第一章 英鈴、虎穴に入ること

1-1話


 大陸をほぼ二分する広大な河による河川舟運、そして丘陵がはぐくむ豊かな農村地帯によって発展する大国──おうこく

 夏らしい蒸し暑さをほんのりと感じる朝のこと、首都・しゆうりんねいの禁城にて。

 宮女・とうえいりんが恭しく差し出した白磁の碗を、後宮のひんであるはくじゆうえんもろで持ち上げると、静かにその香りを味わってから、問いを発した。

「このお茶をれたのは、誰ですか」

「は、はい!」

 お辞儀していた身体をはじかれたように起こすと、英鈴はぎくしゃくと答えた。

「あの、私です。何か……問題でも」

「いいえ、とんでもないわ」

 白充媛は柔らかく微笑んだ。

「とてもいい香りね。これは、前に淹れてくれたのとは別の薬茶かしら」

「はい!」

 今度ははきはきとこたえると、英鈴は続きを口にした。

「こちらは、『とうせいちや』でございます。昨日、充媛様は他の奥方様とたくさんお話しして過ごされていたので……のどによいお茶をと思いまして」

 そこで止めておけばいいものを、なおも続けて語ってしまう。

「この薬茶は解熱消炎作用のあるいくつかの草木の風味をよくするために、った大麦の茶を混ぜたものです。つまりよくにんれんぎようだけでなく、におけるかんやくの作用を……」

 とそこで、驚いたように目を見開いている充媛の姿と、あきれているというよりはあつにとられている様子の周囲の宮女たちの様子に気づき、慌てて口を閉ざす。

「あ、あの……すみません。充媛様のお気に召して、何よりと存じます」

「ふふふ、気にしないで」

 充媛はおうように言った。

「本当に薬に詳しいのね。さすが薬売りの娘だわ。それに、よく私を気遣ってくれること」

 微笑みのままにねぎらいの言葉をかけてくれた主人に、英鈴は再度こうべを垂れた。

もつたいないお言葉です……」

 別にわざとけんそんしているのではなく、自分には、まだ至らぬ点ばかりだと思っている。

 けれど、こうして薬のことで褒めてもらえると、英鈴の胸中には、なんともいえない温かさと達成感がこみ上げてくるのだ。

 ──宮女として後宮にやって来てまだ一ヶ月足らず。しかし現在の英鈴がそれなりに順調に生活できているのは、まったく配属先の運がよかったという他ない。

 白充媛はこの旺華国の地方名族の出だ。その高貴な出自のせいか、落ち着いた物静かな女性で、しかも、後宮内の妃嬪たちとの間にしっかりした縁故がある。

 だからこそ、英鈴が以前に特製の薬茶を試しに出してもすんなりと受け入れてくれたし、その効果を認め、他の女性がたに薦めてくれさえしたのだ。

 おかげで実家のとうだいやくてんは、後宮相手に新しい商売ができるようになったとうれしい悲鳴をあげているそうだ。けれど何より、英鈴にとっては頼りにされていることこそが嬉しい。

(ここに私が来た理由の一つだもの……これからも、しっかり頑張らないと)

 脳裏をぎるのは、初夏のあの日──禁城へ来る前、実家で両親と交わした会話だった。


    ***


「えっ……私が宮女に、ですか?」

 父の仕事部屋に呼び出されるやいなや、両親から突き付けられた言葉に英鈴は戸惑った。

 英鈴が結い上げた黒髪の房を揺らしつつ、り上がり気味で大きな、人によっては「目つきが険しい」と形容されるひとみを見開いていると、驚くのも無理はないと父は重々しくうなずく。

「禁城にお勤めのお医者様によると、後宮では今、妃嬪がたのお世話をする宮女の人手が足りないそうでな。それに今の皇帝陛下は、お若いからか色々と新しいものを試すのがお好きらしい。人材や制度、それに薬も。つまり」

「ええと……我が家の薬を禁城でお使いいただき、董大薬店の名声を高める絶好の機会、ということですか?」

「そうだ。察しがいいな、さすがはわしの娘だ!」

 父は我が意を得たりと笑っているが、傍らの母はどこか表情が硬く、うつむきがちである。

「な、なるほど……」

 思い当たる節はある。数日前、董大薬店をひいにしているみの医師と、父が顔を突き合わせて真剣に話し込んでいるのを目撃したばかりだし──それ以前に、噂で聞いていた。

 半年前に先帝が突然お隠れになり、その跡を継いで皇帝となられた今の陛下は、まだ二十歳と年若く、温厚で新しいもの好きだと。

 つまりこれは、商家にとってまたとない好機だ。

 董大薬店は、伝統的な処方から最新の処方まで意欲的に取り入れた品揃えを売りとして、首都の近郊でそれなりに大きな看板を掲げている。とはいえ、四代目店主の父の代に至っても、未だに大商家を名乗れるほどの店構えではない。

 しかし今、その娘である英鈴が後宮で働き、うまく後宮の妃嬪がたに、ひいては朝廷との間に、確かな縁故を築いたとしたらどうか? もちろん、おおもうけである。

 そしてそんな好機を、根っからの商人である父が見過ごすはずはない。

 幸いにして(というべきだろうか)、英鈴はよわい十七にして未だに嫁のもらい手もなく、店の手伝いをずっとしてきたお蔭で、読み書き計算や礼儀作法もある程度心得ている。

 宮女となるための条件は、満たしていると言っていい。

 ならば、このまま実家にとどまるよりは、宮女となって後宮で働いたほうが、両親の役に立てるかもしれない。それに──

(後宮に出入りできたら……が本当にあるのかどうか、自分の目で確かめられるかも)

 そう思うと、英鈴の胸は、我知らず激しく鼓動を打ちはじめる。

「あの、お父様」

 こほん、と軽くせきばらいして自分の気持ちを落ち着けてから、続けた。

「わかりました、私、後宮に参ります。お役に立てるよう、精一杯励みます」

「おお! そう言ってくれるか」

 父は嬉しそうに、自分のひざを平手でたたいた。だが一方で母は、物憂げに言う。

「英鈴……もし嫌ならば、嫌だと言えばいいのですよ。母はあなたを案じているのです」

「お前、そんなに心配するな。こいつはなんだかんだ言って、やる時はやる奴だ。大丈夫さ」

 楽観的な父の言葉に、母親は首を横に振った。

「それはわかっておりますわ、あなた。けれど後宮は、それは華やかな場所なのでしょうが、高貴な女性たちの醜い争いの場だとも聞きます。そんな場所に、一人娘をやるだなんて……」

「何も、はなからそんな景気の悪い話をするもんじゃない。それに」

 母を元気づけるためか、やや語勢を強くして父は言う。

「ほら、お前も噂で……というよりは伝説に近いが、聞いたことがあるだろう。後宮には何代も前の皇后陛下がお作りになった『やくえん』があるらしい、と」

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