1-2話


(!)

 秘薬苑の名が父の口から出たので、動揺して思わず居住まいを正してしまう。

 しかし両親は、それに気づかない様子で話を続けている。

「英鈴はよく店を手伝ってくれているから、女だてらに薬に詳しいものな。ほら、昔はよく言っていただろう。くすになりたいだのなんだの」

「ええ、そうでしたね。女の子には無理だと何度も教えたのに、困ったものでしたよ」

「しかしまあ、高貴な方が作らせた、あらゆる草木としよほうせんが集められた幻のそのともなれば、遠目に拝めるだけでも薬売りみように尽きるというものだ。なあ英鈴、そうだろう?」

「は、はい。もし本当にあるのなら、ぜひ……見てみたいと思います」

 努めて平静な態度を取りつつ英鈴が応えると、母がまた首を横に振る。

「私が聞いた噂では、秘薬苑は高貴な女性しか入れない庭にあるそうですよ。実在したとしても、たいや貴族の出ならばいざ知らず、薬売りの娘が立ち入れる場所ではないのでは?」

「どうしてそうお前は悲観的なんだ」

「悲観的なのではありません。ただ……」

 と──母はその物憂げな瞳の色をいっそう暗くして、続けた。

「ただ、もし英鈴を男の子に産んであげられていれば……いえ、もしあの子がいたならば、こんな苦労をかけずに済んだだろうと思うと……」

「お母様」

 口をいて出た声音は、自分でもわかるほど沈んでいる。続く言葉は、何も思いつかなかった。

 こういう目をしている時の母に何を言えばよいのか、この十年、わからないままだ。

 それはどうやら父も同じようで、居心地が悪そうに息を漏らすと、腕を組んだ。

「……その話はもうせ。ともかく英鈴、お前も乗り気ならば何も言うことはない。手続きは進めておく。我が商店のため、頑張れよ。無理はせずにな」

「承知いたしました! 頑張ります」

 座ったまま深く一礼し、英鈴は胸の中でつぶやいた。

(やり遂げないと。精一杯お仕えして……いつか、『不苦の良薬』の手がかりを得るために!)

 ──のような目に遭う人を、少しでも減らすために。英鈴にとって今回の後宮入りは、両親のためだけではなく、自分自身の夢のための戦いの始まりだった。


    ***


 白充媛に仕える宮女たちの部屋に戻った英鈴は、改めて、澄声茶の在庫を確認した。それから、発注元に手早く届けられるように袋詰めしていく。

 今朝、充媛にお出しして以来瞬く間に噂が広まって注文がたくさん届いたので、空いた時間に準備しておかないと、とても追いつかないのだ。

 この茶は、味は麦茶に近く、香ばしくすっきりとした喉越しで、何より飲むと喉にいい。

 美しい声はさらに美しく響くようになり、長時間おしやべりをしたり歌ったりした後でも、これを飲んでさえいれば翌日喉が痛くならないという──要は、喉がれてしまうのを抑える薬効があるのだが──それが、このお茶の最大の魅力である。

 ひんがたは日中たくさんお喋りをするし、りようを慰めるために、歌舞音曲に時間を費やすことも多い。つまり、このお茶の需要はとても高いのだ。

(充媛様が、お風邪を召した時に薬茶をお出しして……それをお気に召していただいたのがきっかけだったけど。今じゃ色んな人から声をかけてもらえているし、本当によかった)

 この前は、後宮の外を守る衛兵たちにも薬茶を提供した。

 ちょうど所用で門を通りかかった時に、彼らの話し声が聞こえてきたからだ。

「はあ、この時期は暑いだけならまだしも、湿気が多くて困ったもんだよなあ」

「ただでさえ、夜勤明けは眠気がきっついのになあ。何かこう、飲むとスッキリするような飲み物はないもんかねえ」

 それならば! と英鈴が彼らに差し出したのが、はつちやだった。

 緑茶と麦芽糖を混ぜたものに、薄荷──清涼感のある独特の風味を持つ草木の葉を浮かべた茶だが、口に含むと氷もないのにすっきりとした冷たさを感じるうえに、香気が眠気覚ましにもなる。それに薄荷は頭痛やいらった気持ちを抑える効能もあるので、衛兵たちのように、夜通し気を張って仕事をしなければならない人たちには最適の薬茶と言えるのだ。

 同室の宮女たちと飲もうと、実家から取り寄せた薄荷で作ったものだったが──

(今、必要としている人たちに飲んでもらうほうがいいわね)

 心からそう思った英鈴に、迷いはなかった。

 本来なら、誰彼構わず積極的に話しかけるわけでもない英鈴だが、こと薬に関しては話は別である。薬とは、必要な時に、必要な人に行き渡るべきものだというのは、薬売りの娘だという以上に、自身の生きる根幹となっている信念なのだから。

 というより、薬のことになるとあまり周りにとんちやくしなくなってしまう自分がいるのは、自覚しているところなのだが──

 ともかくそういうわけで、衛兵たちに声をかけて試しに飲んでもらったところ、これがまた好評を博した。そのため、今では董大薬店の薄荷は、禁軍の一部からも発注がくるほどの人気商品になっているという。


 ──すべての薬が、薬茶のように飲みやすくできればいいのに。

 そんなことはできないとわかっていながらも、英鈴は、そう思わざるを得ない。

 よく知られている通り、薬には苦みや渋みのせいで、とにかく飲みづらいものが多数ある。そういうものはいくらげんき、茶のようにしても、服用しづらいのに変わりはない。

 しかしながら、この旺華国では長い間『良薬は口に苦し』という言葉が示す通り、薬の服用法自体にはさして注意が向けられてはこなかった。

 制度上、男性にしかなれない薬師という仕事も、もっぱら薬の調合の専門家ととらえられていて、それ以上に「薬を飲みやすくする」こと自体は役務に入らないものとされている。

(でも……我慢でなんとかならない時だってある)

 たとえ服用法に関しては薬師の仕事ではないとされていようと、せめて自分は、服用法を極めた「薬師」になりたい。女だから、薬師そのものにはなれないとしても──

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