32.卒業……?




『卒業研究ってこんなに辛いの……?』


 いや、きっと真面目な学生や目標のきっちりと定まった学生、そして何より賢い学生達にとっては、体力的にキツかろうとも心のどこかで楽しさを感じているかもしれない。


 それとは真逆に位置する我ら不良学生は、実験目的も理論も結果も考察も曖昧で分からぬまま、ただひたすらアポロ宇宙船のような装置を触っている。


 もちろん努力はした。

 “努力した”という人ほど実際にはまだまだ努力が足りない、なんて事はありがちだが本当に俺は理解する為に必死に勉強した。


 しかし『目に見えない物を仮想的に考えるとかk空間とかナントカ……』といった、よく分からない理論書を俺はどういった心持ちで乗り切れば良かったというのか?目の前の問題もなかなか解決できないというのに、何をもってそんな空間の事を解き明かせというのか?


 ひとまず冷静に、分かる範囲で俺はひたすらアポロを動かし続けた。中で一体何が行われているのかというのは考えずに、結果をどう纏めるかに注力した。


 黒岩先生の竹刀の動きには敏感になり、怖い思いをしたくないので必死に研究についていった。後藤も息切れしながらではあるが、なんだかんだで研究を続けている。


 単位は揃ってる。残るはこの卒業研究だけなんや!なんとか乗り切らなあかん!


 研究室を出ると、日も暮れて薄暗くなった廊下が寂しく続く。『あれ?なんで外に出たんやっけ?』と、トイレに行こうとしていた事も忘れる程、疲れが溜まっていた。


『はぁ……』


 ため息が示す。卒業への最後の壁は高くそびえているのであった。


          ○


 奇天烈アパートの事件が印象深すぎて、すっかりと飛ばしてしまった大事な事がある。卒業への執着も、この出来事の影を薄めていると思うが……。


 その大事な事というのは、夏の前。

 俺の就活である。


 いや、大学生にとっては一番重要な行事であるように思うのだが、俺の場合は卒業する事に重きを置きすぎたり、奇天烈アパートを託されたりと、なかなかこの小説で触れる事ができなかったのだ。しかし、就活についてもかなり苦戦を強いられたのは語るまでもない。


 理系ということもあり、周りは川本達のように大学院へと行く人が多かった。俺は見ての通り研究の道へは向かう事なく、アカデミックな人生とはここでおさらばする事に決めた。なぜなら俺は実験恐怖症及び微分方程式恐怖症及び固体物理学恐怖症になっていたからである。あの不可解な数式達が微笑みかけてくる不気味かつ魅惑的な世界に、俺はどうも馴染めなかった。すなわち学力が及ばなかったのである。


 研究の道を断ち、残された俺の未来。それは『働く』以外、何も残されていなかった。


 人生の路頭に迷っていた俺は何かに導かれるように大阪駅の風の広場へと足を運んだ。暗くなって間もない優しい夜空の下、青く輝くぴちょんくんを横目に、大勢の人が行き交う駅を見た。様々な生き方があり、沢山の道がある。社会に出るというのはその道を選択するという事であり、そして恐らく何年もかけて自分の道を築いていくという事なのだろうか。


 ぴちょんくんのつぶらな瞳が俺の心の深い部分に触れる。風と共に


 今でも覚えている。俺はこの瞬間、涙を流すと共に就活への覚悟を決めたのだ。


 ぴちょん

 

 それからは全てが速かった。何も分からぬまま動き、そして失敗してはまた動き、それをひたすら繰り返した。


 面接は一体何社受けただろう?


 留年と大学での活動の無さが足を引っ張っていた事は間違いない。その中でも俺の準備不足が何より大苦戦の原因となっていた。特に面接時は緊張のせいで身体が若干くの字に曲がるという怪奇現象を引き起こしたり、頭が真っ白になったまま口をパクパクさせてしまったりと、波乱万丈な就活であった。


 中野さんも希望していた所に内定となり、俺は歓喜しながら、自分の状況に焦り始めてもいた。


 様々な葛藤と疲労感と緊張感に押しつぶされそうになりながら、もがいてもがいて走り回った。


『就活はしっかりと時間をかけてやりましょう』それは唯一俺が言える事である。なるべく苦しまずに就活するためにはそれしかないと思う。


 そしてなんとか、とある会社がどうしようもない俺を受け入れてくれた。


 奇天烈アパート事件の前の話である。

 これで俺も生きていく事はできるのだ。


 ただ、しっかりと卒業できればの話であるが……。


          ○


 俺は研究に関しては、ただひたすら無心に手足を動かし、アポロを動かし、パソコンの画面を凝視し続けた。


 謎の研究は続くが、なんとか


 先に述べたように、レポートや発表用に纏める事を極め始めた俺であったから、その成果あってか、黒岩先生も竹刀を持つ事は殆どなくなった。(たまにはブォンブォンと空を切っていたのだが……)


