30.図書室



 俺は奇天烈アパートの一ファンとして、その黎明期を聞けた事が嬉しかったが、かなり混乱していた。


『どう?メンタル君。奇天烈アパートは黒岩先生と俺が始めた物語やねん。』


『いやぁ、なんかとても感慨深い……』と、とりあえず適当に答えたが、実際は驚きのあまり話についていけなかったのである。


 黒岩先生とのやりとりから生まれた物語って何なんやろ?

 黒岩先生については、ダースベイダーの印象しかなかったから驚愕の事実や……。


 というか、話の中にあった“庭にいたカップル”については、俺も断固として許さん!!!


 清廉潔白であるべき学生が、大学の隅にできた影を利用してコソコソと何をやっているのか?俺も留年をした身であるから、偉そうな事は何も言えないが、個人的にとても不愉快な出来事である。

 

 とはいえ、一真と黒岩先生の話を聞いて、奇天烈アパートの続きを書いていく俺としては、壮大なドラマの途中から参戦するエキストラのような気持ちで歯痒かった。


 でもさっきの話からすれば、なぜ一真は俺なんかに奇天烈アパートを譲ったのだろう?俺は恐る恐る聞いた。


『正直に言うとやっぱり気になるのが、なんで一真が書けなくなったのかっていうところやな。それは俺がこれから書いていくのにも繋がるし……』


 するとすかさず黒岩先生が突っ込んできた。


『メンタル君が書く?……それはどう言うことや?一真君』


 心配そうな表情で一真に尋ねる。


『俺……、小説書けなくなったんですよ』


『またあの時みたいに?』


『いえ、今は違います。むしろ真逆と言っても良いかもしれない』


『真逆……』


『小説を書きたかった理由が見つかったんです』


 そして一真は神妙な面持ちで話を続けた。


          ○


 長編を書き始めてからも一真と黒岩先生のやりとりは続けられた。


『今回はアパートが舞台か』


『はい。こうやってベンチに座ってる時もそうですし、講義を受けている時とか電車の中でも色々な事に出会います。印象に残った出来事とか人物を一つの物語に詰め込んでみようと思って……。それでみんなを住人にしてみました』


『そうかぁ。最近は楽しんで書いてるように見える』


『楽しいですから。それが今のところ理由なんですかね』


 うんうんと頷きながら、鎌倉にある長谷寺のお地蔵さまのような笑顔になる黒岩先生。ふと思い出したかのようにポケットから一枚の紙を出して、一真に見せた。


『これは……、ラジオ??』


『そう。ちょうど長編書こうとしてる君にぴったりやと思ってね』


 その紙は、ラジオ小説コンテストの応募詳細だった。


『でも、これだと原稿を送るのではなくて、声を入れたものじゃないと駄目みたいですよ』


 他人事のように笑っている一真に、黒岩先生はさらなる満面の笑みで返した。


『一人いるやん!君の話にちょくちょく出てきた、アニメが大好きな弟の……名前はなんやっけ?』


『慎二……』


“あれ?今、一瞬頭をよぎったあの景色……”


 一真は雨の景色を見た。しかし、それが何処なのかは分からなかった。


『とりあえず慎二君にお願いしてみたら?彼は声の仕事にも興味あるんやろ?』


『そう言ってますけど、そんないきなり……。俺だって書けるかどうか?』


『先に動く方が賢明やと思うで。コンテストで大賞取れば、ラジオで連載できるから面白そうやしね』


『そんな簡単に言って……』


『簡単じゃないからこそ、軽く考えるんやで。人生ってのは』


 半ば黒岩先生の意向ではあるが、一真はコンテストに向けて奇天烈アパートを書いていく事にしたのであった。


          ○


『なぁ、慎二?』


『うん?何?』


 無事に一真と同じ大学に入学した慎二は、一回生の前期だというのにも関わらず、恐ろしい形相でシラバスを見つめている。


『シラバスそんな見つめても単位取れへんぞ』


『でもシラバスってのはさぁ、単位取得という名の宝の地図やろ?先輩がそうやって言ってたで!』


『いいや、そんな大それた物じゃないよシラバスは。留年学生にとってはバイブルかもしれんけど……』


『でもこれがないと始まらない』


『完全にシラバス信者やな……』


 そう言って、シラバスから目を離さない慎二にコンテストの案内を無理矢理見せた。


『何これ?』


『とある教授から教えてもらったコンテスト。大賞取れればラジオで連載やってさ』


 慎二は面白そうに案内を読んでいる。


『それで……、慎二の声で応募してみたい』


『え?俺の声??』


『うん。やってくれるか?』


 目は見開いているが、口元が笑っている慎二はとても分かりやすい。


 その時……。


“あ、またこの景色や……。これは雨の……図書室?”


 また一真の頭をよぎった雨の景色。そこは小学校の図書室であった。


“なんでそんな景色を思い出すんやろ?”


 そんな事をぼんやり考えていると、慎二が話しかけてきた。


『兄さん、ほんまにありがとう。まさか覚えてたなんて……』


『覚えてたって、何を?』


 ニヤニヤ笑って慎二が立ち上がった。


『いやいや大丈夫。とりあえず、これは是非やらしてもらいます。またどんなスケジュールでやるか詳細教えて』


『……おう、ありがとう慎二』


“俺は何を覚えていたのか?

いや、何を忘れてしまっているのだろう?”


