2-6話


(あれ?)

 そこに書かれているのは、暑中益気散とは別の薬の処方だった。

(でもこの調合、どこかで見たことがあるような……?)

 そうしてしばらく読み進めたところで、はっ、と息をむ。

「これは……もしかして、『じゆんしんるい』では?」

「ほう」

 興味深そうに、朱心が声を発した。

「知っているのか。それは重畳」

「はい。これまでに扱ったことはありませんが、薬の目録で見たことはあります。『すい』の流出を抑えようとする、この薬の構成……間違いない」

 英鈴は、思わずのどを鳴らした。一方で、朱心がわずかにまゆひそめる。

「水の流出、とはどういう意味だ」

「はい、ええと……専門的な話になりますが」

 ──そもそもこの大陸の医学において、人の生命活動には『気』『けつ』『水』の三つの要素が不可欠だとされている。気とは身体そのものの活力、血とは文字通り血液、そして水とは、胃液や涙などの体液である。

 これら三つが均衡を保ったまま循環することで、人は健康を維持できるのだ。気が身体を動かし、血は気を全身に巡らせる。そしてその身体をより動きやすくしたり、体温調節をしたりするのが、水の要素──というわけである。

「不健康な状態とは、逆にこれら三つのどれかが不足したり、過剰になったりした状態を指します。例えば、陛下が飲んでおられる暑中益気散は、その名の通り『気を益する』つまり気を補充するための薬ですね」

「では潤心涙とは、水を補充するための薬、ということか?」

「いいえ、少し違うのです」

 名だけ見れば、確かに潤心涙は水を補う薬のように見える。しかしその実態は、「水を身体から出させないこと」だけに特化した薬──要はこれを服用すると、涙・鼻水・汗・尿といった、あらゆる体内の水が出づらくなるのだ。

「陛下は──『かつびよう』という病をご存じですか?」

「ああ、知っているとも」

 なぜか低く笑いながら、朱心は応える。

(……? 何がおかしいのかしら)

 疑問に思いながらも、英鈴は続けた。

「苦渇病はかんすると、高熱と共に異常な発汗、鼻水、排尿にみまわれ、体内のあらゆる水分が奪われる病気です。成人ならば、水を飲み続ければいずれ快方に向かうでしょうが……抵抗力の低い幼い子どもや老人がかかれば、いずれ水分不足により命の危機に陥る」

「本当によく知っているな、董昭儀」

 朱心は言う。

「先ほどまでウサギのように震えていた人間とは、とても同じに見えないほどだ」

「はっ……!?」

 言われて英鈴は我に返る。夢中になって説明していたので、すっかり忘れてしまっていた──ここが主上の御前であることを。

「あっ、す、すみません。私、その、つい……」

「構わん、許す。それより、説明を続けよ」

「は、はい」

 照れ隠しにこほんとせきばらいしてから、英鈴は話を続けた。

「とにかく……潤心涙は、苦渇病に対して用いるならば、非常に有効な薬です。異常な水の流出がすぐさま収まりますし、一週間も飲み続ければ、苦渇病そのものも完治します」

 ただ──

「潤心涙は、薬としては下品なのです」

「下品、とは?」

「つまり、『効果は非常に強いけれども、副作用の危険がある』薬のことです」

 薬学の世界では、薬を上品・中品・下品の三つに分ける。上品は、効果は弱いが副作用の心配がない薬。中品は、少し服用するだけならば問題のない薬。そして──

「潤心涙の場合は、異常な水の流出がない時に服用すると、じんの働きを損なってしまいます。健康な人間に服用すれば、毒となるくらいです。こうした薬を下品と呼ぶのです」

「ククッ」

 朱心は、掲げた右手を緩やかに振った。

「よしよし、そこまででいいぞ、董昭儀。けっこうな講義だった」

 彼は体勢をまっすぐに戻すと、さらに続けて言う。

「結局、お前が先ほどあれほど驚いていたのは、それが下品の薬の処方箋だったからか」

「それもありますが……この時期に潤心涙の処方を見るとは思わなかったためです」

 苦渇病は、基本的に秋の頃にごくまれに流行する病気だ。

 夏である今は時期が違うし、そもそも、朱心は苦渇病に罹ってなどいない。

(どうして今、この薬を……?)

 そう思いつつ、英鈴は内心で首を傾げ──そして、唐突に思い出した。

 昨夜、朱心と燕志とが交わしていた会話の内容を。

『一刻も早く、あの忌々しいの息の根を止めたいものだ──』

 確かに朱心は、そう言っていた。

(ま、まさか!?)

 朱心は潤心涙を、毒薬として誰かに飲ませるつもりなのでは? 浮かんだ疑惑にせんりつする英鈴を置いて、しかし朱心は薄く口元に笑みを浮かべると、こう言った。

「そうまでお前が詳しいのならば、申し分ない。董昭儀、新たに命じる。今後は暑中益気散ではなく──この潤心涙を、飲みやすくする服用法を開発せよ」

「えっ」

「できない、というのか?」

 挑発的に言うと、皇帝は片方の眉を跳ね上げた。たまらず、一気に反論する。

「いえっ、そうではなく! 理由がわからないのです。確かに潤心涙は非常に苦く、飲みづらい薬です──草木のうちでも特に苦い、おうれんおうばくも含んでいますから。けれどそれを置いても、陛下、あなたは苦渇病ではいらっしゃらないでしょう!」

「私が誰に飲ませるつもりなのか、と言いたげだな」

「そっ……それは」

 思いのほかあっさりと問われてしまい、気勢をがれる。

「その、通りです」

 英鈴がついうなずいてしまうと、朱心は「フッ」と息を漏らし、一度目を閉じた。

 そしてまぶたが開いた時、彼のひとみは──今までにないほどに、冷たい輝きを放っていた。

「董昭儀。お前、れんしゆうに行きたいか?」

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