 そして家に中野さんが遊びに来た時、俺が提出用のレポートを作っていると、『なんか綺麗で見やすくて、すごく良いね』と言ってくれた。


 改めて自分のレポートを俯瞰的に見てみる。

 

 パワーポイントの表現力がビックリするほど発揮されている。一目でデータが分かりやすいように色付けされたグラフ。重要な事が記載され、パッと見た時に文字の偏りもなく読みやすい。自分で言うのも憚られるが、パワーポイントに関しては黒岩先生よりも遥かに芸術的かつ良心的だ。


 俺の卒業研究においての一番の考察は、“パワーポイントの上達具合を検証して、後に続く学生達にこの技術をどう引き継いでいくか”という事であろう。


 とまぁ、そんな事を書けるわけもなく、コツコツと卒論も進めながら年末年始を迎え、『新年明けましておめでとうございます』の直後から実験も始まり、遂に大トリといったところまで来た。


『よし!もうここまで来たら充分や。あとはしっかりこのデータを使って解析して論文書いて発表するのみ!さぁ頑張れよ!』


 黒岩先生のこの声が、俺と後藤の胸にどれだけこだました事だろう?


 研究室での実験は終わりを迎えて、いよいよ論文の発表へ向けて最終調整を始めた。


 全てのフィナーレ。俺の大学生活は実に長かった!(実際一年多かったのだが……)


 実に険しい道のりであった。初っ端から躓き、何もできない自分を嫌い、単位もポロポロとこぼしてきた。よく分からないまま環状線を彷徨った事もあった。それはまるで人生そのものに対しても彷徨っていたかのように。


 この大学地獄、決して自分の力だけでは乗り越えられるものではなかったのだ。沢山の出来事と共に、沢山の人達との出会いを果たし、様々な事件に巻き込まれながらも、大切な仲間がいてくれた。


 俺はここでかけがえのない宝物を手に入れたのである。


          ○


『…………以上で私の発表を終わります』


 ガチガチに緊張して噛みまくった論文発表は、科学の星の守護神のような教授達に鋭く睨まれながら、なんとか終えることができた。


 丁度俺の前に発表していた学生は、黒岩先生の揚げ足取りに引っかかり、とても苦い表情をしていたから、俺もかなりビクビクしていたのだが、無事に無傷で帰ってくることができた。なぜか一生分の運を使ったような気分なのは、なんとも納得がいかないが……。


 兎にも角にも俺の学生生活は終わった。論文発表の後、図書館で中野さんと二人、ゆっくりと日が沈むまで過ごした。


 真っ赤な夕焼け空。遠くには、黒い影を見せる六甲山が滲むような寂しさを垂れ流していた。


 そしてゆっくり明かりが灯っていく大阪の街。俺が見た大学からの最後の景色。全てが終わった。俺の……。


『これからも、もっと楽しいことがあるよ』


 中野さんの言葉は俺にとっての予言か、それとも道標なのか。


 大阪の街の光が目の前でぼやける。その瞳の周りでさりげなく反射しているのだろうか?


 中野さんの手が俺の頬に触れて、流れる雫を拭った。


『ああ、終わりというのは気持ちがいいなぁ』


 訳の分からない言葉を呟いて、二人暗い道を下っていくのであった。


          ○


『あれ?まだ来てないの?』


『……来てない』


 ちょ、ちょっと!来てないってどういうことやねん?!何が起こってんねん?!


 俺は、指が腱鞘炎になってしまうほど郵便ポストをチェックした。朝昼晩にとどまらず10分に一回は玄関の扉を開けてはチェックした!


 でも来てへん……。


 先程までの黄昏ムードはどこへ行ったのか??

 

 俺は鏡の前で、突然鳩の真似をしながら羽ばたいて見せるほど、焦りに焦りまくっていた。


『卒業要件もシラバスも徹底的に見た!俺の計画に狂いはなかったはずや!』


 しかし、俺のもとへ届く事はなかったのである。


 そう、卒業に関する案内が……。



 

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