3-6話


「……」

 今度は、朱心が黙る番だった。彼はいつものように笑うでも、質問するでもなく、しばし口を閉ざした。そうしてから、やがて言う。

「聞かせろ」

「……はい」


 ──あれは十年前。七歳の英鈴には、四歳になる弟・阿圭がいた。

 そもそも英鈴が生まれるまでにもかなりの歳月と努力を要した両親にとって、とうだいやくてん待望の跡取り息子である阿圭は、とても大切な存在だった。

(もちろん私にとっても……弟は、生まれた時からすごく可愛くて、大好きだった。一緒に外で遊ぶ時に、道を行く人に無意味に自慢したっけ)

『この子、私の弟なの! すごく可愛いでしょ?』

 阿圭もまた、両親の愛情を受けながら姉を慕い、二人は仲良しの姉弟として幸せに成長していく──そう、そのはずだった。あの、夏の日が来るまでは。


「陛下も、覚えておいでかもしれません。十年前のしゆうでは、熱病が大流行しました。薬売りにとっては……病の流行は、ある種の書き入れ時です。幸い私も両親もかんはしませんでしたし、薬の需要は日増しに高まって、董大薬店は大忙しになりました」

 そんな時だ。阿圭が、熱病にかかってしまったのは。

「幼い子どもにとって、あの熱病はとても危険です。もちろん両親は弟をすぐに医師に診せました。薬も、処方してもらいました。けれど両親も他の大人も変わらず忙しく、医師も始終弟の面倒を見てくれるわけではありません。だから……」

 両親が不在の間、阿圭の面倒を見るのは英鈴の仕事になった。

「私は、焦っていました。弟の病気を私が早く治してあげないと、だなんて。今思えば、本当に馬鹿です。いくら焦ったところで、弟の病気が治るわけじゃないのに。……弟が薬を飲めるようになるわけじゃ、ないのに」

 そう、熱病に効く薬なら、董大薬店はいくらでも用意できる。まして最愛の息子のためだ、いかなるを用いてでも、どんな高価なものでも調達できた。

 けれど、今回は治療の支障となる点が多すぎたのだ。一つは、阿圭の病状が他の患者と比べて深刻すぎたという点。そしてもう一つは、特効薬の中にしようさいしんさんしよう……つまり薬の中でも辛味のある草木が含まれていた点だった。

 ──目を閉じ、英鈴は、まぶたの裏で思い出す。


    ***


『ほら、阿圭。お薬の時間だよ』

『うう……』

 寝台に横たわり、こちらに視線を向けた阿圭は、元気な頃からは見る影もなくやつれていた。かつての子どもらしいふっくらとした頰はこけ、はつらつと輝いていたひとみは落ちくぼみ、高熱のためにただその顔だけを真っ赤にして、弱々しく胸を上下させている。

 それでも、その時の英鈴は信じていた。

 この薬さえ飲めれば、弟はきっと治るのだ、と。今自分が持つわんの中にある薬湯は、両親がわざわざ西の果ての地から取り寄せた、たいへん貴重で効果の高いものだという。

 きっと、弟をむしばむ病魔を退治してくれるはずだ。

 英鈴は静かに弟の枕元の椅子に座ると、椀からさじで薬をすくい出し、弟の口元に運ぶ。彼はもはや椀を自力で持てないので、こうやって飲ませるしかないのだ。

 阿圭はぼんやりとしたまなしのまま、ゆっくりと口を開いた。

 そして姉の差し出した匙の中身を、素直に飲み込もうとして──

『げほっ、けほっ、げほげほ!』

 せてき込み、すべて吐き出してしまう。

 とつのことで驚いた英鈴は、弟の胸をでながら言った。

『ご、ごめんね、ごめんね阿圭! 大丈夫?』

『ち、ちがう……よ、お姉、ちゃん』

 阿圭はかすれた声で言う。

『あの、ね、お薬がね、からい、の……』

『辛い……?』

『のどが、ぴりって、なる……のめない、の……』

 そう言われ、英鈴は薬湯に小指をつけてめてみた。

 瞬間、感じたのは舌を刺すような強い痛み。

(辛いっ!)

 衝撃の後に覚えたのは、焦燥だった。

(ど、どうしよう……!)

 こんなに辛い薬、元気な時ならばまだしも、病気のせいでのども荒れている弟には到底飲み込めない。薬を飲もうと思っても、きっと身体が受け付けないのだ。

 ──どうすればいい? どうすれば弟は薬を飲んでくれる?

 しかしその時の英鈴には薬の知識などなく、ただの子どもに過ぎない。だからできることといえば、弟にもう一度匙を差し出すくらいだった。

『も、もう一回がんばってみようよ! これを飲めば治るんだよ、だから、がんばって……』

『う、うん』

 弟は匙をくわえる。そして、再びの咳き込み。そうぼうからあふれる涙。

『う、うう……くるしい、よお……』

『阿圭、そんな……!』

 英鈴は頭を抱えた。ああ、でも、そうだ。お父様とお母様に相談すれば、どうにかしてくれるかも──そんな考えが頭をぎった、次の瞬間。

『けほっ……!?』

 せきをした弟が、ぐるりと白目をいた。

『えっ……』

 ひるむ英鈴を置いて、今度は、阿圭の身体全体ががくがくと震えはじめる。その口の端からは白い泡まで噴きだした。明らかに、異常だ。

『やだっ、阿圭!』

 咄嗟に英鈴は、薬を飲ませようとした。──お医者様が言っていた、これを飲めばだんだん熱が下がって、元気になるって。だから、大丈夫だ。これさえ飲んでくれれば、きっと。

『飲んでよ! 飲んだら、きっとよくなるんだから!』

 激しく震える弟の頭に、手にした椀がぶつかって、薬湯が縁からぼたぼたとこぼれる。

『早く、阿圭! 早く飲みなさい、飲んでっ! 口を開けて!!』

 口の中に薬を流し込もうと、強引に椀を傾ける。それでも薬湯が枕をらすばかりで、弟は、それを飲めなどしなかった。

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