2-5話


 なんとはなしに、広間で繰り広げられている議論に耳を傾ける。

「……さて、古い水門を修繕するにしても」

 聞こえてくるのは、朱心の声だ。

「それなりに財を割かねばならないな。あれはかなり老朽化が激しいと聞く……しかし、なぜ先帝は修繕を先送りにされていたのだったかな?」

「恐れながら申し上げます」

 口を開いたのは、青年らしい。たぶん若いたいだろう。

「かの水門、およびその水路は、かつてはとうしゆうの都市に水を引くためのものでした。しかしそれは数十年前までのこと、今は都市から農村部へ人が移り住んだ結果、かの水路の流域の大部分は森林と化しつつあります」

「ああそうか、そうだったな」

 朱心は、さも得心がいったように語る。

「では父は、かの水門の修繕にはさして力を注ぐべきではないとのご判断だったわけか」

「はい、陛下」

 青年士大夫は意を決したように言った。

「恐れながら……古い水門を修繕するより、桃州に新しい水路を引き、農村地により潤沢な水を供給することこそ、茎河の治水において有用かと。昨今のかんばつの対策としても」

「口を慎め、青二才が」

 反論したのは、老齢とおぼしき官僚の声だ。

「水路を新たに引くとなれば、膨大な人員と金子が必要になる。軽々しく言うでないわ」

「まあまあ、待て」

 ゆっくりと、朗らかな声音で、朱心は取りなすように言う。

「そなたの言うこともわかる。だがまずは、この者の話を聞いてみよう。──新しい水路を提案するからには、当然、どう引くかの案も考えてあるのだろう?」

「はっ、はい! 図面は既に」

「では図面とともに、実際に工事を行う場合に必要となる金子と人員の数を明らかにしたうえで、次の朝議に来てはくれないか? この者の言に反論するのは、その時でもできよう」

 老官僚は、士大夫に向けようとしていた言葉を吞み込んで了承する。

「……はっ。これは主上の仰せの通り。吟味の上、論じたく存じます」

「私も、主上のご期待に沿えますよう、最善を尽くします!」

「うむ、それがいい」

 老官僚と青年の双方からの返事を得て、からからと明るく朱心は笑う。

 一方で、立ち聞きしていた英鈴は思った。

(なんていうか、たぶん……陛下は、こういうやり方がきっと得意なのね)

 朱心は、何 朱心のことを、ただ温厚で新しいもの好きな皇帝だとしか思っていなかった時なら、わからなかったかもしれないが──彼のもう一つの側面を知っている今は、理解できる。

も知らないふりをして他者を動かすのにけているのだ。

 今の議論でも、きっと朱心の中では、既に新しい水路を築くべきだという結論は出ていたのだろう。しかし彼はあえてそれを表明しない。

 皇帝が表明すれば、それは果たすべき下知となって話は終わる。

 だが朱心はまず、単純な事実の確認の質問によって、青年士大夫の発言を引き出した。

 そしてそれに対する老官僚の反論に対しては、あくまでも常識的な仲裁を行っただけだ。

 けれども、それが結局のところ、新しい水路の案を提示させ、かつその是非を議論する場を後日設けるという、朱心にとって最善の結果を生んでいるのである。

(そういえば……)

 昨日の、後宮追放騒ぎの時も。

 朱心は単純な事実に関する質問と、温厚な態度での仲裁のみを用いて、英鈴が上手く身の潔白を証明できるように誘導してくれていた、ようにも思う。

 あの時、朱心は強引に場を収めることもできた。しかし彼は、自分自身は中立的な立場に置きながら、「自然な」形で決着させるのを優先したのだ。

 ──こういうのを、ただ者ではないというのだろうか。そう思うと、改めて、自分がとんでもない状況に巻き込まれているのが実感できて、思わず眩暈めまいがしそうだった。

(うう……後で、温かいでも飲もうかな。気分を落ち着けるには、まず温かいものよね)

 考えている間に、無事に朝議は終わったようだ。

 燕志に連れられて、今度は、朱心が一人で食事を摂る部屋へと移動するのだった。


 食事の部屋は、思っていたよりも、こぢんまりとしていた。

 といっても、後宮で英鈴にあてがわれている部屋より少し狭い程度だから、かなりの広さである。磨き上げられた上品なこくたんの食卓には、一面に朱塗りのたんの花の意匠が施されている。おそらくこれから先、次々と豪華な昼餉が並ぶのだろうが、薬を飲んだ後でそれは運び込まれるらしく、今は何も載ってはいない。

 壁にはまた、白と赤で塗られたりゆうじんの美麗な彫り物が施されている。そして食卓と同じ黒檀の椅子に座る朱心も、まるでせいな細工の一つのように、部屋の雰囲気に花を添えていた。

 とはいえ彼のまなしと微笑みは、夏の暑さをき消さんばかりに冷たい。

「よく来たな、董昭儀」

 部屋に参じた英鈴に、冷酷な声音で朱心は言った。

 さっき燕志が言っていた通り、ここには今、彼と二人だけだ。

「てっきり逃げ出すかと思っていたが、なかなか律儀なことだ」

「ご、ご命令に背くなど……」

 ククク、と笑う皇帝の様子からは、やはり、恐怖しか感じない。けれど、ひるんでばかりいるわけにもいかない。胸が早鐘を打っているのを感じつつ、拝礼し、英鈴はこたえる。

「その……そんなことは、できようはずもありませんから」

「まあ、それはそうだろうな。もちろん、お前には拒否権がない。そうでないと困る」

 わかりきっているだろうにそんな風に言うと、朱心は椅子のひじけにほおづえをつき、軽く首を傾げた。冠からこぼれる長い黒髪が、白い上衣の表面を、墨を流したように滑っていく。

「ところで董昭儀。薬についてだが──そう、今朝命じたばかりだ。当然、服用法の開発はまだなのだろう?」

「は、はい」

 と、正直に答える。

「残念ながら、問題点を解決するような案はまだ……」

「それでいい」

 こちらの言葉を遮って言うと、彼は懐から、書簡を一つ取り出した。

「許す。こちらに来て、受け取って読むがいい」

「はっ……はい」

 部屋の入り口に立っていた英鈴は、おずおずと朱心に近づいていく。

「では、拝見いたします……」

 拝礼してから受け取り、中身を見てみれば、それは以前と同じくしよほうせんだったが──

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