3-5話


(また何か、お命じになるつもり……!?)

 再び警戒心が、胸の中で首をもたげた。しかし、朱心の言葉にも一理ある。

 呼び出されて来たばかりの自分と違い、今日一日中薬のことで思い悩み、嘆いてきた楊太儀と宮女たち、それに小茶自身も、きっとくたびれているはずだ。早く休んだほうがいい。

「……承知いたしました」

 拝礼と共に告げ、楊太儀のほうを向く。

「それでは楊太儀様、私はこれで」

「お待ちになって!」

 短く言うと、楊太儀は、こちらに向かって深々と頭を下げた。

「董昭儀殿、このお礼は後日、必ずや。それから、改めて」

 その額は、床につくほどまでに下がっている。

「先日のたいへんな非礼──許していただけるとも思っておりませんけれど、この通り。本当に、申し訳ありませんでした」

「い、いいえ、そんな。私はただ……」

「続きは今度にしよう、太儀」

 朱心が、取りなすように言う。

「今日はもう遅い。な?」

「ええ……」

 楊太儀は、すっかり毒気を抜かれた様子で従った。

「お引き留めしてしまいましたわね。それでは昭儀殿、またいずれ」

「はい、楊太儀様」

 既に、朱心は部屋から出ていた。もう一度お辞儀をして、英鈴は太儀の部屋から退出する。

 そしてその後ろ姿を、楊太儀は、見えなくなるまでいつまでも眺めていた。

 すっかり眠りに落ちている自分の愛犬を、優しく撫でながら──


 太儀の部屋を退出してから、朱心に連れられて英鈴が出たのは、後宮の庭だった。

 月明りがこうこうと照らす下に、色とりどりのようの花が咲き乱れている。そしてその真ん中には、白い亭子あずまやが建っていた。ふわりと甘く、優しい芙蓉の香りが漂うなか、ただ静かにこうしてたたずんでいると、まるでこの庭一帯だけが俗世とは違う場所にあるようだ。

(こんなにれいな場所があったなんて……)

 英鈴は、しばらく純粋に目を奪われていた。

 一方で朱心は無言のままゆっくりと歩を進め、亭子まで辿たどり着くと、そこにある椅子に腰かける。英鈴もまた彼を追いかけ、小さな机を挟んだ反対側に立って控えた。

 すると、朱心が口を開いた。例の、二人きりの時に見せる酷薄な声音で。

「許す。お前も椅子に座るがいい。かえって話しづらい」

「はい……」

 短くこたえて、近くの椅子に座った。ややあってから、朱心が低く笑う。

「お手柄だったな、董昭儀。まさか犬に薬を飲ませるすべまで知っているとは」

「ありがとうございます……いえ、知っていたわけではありません。その場で考えた方法が、たまたま上手くいっただけです」

 事実に基づいてけんそんしただけだが、朱心はといえば、何が面白いのかまた笑いをこぼした。

 その表情は、亭子の屋根の下では真っ暗に塗りつぶされてしまっていて、こちらからうかがうことはできない。

「それにしても、だ。まさかお前が、あそこまで必死になるとは思っていなかったぞ」

「必死に……?」

「楊太儀が恐慌に陥っていた時、犬と太儀の間に割って入っただろう」

 一体いつから様子を見ていたのだろう、朱心はさらりと口にする。

「ああまでの気迫をもつて楊太儀を𠮟しつするとはな。正直なところ、あの者はお前にとっては憎い相手だったろう? なぜ助けた」

「それは……!」

 開きかけた口を、閉じる。──正直に答えたところで、理解してもらえるとは思えない。

 しばらく黙り込み、それから、英鈴は努めて高らかに、うそぶくように言葉を発した。

「それは、もちろん。恩を売るため……ですよ」

「ほう?」

「楊太儀様は、誰もが知る名家のご出身です。そんな方に恩を売っておけば、私もここで過ごしやすくなるでしょうからね」

「なるほど」

 どこか冷めたような、朱心の返事が聞こえる。さらに英鈴は、言葉を重ねた。

「それに……あの方とは、例の騒ぎもありましたし。ここであの方が私に敵意を向けなくなれば、それだけで私にとっては利となります。ただ……それだけの話です」

「そうか」

 あいづちを打ち、しかし、朱心がゆっくりと首を横に振る影法師が見える。

「──噓は下手なのだな、董昭儀」

「えっ……」

「私が誤魔化されるとでも思うか?」

 そう言って、朱心はこちらに身を乗り出した。差し込んでくる月光が、その顔の半分を照らしだす。彼のぼうは、まるで影の中にぽっかりと浮かび上がるように輝いて見えた。

 その形のよい唇の端が、緩く弧を描く。

「それこそ、例の追放騒ぎの時──お前は自分の薬が毒として用いられたのに怒りこそすれ、自分の家財を壊されたことには、大して執着していなかったではないか」

「……」

 英鈴は口ごもる。確かに、朱心の言う通りだ。もしも自分がただ利にさといだけの人間なら、あの騒ぎの時、楊太儀たちに薬の講釈をしてまで、食ってかかりはしなかっただろう。

「そんなお前が、ただ己の利のために相手を救っただと? そんな話があるものか」

「う……」

おうこくの皇帝たるこの私に虚偽を申し立てた不敬、たびは許そう」

 彼は体勢を元に戻した。再び、その表情は影の一色になる。

「もう一度問うぞ。楊太儀をなぜ助けた?」

「そっ、それは」

 ──どうやら、言い逃れはできないらしい。

(こんな話……本来なら、陛下に話して聞かせるようなことじゃないけど)

 でも、聞かれているのだからしょうがない。英鈴は観念して、正直に告げた。

「……小茶に、必死に薬を飲ませようとしている楊太儀様の姿を見て、思い出したからです。十年前の、自分自身を」

 胸の奥が、ずきりと痛んだ。でも、続きを口にする。

「弟を、救えなかったことを」


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