1-8話


「おお、英鈴。待っていたぞ」

 今日も今日とて、朱心は麗しい笑みを浮かべていた。執務が終わったところだったのだろうか、彼は居並ぶ文官たちを下がらせる。英鈴は静かに深く、床に伏せるように礼をした。

「こ、皇帝陛下には、ご機嫌麗しく……」

「堅苦しいあいさつはしなくていい。ちょうどもうすぐひるの時間、薬を服すにはよい頃合いだ。さあ、どんな薬を作ってきた? 見せてみよ」

「はっ、はい!」

 英鈴は拱手すると、傍らに立っている燕志に麻袋を恭しく渡した。燕志はそれを受け取り、さらに丁重な所作で皇帝に渡す。

「ふむ……これは、飴玉か?」

「いいえ。それは、『こうがん』でございます」

 袋から出した茶色い玉を指でまみ、興味深そうにしげしげと眺める皇帝に対し、心臓が口から飛び出そうになるのを抑えつつ、英鈴は答えた。

「外側に見える茶色い部分は膠飴、つまりもち米と麦芽を水飴のようにしたもので、それ自体に滋養強壮の薬効がございます。そして、とても甘い味がいたします」

「ふむ」

「熱して柔らかくした膠飴で暑中益気散を包み、冷やして固めたものが、その膠衣丸です。つまり陛下は、それをお飲みになれば、舌の上で苦みを感じることなく、暑中益気散をお召しになられるというわけです!」

「ほほう」

 朱心は目をきらめかせた。

「なるほど。まんとう皮であんを包むように、苦い薬を甘い薬で包んだのだな」

「はい。ですが、暑中益気散はご存じの通り、本来は湯と共に服用するべき薬です。その丸薬は必ず、湯と共にお召し上がりになりますように、お願い申し上げます」

 もちろん、膠飴と暑中益気散の飲み合わせについても調査済みだ。実家にいる間に、膠飴と飲み合わせがよくない──つまり、一緒に飲むと身体の害となるような草木について調べておいたがあった。これを飲んでも身体に害がないのは、英鈴自身でも実験済みだ。

 すると、燕志が口を開く。

「陛下。先ほど幾人かの者で、毒見をさせていただきました。問題ないかと存じます」

「そうか、そうか。ではさっそく……」

 と、こちらが何か言う間もなく。皇帝は口を開けると、膠衣丸をひょいっと放り込んだ。

「んん!」

 その目がぱっと輝き、次いで陰に控えていた薬童が、急いだ様子で湯の入った杯を朱心に差し出す。彼は湯をゆっくりと飲み干し、次いで、言った。

「うむ。これはいいな!」

「あっ、ありがとうございます!」

(やった……!)

 あまりにうれしくて、足が宙に浮いてしまいそうだ。それでもなんとか浮き立たないように自制する英鈴に、朱心は、重ねて褒美の言葉をかける。

「舌に触れた時に苦みがあると、まずそれで吐き出してしまいたくなるものだが──そなたの作ったこれは甘い! ゆえに飲みやすい。なるほど仕組みは単純だが、この解を得るのにそなたがどれほど努力を重ねたか、それがわからぬほど余は不明ではないぞ」

「も……も、もつたいなきお言葉です!」

 これまで薬の研究をしても、商売熱心だと言われこそすれ、真意を理解して褒めてもらったことはなかった。だからこそ今の朱心の言葉は、心に深くみ入っていく。

 喜びで少し震えてしまう英鈴に、皇帝は、微笑ましいものを見るような視線を向けた。

「董英鈴、大儀だった。そなたのこの働き、余の期待に充分にこたえるものであった。褒美を取らせる。もちろん、そなたの実家である董大薬店にもな」

「はいっ! あ……ありがとうございます、陛下!」

「うむ、下がってよいぞ」

 朱心の言葉に、英鈴は拱手をもつて応える。

 とにかくこの時、一つの成果が世に生まれたのだ。求めていた『不苦の良薬』のおぼろげな概念、それが一つの形をとって、この世界に生まれ出た。他ならぬ、自分の手によって!

(やった、やった!!)

 廊下を後宮へと戻る間、浮かれ調子になってしまう自分を、英鈴はどうしても止めることができなかった。

(これからも、この調子で頑張ろう! 陛下は聞いていた通り、新しいもの好きの穏やかな方だし……もしかしたら、これからも何か依頼をくださるかも)

 自分の才能を認めてくれた。他ならぬ、皇帝陛下が。こんなに嬉しいことはない。

(まず戻ったら、さっそく薬の研究の続きをしなきゃ!)

 ──しかし結局のところ、古人の言は真である。すなわち、『好事魔多し』と。


「えっ」

 部屋に戻った英鈴は、絶句した。自分の荷物だけが、まるで局所的な嵐にでも見舞われたかのように、乱暴に荒らされていたからだ。

 金子をられはしていないようだが、くずかごに入れた衣類は貴重な書物ともども切り裂かれ、薬の道具であるげんや乳鉢、こね鉢などは割られ、あるいは壁にたたきつけられている。

(これは……!?)

 浮かれていたところに、一気に冷や水を浴びせられたような気分だ。

(ひ、ひどい……一体誰がどうして、こんなことを!?)

 緊急事態に、心臓が早鐘のように鳴りはじめる。けれど部屋を見渡し、違和感を覚えた。

(……みんなは、どこ?)

 おかしい。この部屋は白充媛に仕える宮女たち共同の部屋で、普段は誰かしらここにいるのだ。こんな騒ぎがあったのなら、必ず誰かが気づくはずだ。特に雪花なら、きっとすぐさま知らせに来てくれるはずである。

「英鈴!」

 と、部屋に入るなり呼びかけてきたのは、他のひんに仕える顔見知りの宮女だ。

「早く、こっちに来て。大変なの!」

「わ、わかったわ!」

 彼女の切羽詰まった様子を前に、何かを問いかけることもできず、とにかく英鈴は彼女について後宮内を走った。そして、辿たどり着いた一室で目にしたのは──

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