29.書く理由
『メンタル君、この後平田一真君と会うんやけど、君もどう?』
『は、はい……行きます!』
よく分からない展開に俺は半分適当に答えた。
おいおい、一真とダースベイダーはどういう関係なんや?変な所に足突っ込んでしまった気分……。
スタスタ進む先生に続いて廊下を歩く。実験の白衣は見事なまでに白い。ワイドハイターEXを使っているほどに白い。それにも関わらず漆黒のマントに見えるのは、先生のコーホーコーホーのせいであろう。
『よし、入って』
案内された教授室。狭い空間の中に渋いソファが置いてある。そしてそこに座っている男……。
『やぁ、足音でメンタル君が来るのは分かったよ』
平田一真だ。
彼が美味しそうに頬張っているのは、タレたっぷりのみたらし団子。そしていかにも本格感溢れるお茶。絶対に宇治のものだと直感的に思った。
ソファに座るとテーブルの上に置かれたいくつかのお菓子。
『なんでも好きなの取って』と先生が言うので、俺はねりねり系の知育菓子を選んだ。これを買ってきた先生はなかなかセンスが良いな……。と思っていた矢先に水道がない事に気づき、仕方なく実験で用いるイオン交換水を使ったら、物凄い速さで竹刀が飛んできたので俺は肩身の狭い思いでねりねりする羽目になった。
『メンタル君も一緒に連れてきた。奇天烈アパートの原稿を持ってたからや。何かしら深い訳があるんか、一真君?』
『あります。ただ、メンタル君の頭の中は、おそらく俺らの関係についての疑問でいっぱいだと思うので、そこから話しませんか?』
二人が俺を見る。
実際俺の頭の中は、水が足りなくて少しザラザラしてしまった知育菓子の事でいっぱいだったのだが、とりあえず頷いた。
『それにメンタル君にはしっかりと聞いていて欲しい事でもあるし……』
そして二人は思い出を話し始める。
○
『あ、君!これ落としたよ』
『あ……ありがとうございます』
そう言いながら落とした原稿用紙を受け取る男の目は力なく澱んでいた。
『君は小説を書いてるんやね』
『は……はい』
『昔は僕も書いてたよ。取り留めのない、めちゃくちゃな物語やったけど、楽しかったなぁ』
『はぁ……』
原稿用紙を拾ってはくれたものの、興味のない話を聞かされて、男は無礼にもうんざりとした表情で相槌を打った。目の前の男はこの大学の教授であろうか?
『パッと見た感じ、文章力はしっかりとしてる。でも、こんな事言っちゃあダメかもしれへんけど、君は苦しそうやね』
『…………』
男は何も言えなかった。
『なんで君は小説を書いてる?』
『なんで俺は小説を書いてる……?』
ぼうっと同じ言葉を繰り返す。
言葉が頭の中で反響する。
一体何の為に小説を書いているんだろう?
図書館の中はやけに静かで、二人の他には誰もいない。
『答えなんかないよ。自分だけの価値を見出せればいいんやと思う』
そう言いながら教授らしき男は笑った。そしてゆっくりと去っていこうとしたが、突然思い出したように振り返り、騒音にならない程度の声で尋ねた。
『君の名前は?』
『平田……、一真です』
夜も近く、外は暗い。大きな窓に寂しく映る一真の顔は、意思なき人間のモデルのように霞んでいた。
○
『兄さん、俺も一緒の大学に行くよ』
慎二が夜遅くまで勉強しているのは珍しい光景である。彼もそろそろ受験だが、一真はそれが何となく可笑しく思えた。自分も一年前、こんなに必死に勉強していたのかな?そんな事を考えながら、原稿用紙に目を落とす。
『俺はこの小説をなんで書こうと思ったんだろう?』
『小説?』
『……あ、ごめん。口に出てた?』
『淡々と呟いてたで』
慎二は笑いながら後ろを振り返る。
『ごめんごめん、邪魔してしまって』
『いいや、良いんやけどさ』
一真の目をじっと見つめながら、少し真面目な表情で慎二が続ける。
『でも、兄さんが小説を書く理由って……』
『理由って?』
二人の間で揺れる空気が分かるほど、一瞬ではあるが底のない静寂がよぎった。
『う〜ん、分からへんなぁ』
『なんやそれ!』
さっ、受験生は勉強に集中!集中!と言いながら一真は再び原稿用紙に目を戻す。しかし、先程の慎二の言葉が引っかかり、自分は全く集中できないでいた。
なんなんやろ?小説を書く理由。
一真は悩み続ける。
○
図書館の中で、真っ白な原稿用紙をひたすら見つめ続ける一真は頭を抱えていた。
目の前にあるのは自由。空白には思いついた文字を何でも入れ込んでいけばいい。しかし無情にもその澱みのない白さこそ、不安になってしまう原因だった。
きっかけがあれば書けるのだろうか?
