31.感動のラジオ



『これが奇天烈アパートの全てやで、メンタル君』


 何も知らなかった。楽しく聴いていたラジオ小説にそんなバックグラウンドがあったなんて……。


 知育菓子をねりねりしながら聞いていた俺は、いつしか手がベトベトになるくらいまでこぼしていたが、俺はそんなことは気にせずいくつかの疑問を抱いていた。


『それでもさ、奇天烈アパートは二年近く続いてるやん!全ての糸が切れたって言ってたけど、書いてたんやろ?』


『書いてたよ。とりあえず、構想はしっかりとできてたから。それをなぞるように進めていっただけ』


『前見せてもらったプロットは最後まで完成しとった。結末を自分で書かないのはなんで?』


『あれじゃ足りないんよ。もっと楽しく終わりたい』


『じゃあ……』


『もう俺にはできない。いや、むしろこの小説を大好きな人に書いてもらいたいねん』


 俺の言葉を遮った一真の声は、少し大きく響いた。


 なんやねん、それ?

 ただの我儘やん。

 さっきの話聞いて、俺はどういう気持ちで書けばええねん。


 しばらくの沈黙の後、黒岩先生が言った。


『なんとなく分かったよ、一真君。それも一つ大きな決断やったんやな。今後君がこの決断をどう感じるかは誰にも分からん』


 そして俺の方へ向き直り、笑って言った。


『人生はホンマによくできてる。何も分からんまま歩んできて、ふと振り返ると、あの時のあの出来事はこの日の為にあったんだなと突然理解する事もある』


『はい……?』


『いつか分かるんじゃないかな?メンタル君も。君が奇天烈アパートを引き継いだ意味を』


『はぁ……』


 そういうもんかね?というか、俺の意向はまったくもって無視されてるけど、それについてはどう思われてます?とは、言えない空気だったので、俺は黙って頷いた。


 おいおい、俺はなんやかんやで書く気になっとったのに、色々引っかかる事を教えられた挙句、一真だけが一人スッキリしたような顔して、『あとは心おきなく任せられる』なんて言っちゃって、めちゃくちゃやんけ!


 そんな心の中の叫びはフラストレーションとなり、俺の頭は訳が分からないほど暴れ狂っていた。


 小説の話が終わり、黒岩先生と一真が昔を懐かしむように雑談を始めたので、俺は部屋を後にした。

 

『うおぉぉーー』


 “講義棟で走るな!”と、どこかの誰かさんが声を荒らげていたが、相対的にその音波が俺の移動速度に追いつけないという超自然現象により、俺は当然見向きもせず、華麗に講義棟を駆け抜けていった。


『一真!お前の小説やろ!なに中途半端な事してんねん!最後まで書いてまえや!』


 どんなルートで走ったのだろう?いつしか講義棟を飛び出し、大学構内の端っこの方にあるテニスグラウンドやサークル棟なんかも見たような覚えがある。あまりの速さに、マラソンコースを何周かグルグルと回ったのかもしれない。陸上部ですらこんなペースで走っていないだろう。


 そして、走る俺は一体どんな表情をしていたのだろう?すれ違った可愛らしいサークル集団から絶叫と悲鳴が聞こえたのは、何かの間違いだったと信じたい。四天王像のような表情だったかもしれない俺は、なるべく笑顔で走るよう心がけた。


『お、俺は……。一体俺はどこに向かっているのだろう?』


 息が切れて地面にダイブするように寝転んだ。仰向けになると、空は悲しい夕暮れの赤色をしていた。


 あぁ、儚い儚い……。


 ゆっくりと横に目をやった俺は、偶然にも図書館の目の前で倒れ込んだ事を知る。


『これは……、何が何でも俺に書けと言ってるんか?』


 少しの時間そのままの体勢でいると、横を通り過ぎる学生達の目線が痛いくらいに刺さってくるのを感じた。


 このままではいけないと、ふと我に返ったように立ち上がる。ハンガーを頭に装着すると自然に首が曲がるという不思議な現象と同じように、勝手に身体が図書館へと向かっていった。


