1-3話


(いつかは、どんな薬でも『不苦の良薬』に──誰でも苦しまずに飲める薬にできれば)

 誰でも苦しまずに飲める薬、というのは、今のところ具体的な例があるわけではなく、あいまいな概念でしかない。『不苦の良薬』というのも、『良薬は口に苦し』になぞらえた、英鈴の造語だ。しかしそれこそが、ここに来た一番の理由なのだ。

 だからこそ、なんとしても、秘薬苑が本当にあるのかを知りたい。そして実在するのなら、ぜひ一度でもいいから中に入ってみたい。

 噂によれば、秘薬苑とは戦乱の時代、傷ついた将兵をいやすために、当時の皇后が後宮の中に作らせた薬草園。多くの命を救った薬草と、その処方のすべてが残されていると聞く。

(こうして後宮に来てみても……それらしい場所は、まだ話にすら聞かないけれど)

 戦がなくなって平和が何十年も続いている今、もしかしたら、存在したとしても廃れているかもしれないし、古い処方は忘れられてしまったのかもしれない。

 けれど草木が薬として使われる時、何よりも重要なのは、それを投与して何が起こったか、という記録の集積だ。古いものにこそ、記録は数多く残っている。服用法の研究には最適だ。

 しかし秘薬苑があるとされているのは妃嬪のうちでも従一品以上の位、つまり相当に高位の女性でなければ、立ち入ることの許されない庭だという。

 ならば──なんとか、そこに立ち入れるようになるまでだ。

 庶民の出のうえ、極端に目をくほどの美人でもない(と自覚している)自分が、妃嬪になれるなんて思っていない。けれど、例えばこの後宮で功績を上げ、さらに位の高い女性に仕えることがかなえば、お付きとしてその庭に入る時が来るかもしれない。

(そのためにも、今は自分にできることをやらないと!)

 それこそが、精一杯の夢への第一歩だ。

 もっとも、多くの人々に薬茶を喜んでもらえるだけでも、充分に幸せなのだけれど。


 ──その日の昼下がり。

「あら、思っていたよりも悪くありませんわ」

「も、も……もつたいなきお言葉です、ようたい様」

 白充媛の住まう部屋の最も上座に陣取っているその女性に向かって、英鈴は敬意を示す深いお辞儀をした。手と声が震えそうになるのを、必死にこらえる。

 対する楊太儀はというと、いかにも貴人らしく、当然のようにその拝礼を受け入れ、いちべつを投げかけてきた。ついで彼女は、紅の引かれた美しい唇に薄く笑みを浮かべると、澄声茶の入った白磁の器を置いて白充媛に話しかける。

「充媛、なかなかいい『拾い物』をなさったのね。素人の手製というからどのようなものかと思っておりましたけれど、わたくしの口にも合いましてよ」

「それは、よろしゅうございました」

 充媛の返答に満足した様子で、太儀はもう一度微笑む。その片手は、床に大人しく座っているずんぐりした体型の茶色い小犬をでていた。どうやら太儀は、たいそうその犬を可愛がっているようだ。

 一方で平伏したままの英鈴は、ひどく緊張して彼女たちのやり取りを聞いていた。

(ま、まさか、従一品の嬪にお目通りが叶うなんて……!)

 楊太儀は、ここ華州で代を重ねてきた名族の出である。当然、今この部屋にいる女性たちの中では一番位が高い。

 これまで充媛の縁故で英鈴のお客様となっていたのは、後宮の内では充媛と同程度か、それより下の位の嬪たちばかりだった。それが今日は、どこかで噂を聞きつけたのだろう、太儀はわざわざ白充媛の部屋までやって来て、英鈴の薬茶をご所望になったのである。

 恐る恐る視線を上げて、英鈴は太儀を見つめた。

 楊太儀は尊大だが、その尊大さは彼女自身の輝くようなぼうと合わさって、ある種の気品となっていた。白充媛も美しい女性だが、彼女のかすかな月光やかげろうの羽のごとき控えめな美と比べると、楊太儀のそれは、輝く日光か大輪のたんの花の放つ美である。

(す、すごい……こんなに偉い方にお会いするのは、生まれて初めてだわ)

 頭の片隅でそんなふうに思っていると、ふと楊太儀の視線がこちらへ向く。

「英鈴、といいましたわね。このお茶、あなたが充媛に勧めたんですの?」

「はっ……」

 思わずびくん、と肩を揺らしてから、平伏して答える。

「はい。私でございます」

「あら、そうですの」

 太儀はまゆを片方だけ上げて、目を細める。

「あなた、くす様でもないのに、ずいぶんと薬にお詳しいのね」

「お褒めいただきありがとうございます。生家が薬売りでして……」

 と、英鈴が言葉を重ねようとした──その時である。

「失礼いたします」

 涼やかな青年の声と共に、格子に花を模した彫刻が施された扉が開かれる。そこに立っていたのは、皇帝以外に後宮に立ち入るのを許された唯一の『男性』、つまりかんがんだった。

 その宦官の控えめながら整った顔立ちと、冠からのぞく珍しい白銀色の髪には、英鈴も覚えがあった。たしか皇帝陛下のお側付きの、おうえんとかいう名の宦官だったろうか。

 燕志はぞうの彫り物細工のようなかんばせに薄く笑みを浮かべると、まず部屋にいる者を一人ずつ精査するかのように、ゆっくりと視線を動かした。

 そして楊太儀のげんな表情に気づくと、特に動じた様子もなく、恭しいお辞儀をする。

「ご歓談のところを恐縮でございます」

「燕志、このような時間になんの御用ですの?」

 太儀は眉をひそめたまま言った。

「まさか、陛下がおいでになるわけでもないでしょうに。あのお方は今日も、お一人でお休みになられるのでしょう?」

 そのあけすけな物言いに、充媛がわずかに目を見開いている。英鈴も、内心ぎょっとした。

 しかし、太儀の言葉は事実である。半年前に先帝が亡くなって以来、いまだに服喪の期間だと言って、陛下は立后もまだだ。それどころか、これまで後宮のどの妃嬪とも、一夜を共に過ごしてはいないと聞く。当然、妃嬪たちにとってそれは面白い状況ではない。位も気位も高い太儀にとってはなおさらなのだろう。

 しかし燕志はというと、特にそれを気にするでもなく、微笑みをたたえたままで告げた。

「はい、仰せの通りでございます。私めが今日ここに参じたのは」

 と──彼の視線が、英鈴のほうを向いた。

「主上が、そちらの、董英鈴殿をお呼び出しになったもので」

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