3-5話
(また何か、お命じになるつもり……!?)
再び警戒心が、胸の中で首をもたげた。しかし、朱心の言葉にも一理ある。
呼び出されて来たばかりの自分と違い、今日一日中薬のことで思い悩み、嘆いてきた楊太儀と宮女たち、それに小茶自身も、きっとくたびれているはずだ。早く休んだほうがいい。
「……承知いたしました」
拝礼と共に告げ、楊太儀のほうを向く。
「それでは楊太儀様、私はこれで」
「お待ちになって!」
短く言うと、楊太儀は、こちらに向かって深々と頭を下げた。
「董昭儀殿、このお礼は後日、必ずや。それから、改めて」
その額は、床につくほどまでに下がっている。
「先日のたいへんな非礼──許していただけるとも思っておりませんけれど、この通り。本当に、申し訳ありませんでした」
「い、いいえ、そんな。私はただ……」
「続きは今度にしよう、太儀」
朱心が、取りなすように言う。
「今日はもう遅い。な?」
「ええ……」
楊太儀は、すっかり毒気を抜かれた様子で従った。
「お引き留めしてしまいましたわね。それでは昭儀殿、またいずれ」
「はい、楊太儀様」
既に、朱心は部屋から出ていた。もう一度お辞儀をして、英鈴は太儀の部屋から退出する。
そしてその後ろ姿を、楊太儀は、見えなくなるまでいつまでも眺めていた。
すっかり眠りに落ちている自分の愛犬を、優しく撫でながら──
太儀の部屋を退出してから、朱心に連れられて英鈴が出たのは、後宮の庭だった。
月明りが
(こんなに
英鈴は、しばらく純粋に目を奪われていた。
一方で朱心は無言のままゆっくりと歩を進め、亭子まで
すると、朱心が口を開いた。例の、二人きりの時に見せる酷薄な声音で。
「許す。お前も椅子に座るがいい。かえって話しづらい」
「はい……」
短く
「お手柄だったな、董昭儀。まさか犬に薬を飲ませる
「ありがとうございます……いえ、知っていたわけではありません。その場で考えた方法が、たまたま上手くいっただけです」
事実に基づいて
その表情は、亭子の屋根の下では真っ暗に塗りつぶされてしまっていて、こちらから
「それにしても、だ。まさかお前が、あそこまで必死になるとは思っていなかったぞ」
「必死に……?」
「楊太儀が恐慌に陥っていた時、犬と太儀の間に割って入っただろう」
一体いつから様子を見ていたのだろう、朱心はさらりと口にする。
「ああまでの気迫を
「それは……!」
開きかけた口を、閉じる。──正直に答えたところで、理解してもらえるとは思えない。
しばらく黙り込み、それから、英鈴は努めて高らかに、
「それは、もちろん。恩を売るため……ですよ」
「ほう?」
「楊太儀様は、誰もが知る名家のご出身です。そんな方に恩を売っておけば、私もここで過ごしやすくなるでしょうからね」
「なるほど」
どこか冷めたような、朱心の返事が聞こえる。さらに英鈴は、言葉を重ねた。
「それに……あの方とは、例の騒ぎもありましたし。ここであの方が私に敵意を向けなくなれば、それだけで私にとっては利となります。ただ……それだけの話です」
「そうか」
「──噓は下手なのだな、董昭儀」
「えっ……」
「私が誤魔化されるとでも思うか?」
そう言って、朱心はこちらに身を乗り出した。差し込んでくる月光が、その顔の半分を照らしだす。彼の
その形のよい唇の端が、緩く弧を描く。
「それこそ、例の追放騒ぎの時──お前は自分の薬が毒として用いられたのに怒りこそすれ、自分の家財を壊されたことには、大して執着していなかったではないか」
「……」
英鈴は口ごもる。確かに、朱心の言う通りだ。もしも自分がただ利に
「そんなお前が、ただ己の利のために相手を救っただと? そんな話があるものか」
「う……」
「
彼は体勢を元に戻した。再び、その表情は影の一色になる。
「もう一度問うぞ。楊太儀をなぜ助けた?」
「そっ、それは」
──どうやら、言い逃れはできないらしい。
(こんな話……本来なら、陛下に話して聞かせるようなことじゃないけど)
でも、聞かれているのだからしょうがない。英鈴は観念して、正直に告げた。
「……小茶に、必死に薬を飲ませようとしている楊太儀様の姿を見て、思い出したからです。十年前の、自分自身を」
胸の奥が、ずきりと痛んだ。でも、続きを口にする。
「弟を、救えなかったことを」
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