 図書館内はテスト前かつ週末ということもあってか、いつもより多くの人がカウンター前に溜まっている。


 俺がずんずんと進んで階段を上がろうとすると、前方にいる人達が俺を避けるように左右に割れた。まるでモーゼの海割りのようなワンシーンであったが、そんな神がかったものではない。なぜなら、俺の服がボロボロになって、負のオーラと共に悪目立ちしていただけだったからだ。


 そんなになるまで俺は走っていたのかと思うと、なぜかとても気持ちが良かった。


 服なんか気にするなと、二階のテーブルで一息。そして、原稿用紙を広げる俺。


 もう何も考えない。気が済むまで書き続けた。


          ○


 この通り当時の俺は情緒不安定で、自分自身でも頭の中が整理できないような日々が続いた。


 それでも何かの運命なのか、俺は『奇天烈アパート』の続きを書くために毎日毎日考えては手を動かし続けた。


 そして、俺にとっての初原稿。

 これを慎二に渡す時は言い知れぬ緊張感に包まれたが、彼が読んだ後に発した言葉に気が和んだ。


『ありがとう、メンタル君。これは兄さんとは違うけど、奇天烈アパートを本当に好きな人が書いてるのが伝わる。君が引き受けてくれて本当に嬉しい』


 これはもう俺の物語なんだと言ってくれたように思った。


          ○


“さぁ!皆さんこんばんは!暇つぶしに最適な番組が始まるで〜”


 いつもと同じ始まりの合図。しかし、この日は全く違ったように聞こえた……。


 そう、俺の原稿が放送される日!


 慎二の収録も無事に済み、いよいよラジオから流れる俺の原稿。


 ソワソワして落ち着かない。


『まだかなぁ……』


 俺の横で、一緒に待ってくれているのは中野さんだ。俺が書いている事を知っているのは、当事者達と黒岩先生以外では中野さんだけだ。本当は駄目なのだろうが、秘密を抱え切れずに話してしまった。しかし自分勝手な行動とは分かりつつも、彼女の存在はとても心強い。


“ではでは、そろそろいつもの奇天烈いきましょか〜”


『あ!始まる!』


 俺はこの日を、ある種の運命の行き着いた地点だと感じていたが、この放送を聴いて、運命の始まりに過ぎないのだと悟った。


『俺の頭が、俺の手が生み出した物語が、ラジオから流れてる……!』


 俺はラジオの前で、ひたすら涙を流していた。


 こんなにも興奮し、痺れるものだとは思わなかったのだ。


          ○


『聴いたよ。ありがとう』


 俺が図書館で次の原稿を仕上げていると、一真が声を掛けてきた。


『いいや、こちらこそありがとう。小説書くのが、こんなにも楽しいものなんやと知った。そのきっかけをくれた。ほんまにありがとう!』


 一真は恥ずかしそうに笑う。


『そう思ってくれるのは、俺としても救われるよ。最高の作品にして欲しい』


『任せといてや』


 彼と交わした握手が、俺の決意の固さを表しているようだった。小説を書くという事がが、俺の人生において重要な位置に占めた瞬間である。


          ○


『メンタル君。君がどんな状況にいるかは充分理解してる』


 ブン、ブォン!

 黒岩先生の竹刀がしなる。


 夏も過ぎ、ギリギリではあるが前期の単位を無事取得した俺。五回生後期は研究メインで実験室にこもりっぱなしの生活だ。


『毎週原稿仕上げなあかんのは大変やろう。毎回慎二君と打ち合わせすんのも忙しいやろう。でもな!君は学生や!』


『は、はい』


 黒岩先生の声が鼓膜を限界まで震わせる。


『勉強、研究がメインやろ!ちゃんと卒業したいんやったら、ちゃんとやって来い!』


『うぅ……はい』


『ここの温度が低いから成長してないんや!それに最初の条件が悪いぞ。金属を何にすればええのか文献と照らし合わせて自分で考えて来い!ほんで、データの解析も並行して進めていかんと論文間に合わんぞ!分かってるか?!』


 前とは別人のような黒岩先生。

 まだ、もう少しだけ俺には地獄が待っているようだった……。



 

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