          ○


 いつものベンチに一真の姿はなくなった。


 しかしその分、一真は黒岩先生の教授室に訪ねる事が多くなった。


『とりあえず声に関しては慎二にお願いする事にしました』


『よかったな、相棒が見つかって。小説はどうや?』


『手直しして、だいぶ仕上がってきました。もし良ければ読んでくれませんか?』


『じゃあ読ましてもらおうかな』


 今までと違うのは明らかだった。何が違うのかと問われれば、答えられそうにないような目に見えないところにおいて。


 それはそうと何気ない日常に刺激があるのは、一真にとって嬉しい事だった。


 この時、“おそらく無理だろう”と弱気になってはいたが、目標が一つある事で、一番充実していた時期だったのかもしれない。


          ○


『せ、先生!!!』


 ドアを蹴飛ばすような勢いで教授室に入ってきた一真を見て、コーヒーを机に溢してしまった黒岩先生。


『ビックリするやろ。ノックくらいしなさい』


『ごめんなさい!で、でもこれ見てください!』


 そう言って一真はスマホの画面を見せた。

 そこには赤い文字でコンテストの結果通知が記されてあった。


『連載……決定!!』


『そ、そうなんです!』


『やったやんか!一真君!おめでとう!!』


 泣いて喜ぶ一真と、幸せを噛み締める黒岩先生。


『あ、先生!これ来週のラジオで作品が流れるんですけど、それまでは内緒ですよ!』


『分かった。でもそうなんやったら僕にも言ったらあかんで』


『黒岩先生やから伝えたかったんです。単なるワガママですけど』

 

 まぁ来週楽しみにしていてくださいね!と言いながら、嵐のように去っていった一真を黒岩先生は笑って見送った。


          ○


 リスナーの少ないラジオ番組。その地域の人も知らない人が多いようなマイナーな番組ではあるから、一体どれくらいの応募があったのかは分からないが、見事に連載を勝ち取った一真は、その初回放送を期待半分、緊張半分で待った。


 慎二とともに黒岩先生の教授室で、小さなラジオの前にじっと座っていた。彼ら自身ここまでラジオに興味を持った事はなかったから、注意深く耳を傾けた。


 コンテストに応募した音源がそのまま用いられる。一真の物語が慎二の声で語られる。


『お、いよいよやな』


 黒岩先生の声の後、番組のオープニングを飾るビーチボーイズ版のCome Go With Meが軽快に流れる。


“さぁ!皆さんこんばんは!暇つぶしに最適な番組が始まるで〜”


 DJの人も軽快に進行していく。

 教授室の薄暗い雰囲気と比べると、やけに明るい番組だが、息を呑んで聴き続ける三人はその違和感さえも気付かない。


“それではここで、ラジオ小説新連載です!”


『来たっ!』


 三人が顔を見合わせた。


“この小説は見事コンテストで大賞を獲りました。僕もさっき聴かせてもらったんやけど、これは続きが気になりますねぇ〜”


 恥ずかしさか、何なのか。一真の胸が冷たく痛む。しかし、今までにない高揚感も抱いている。


“それではお聴きください。奇天烈アパートです!”



          ○



 あっという間だった。


 緊張とか、感動とか、色んな感情がひしめき合いながら整理できずに終わった。


 自分の物語がラジオから流れる。慎二の声。そしてそれを聴いている人がきっといる。


 しかし、それ以上に一真の頭を支配していたのは別のことであった。


 またあの図書室。小学生の頃の思い出。


 そして彼は気付いたのである。

 小説を書こうとしていた理由を。


          ○


『兄ちゃん!誰もいないねぇ』


『慎二と俺だけの図書室や』


 日の入りまではまだまだだというのに、外は薄暗い。空には分厚い雲が覆い被さり、雨が鬱陶しく降り続いている。


 小学校の図書室。幼い頃の平田兄弟が退屈な天気の中で、唯一楽しんでいた空間だった。


『これはどう?大きい犬と小さい犬の話』


『かわいいね!それ読む!』


 二人がやっていた遊びは、慎二が一真に絵本を読み聞かせるというものだった。


『……どうやった?』


『面白かった』


 慎二は話を聞いてもらうのがとても好きだったし、一真もそんな慎二を見ているのが好きだった。


 しかし……。


『あれ?もうこれってさぁ、全部読んじゃったんじゃない?』


『あ、ほんまや……』


 気がつけば、全ての絵本を読破してしまっていた。


『どうしよう?』


『そうやなぁ、慎二は何が読みたい?学校の要望の紙に書いて提出しよか』


 この学校は要望が通れば、新しい本を発注してくれる。一真はその紙を持って来たが、慎二が笑って言った。


『うーん。俺は兄ちゃんの本が読みたい』


『俺の?』


『うん。いつも夜に、自分で作ったお話を聴かせてくれるやん』


『あれは……適当な物語というか……』


 慎二がまた、にたぁと笑った。


『じゃあ、いつかしっかりとした物語を作ってよ!俺が読むからさ』


『俺が作ったのに、俺に聴かせるの?』


『いいやん!読みたい読みたい!』


『わかったわかった。いつかね……』


          ○


      “あぁ、思い出した”


 彼が小説を書こうとしたのは、これがきっかけなのだ。


 忘れていくうちに、“書きたい”、“書かないと”、という思いだけが残って全然気が付かなかった。


“俺は、慎二に読んでもらうために書いていたのだ”


 理由が分かった時、全ての糸が切れた。


 来週から連載の収録も始まるというのに、彼は頂上から降りていく登山者のような顔つきだ。


 小説が書けないという程ではないにしろ、熱意は完全に冷め切ってしまった。


『もう惰性だ』


 そして彼が黒岩先生の元へ通ったのは、この日が最後だった……。


          ○


 彼はつまり、小説を書く理由を探すために小説を書いていたに過ぎない。

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