちが休まらないだろう。なるべく他の妃嬪とは離れた場所に部屋をしつらえろよ」

かしこまりました。仰せのままに」

 礼を取り、燕志はすぐにその場から動き出す。一方で朱心は、こちらの皆の動揺などどこ吹く風といった様子で、楽しげに笑った。

「いやあ、よかった。これで不幸なも、円満に解決したというものだ。では、余はこれで。そうだ、董昭儀」

「えっ、あ、はい!」

 どうも自分が呼ばれている気がしなくて、返事が遅くなってしまった。

 急いで返事をすると、朱心は自分の後ろにやってきた、燕志とは別のかんがんを指して言う。

「後はこの者について行くといい。部屋に案内させよう。ああそれと、そこの雪花はきちんと医師に診せるゆえ、心配しないようにな」

「……も、もつたいなきお心遣い、ありがとうございます、陛下!」

(よかった……! これで雪花は助かる!)

 純粋な感謝と共に礼を述べると、朱心はおうようにそれを受け取った。

 そして皇帝は、他の女たちにも声をかける。

「さあ、今日はこれで仕舞いだ。そなたたちも、己の持ち場に戻るがよい。もうこのような騒ぎを起こしてはならんぞ?」

『しょっ、承知いたしました!』

 彼女たちは一斉に、平伏して命に応じた。

 こうして──絶体絶命の危機は、なんとか、乗り越えられたのだった。


 その夜。

(大変な目に遭った……)

 壊されてしまったものに代わって、新たに用意されたげんなどの商売道具を見つめながら、英鈴はしみじみとそう思った。

 まったく、ひんの地位というのは、従二品であったとしても相当なものらしい。

 新しい部屋は瞬く間に準備され、必要なものは、こうして薬を扱う道具なども含めてすべて整えられた。それまで別の仕事をしていた宮女たちの何人かが、すぐさま英鈴に仕える者として手配されたが、彼女たちもまた、どことなく落ち着かない様子である。

「お、恐れながら、昭儀様」

 宮女たちの一人が、拝礼しながら言った。

「私どもに、他に何かご用命は……」

「えっ、あ、ええと」

 ごほん、とのどを鳴らしてから応える。

「いえ、あの、もう特にないので……部屋に下がってて、ください」

 本当は「ください」なんて言うのはおかしいのだろうけれど、すぐに「妃嬪らしい」態度をとるなんて無理な話だ。

 しかし宮女たちは、英鈴の言葉を受けて、ほっとした様子で退出する。

(そうだよね。お許しがないと、勝手に部屋に帰って休んだりできないものね……)

 他の宮女たちと使っていた時を考えれば、一人きりのこの部屋はなんと広いことか。

(今ごろみんな、どうしているのかな)

 少し感傷的な気分になりそうになって、慌てて現実に意識を戻す。

(今日は……本当に、危ないところだった。もっと気をつけて行動しなくちゃ)

 改めて、自分の身に起きた事態を考えるとぞっとする。針くししの私刑を受けたうえに後宮から追放、なんて羽目に陥っていたとしたら、夢をかなえるどころの話ではなかった。

(陛下が助けに入ってきてくださって、本当によかった……)

 あの後、幸い雪花は皇帝の言葉通り、医師に診てもらっていた。今は一時的に実家に戻って、安静に過ごしているそうだ。ちゃんとれいに治ってほしい。そう祈らずにはいられない。

 そして一方で──自身の今後も、正直、不安でしかない。

 図らずも、「後宮での立場を上げる」という願いは、順調にかなっている。

 しかしこれから自分は、どうしていけばよいのか──

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る