1-9話


「え、英鈴……」

「なっ……!?」

 床の上であおけに横たわり、息を荒らげ、顔や腕に真っ赤なはんてんを浮かび上がらせている一人の宮女──雪花の姿だった。

「雪花……どうしたの!?」

 慌てて駆け寄ろうとしたところで、ぐいっ、と何者かに腕を取られる。振り返れば、それは、さっきこちらを呼びにきた宮女だった。彼女はそれまで浮かべていた表情を一変させ、意地の悪いにやにやとした笑みを浮かべている。

 さらに、よく見れば──倒れている雪花の周りには、他の宮女たちだけでなく、楊太儀を筆頭に、主人である白充媛、さらにしようようじゆんようなど、嬪たちが大勢集まっていた。

 ──そう、皆、薬茶を買ってくれた女性たちばかりだ。彼女らは倒れた雪花を介抱するでも、心配するでもなく、ただひそひそと何か言葉を交わしながら、ちらちらとこちらに冷たい視線を向けてくる。白充媛に視線を送っても、無表情に、目をらされるばかりだった。

 脳裏をぎったのは、かつての母の言葉。

『後宮は、それは華やかな場所なのでしょうが、高貴な女性たちの醜い争いの場だとも聞きます──』

(これが……こんなのって、そんな……!?)

 恐怖と怒りがない交ぜになったような、激しい不快感が胃の底をうごめく。しかし、友人の危機を前に、いつまでも戸惑ってばかりいられない。英鈴は意を決して、声を張り上げた。

「せ、雪花に」

 誰にともなく、前方に座り込んでいる女性たちに向かって、叫ぶ。

「彼女に何をしたんですか!? それは明らかにやくしんです。早くお医者様に見せないと」

「あら。何をした、ですって? こちらの台詞せりふですわ」

 口を開いたのは、楊太儀だった。彼女は非難がましい目つきでこちらを見据え──といっても、その口の端は不気味にり上がっていたが──さらに、こう語った。

「あなたが売った『声に効く茶』を分けて飲ませた途端に、この娘はこうなったんですのよ。あなた、なんという恐ろしいものをわたくしたちに飲ませていましたの? 信じられませんわ」

(飲ませた……雪花に、澄声茶を!?)

 聞いた瞬間に、恐怖はどこかに飛んで消えた。

 純粋な怒りに突き動かされるように、英鈴はきっぱりと反論する。

「恐ろしいのはそちらのほうです! その子は体質的に……」

「お黙りなさい!」

 楊太儀は、その細い身体のどこから出たのかわからないほどに鋭い声音で、こちらの言葉をき消した。

「ご覧なさい、娘の肌の出来物を。なんとおぞましい。庶民出の宮女の分際で、主上に色目を使い取り入って、ちようを得るだけでは飽き足らず……こんなものをわたくしたちに飲ませ、美を損なわせようとまでしていたなんて」

 ──主上に、取り入って? 発言の意味を理解した途端、英鈴は、はっと息をんだ。

(まさか……私が陛下と直々にお会いして、頼み事を受けたのが広まって)

 後宮の内に、秘密というものはないに等しい。

 誰かの事情や悩みはすぐに噂になって広まるし、何も聞いていないようなふりをして、隣の会話に耳をそばだてるような者たちが山ほどいる。それ自体は、英鈴自身も理解しているはずだった。けれど、それならば、同様に予測できたはずだったのだ。

 ぽっと出の、しかも庶民の自分が陛下から個人的な頼まれ事を受け、しかもどうやら、それをかなえたらしい──という事実が後宮中に広まるのなど、あっという間だと。そして、それがどれほどのせんぼうしつを生むかということを。

 先日の雪花との会話を聞いていた者が、雪花に澄声茶を飲ませたら何が起きるかを知り、それを他の者に悪意を以て漏らせば──こうなるということを。

(私のせいだ……!)

 自分が痛い目に遭わされるだけならば、まだいい。友達を巻き込んだことが、何よりも重く心に伸し掛かってくる。しかし嬪たちは、悔恨の時間すら与えてはくれないようだ。

「そうよ!」

 楊太儀に倣って声をあげたのは、従二品の中でも高位に属する別の嬪だった。

くすでもないくせに薬茶を売るなんて、妙だと思っていたわ。こんな欠陥品を売りつけるだなんて、この毒婦!」

「どうせあなたの実家の商店も、毒薬を売りつける商人なんでしょう!?」

「気持ち悪い目つきね。何さ、せ狐が」

「無学な不細工のくせに、調子に乗るからよ」

「あんたにはこえめがお似合いよ!」

(ううっ……!)

 後悔で弱った心には、ただの言いがかりや、子どもじみた悪口であっても突き刺さる。

 目に涙が浮かびそうになり、しかし、英鈴はそれを無理やり振り払った。

(駄目だ……こんな人たちの思い通りに、泣いたりなんてしたくない!)

「皆さま」

 ──そこで静かに声を発したのは、誰あろう、英鈴の主人である白充媛だった。

「このたびは私の宮女が、申し訳のないことをいたしました……」

「まあ、充媛」

 もはやかんばせに浮かんだ笑みを隠そうともせずに、楊太儀は勝ち誇った様子で言う。

「それでは、もしや! 責任を取って、この娘を解雇なさるおつもりなの?」

「……」

 充媛は、ちらりと英鈴のほうを見やった。そのひとみは申し訳なさそうにゆがみ──いや、どちらかというとそれは、「恨んでくれるな」という懇願のまなしだろうか。

(充媛様、そんな……!)

 わずか一ヶ月ほどの間とはいえ──誠心誠意、尽くしてきたはずだったのに。否、そんな感傷など、あってないようなものなのだ。この後宮では、裏切りは日常茶飯事なのだから。

「……はい、その通りでございます」

 彼女は、はっきりと、そう口にした。

「董英鈴は、今を以て……私の宮女ではなくなりました」

「あら、まあ! お聞きになって、皆さん!?」

 楊太儀が、歌うように軽やかに語る。

「それではここにいるあの娘は、もはや宮女でもなんでもない、ただの慮外者ですわね。となれば、追放の前に私どもで、しっかりと礼儀を教えてやるべきではなくて?」

「……!」

 太儀の言葉を受け、その場にいた女性たちの目がぎらりと輝く。

 その手には、細く輝く何かが握られている。まさか──

(針!?)

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