3-7話


『阿圭……!』

 その時の、苦しげな弟の姿は──今でも、瞼に焼き付いて離れない。

 そのうち騒ぎを聞きつけた店の雇人が、部屋に駆け込んできた。

『英鈴様、どうなさい……たっ、大変だ!』

 そうして、彼が両親を呼びに行って、医師が来て、弟を診て──

『これは、運がお悪い。息子さんは熱病の毒が、全身に回ってしまった。こうなっては』

『そんなっ……!』

 泣き崩れる母を、父が支えている。弟は今なお、ぶるぶるとけいれんしている。

 英鈴は、それを啞然として見ていた。まるで、夢の中にいるみたいに現実感が薄い。

 けれどその時、自分がずっと手の中に何か持っていたのに気づいた。

 それは、すっかり空になった椀だった。

 でも結局英鈴は、一滴たりともその中身を弟に飲ませられなかったのだ。

『お嬢さん、この震えは……毒が全身に回るのは、いかなる薬でも防げない。だから、これは君のせいなんかじゃないよ』

 初老の医師は、まるで諭すように優しく言う。そう、両親も、誰も彼もが、決して英鈴を責めたりなどしなかった。薬で防げる症状ではなかった。今の医学では彼を治せなかった。

 だから──弟の、阿圭の死は、いわば残酷な運命だったのだ。皆は英鈴にそう語った。

(でも……)

 十年経った今も、強く思う。もしあの時、弟に薬を飲ませられていれば。

 もしあの時、英鈴が持つ椀の中身が『不苦の良薬』であったなら。

 弟が運命の死を迎える前に、片時でも、苦しみを和らげられたのではないだろうか。

 薬を飲めていれば、せめてあの熱と咳が収まっていれば。

 せめて枕元で、自分があんなに騒いで、叫んだりしなければ。

 嫌なものを強引に飲ませようとされたりしなければ、弟はもっと安らかに──

(今となっては、もう遅いけれど)

 でも、英鈴はその時に誓ったのだ。



    ***


「私は、弟の苦しみを取り除いてあげられませんでした。……だからせめて今は、薬のことで悩んでいる人がいるなら、助けたいんです。たとえそれが誰であったとしても」

 朱心は、黙って話を聞いている。英鈴は続けた。

「だから、陛下に薬の依頼をいただいた時は……本当に、うれしかったんです。これで私でも誰かの役に立てると、そう思いました。でも今は……『潤心涙』の服用法も、いまだに思いついていませんし」

 話しながら、だんだん己の気分が暗く、重たくなっていくのを感じる。

 そう、自分はかつて、弟を救えなかった。そして今も、確かに小茶の命は救えたかもしれないけれど、皇帝からの依頼はまったく良案も浮かばないままなのだ。

 郷里にいた頃は、ここに来た時には、あんなに胸中に大言壮語を抱いていたというのに。

「いつか、誰でも苦しまずに飲める薬の服用法を見つけて──それを他の人々に広められるような。そういうくすになれたらなんて、そう思っていたのに……」

 そこまで語って──はっと、口を閉ざす。

(しまった……!)

 薬師になりたい? 女である自分が? そんなことを言って、今までどれだけ周囲に止められてきたか。言っても無駄だから、最近は誰にも言わないようにしていたのだ。

(『不苦の良薬』についても、誰にも言わないようにしていたのに)

 ──きっと、わらわれる。朱心が息を吐く音が聞こえ、英鈴は、思わず身構える。

 しかし、次に彼が言ったのは、あざけりの言葉ではなかった。

「ついて来い」

 言うなり朱心は席を立ち、こちらに背を向けた。その白い上衣が月光を反射して、鈍く光っている。

(えっ……!?)

「何をしている? 来い」

 ちらりと振り返った彼の瞳は、冷徹に光っていた。

「あっ、は、はい!」

 ここは命令に従うよりほかなさそうだ──いつもそうだけれど。

 とは言っても困惑を隠しきれないまま、英鈴が立ち上がっておずおずと歩を進めると、朱心はさっさと庭の向こうへと歩きだしてしまう。

 だから英鈴もまた亭子あずまやの屋根の下から出て、彼の背に従い、庭を奥へと進んでいく。

(どこまで行くんだろう……?)

 ようの木々の並ぶ間の道を歩き、英鈴が内心そうつぶやいた頃、朱心は石壁の前で立ち止まった。近くに立ってよく見てみれば、石壁には、りゆうじんの大きな浮彫が施されている。

 龍神はその五つの爪でもつて、宝玉とおぼしき球体をしっかと握り、こちらに見せつけるようにしてえていた。

「ここだ」

 短く言うと、朱心はその球体を軽く押す。すると球体がわずかに石壁の中にめり込み、同時に、足元に低く地響きのようなものが走った。

 地震か、と慌てるような暇もなく、すぐに壁にれつが走ると──いや、それは亀裂ではなく、一つの扉だった。石壁の一部がおもむろに移動し、扉が出現したのだ。

(す、すごい仕組み……)

 さすが、後宮ともなるとこんな場所もあるようだ。つい目を見張ってしまっていると、朱心はまるで反応を待つかのように、じっとこちらに視線を注いでいた。

「あっ……し、失礼しました」

「肝心なのはだ」

 感情を見せない表情で朱心はそう言うと、扉に手をかけた。近づいて見れば扉は金属製で、月光を浴びて銀色に光り輝いていた。外見の割には軽そうなそれを、皇帝は自ら押し開ける。

 それにしても、この先とは──?

(こんな場所まで連れてきて、一体なんのおつもりなのかしら)

 いぶかしみつつも英鈴は、彼に続いて扉の向こうに踏み入る──


 そしてそこで、見たものは。


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