そんな淡い期待を抱いて、一真は図書館のあらゆる本を読み漁った。頭が痛くなるような難しい本も、睡魔が襲ってくるような興味のない本も、なんでも目についたものを手に取っていった。
まるで自分の思い出か、読書による体験か、どちらなのか判断できないほどに彼の頭は様々な物語で埋め尽くされる。
何かを手にしたような気分。
本の中に散りばめられた、あらゆるきっかけを蓄えていく。
そして見える景色は明らかに変わっていく。通り過ぎる人も、風に揺れる外の景色も何もかも。一真の目は光を湛え、輝き始めた。今までのつまらない世界を新しいものと思えるくらいに…………。
『でも……。書けない』
原稿用紙と対峙すると、彼の世界は真っ白で孤独なところへと一気に収束する。何かを書こうとすると、どれもつまらなく感じてしまい、全く頭が回らなかった。
そして遂に彼は諦めたのである。
○
『君はこの前の……小説書いてた……』
『平田です』
『そうやった、そうやった!平田一真君やね』
図書館の机でぼうっと原稿用紙を眺めていた一真に声をかけたのは、以前と同じ服装の教授らしき男であった。
『小説は……』と言いながら、ゆっくりと机の上を覗く男。
『なかなか行き詰まってそうやなぁ』
『…………全く書けないんです』
一真の掠れた声が、やけに大きく響いたのが不気味だった。
『前まで少しずつ書いていたのに突然書けなくなったんです。何が書きたかったんだろう?ストーリー自体も、テーマさえもわからないんです。もう何も思いつかないんです』
そう言うと一真は、無意識ではあるだろうが、大きなため息をついた。それを見て男は一真の向かいに座り、彼の目をじっと見つめながら喋り始めた。
『じゃあやめればいいんじゃない?だって、誰かにやらされてるもんでもないんやから』
『でも…………』
『無理してやる事じゃない。ずっと探しても何もなかったんやろ?小説を書く理由は』
『はい…………』
『リラックスして自分が書ける時、いや、書きたい理由が見つかった時に書けばいいんじゃないかな?』
『あの……、あなたの名前は?』
『僕の名前は黒岩。この大学の物理学科の教授やってる』
この二人の妙な関係はこの日から始まったのであった。
○
一真は必死に書こうとする事や、小説を書く意味の探求をきっぱりとやめた。
そして図書館へ行く事もなくなった。それまで何に取り憑かれていたのだろうか、完全に冷え切っていた魂がゆっくりと温まっていくのを感じ始めていた。
『原稿用紙……、捨てちゃおうか』
書きかけの小説。書いた本人でさえ魅力を感じなくなった抜け殻のような作品。全てをリセットする為に破り捨てた。
一真は大学の端の方にある庭のベンチで何をするでもなく、ただじっと物思いにふけるのが習慣になった。鳥の数を数えたり、雲の追いかけっこを観戦したり、たまに来る学生カップルの幸せ過ぎる会話に心の中で突っ込んだりと、長閑な生活を送っていた。
そしてそこには頻繁に黒岩教授が来てくれた。一真の横に腰掛け、なんでもない話を延々としてくれる。
『黒岩先生、呼吸音がコーホーコーホーとダースベイダーに似てますね』
『しかし実際のところ、君こそアナキンのように内なる力の使い方で悩んでいるように見える』
くだらない事でも返してくれる黒岩先生に親近感を抱いていた一真は、相手が教授である事も忘れて、よく話し込んでしまう事もしょっちゅうだった。
『書く理由、見つかった?』
『いいえ、もう小説とは距離を置きました』
『まぁそれもいい事や』
実際彼の頭から小説の事はすっかりと抜けてしまっていた。何故あんなにも執着していたのか?まるで数年前のことを思い出すかのような遠い記憶としてしか残っていない。
しかし、一真の小説はこの頃から徐々に動き始めていたのであった。
○
『あそこでカップルがキスしていたんですよ。この前、日も落ちてそこの古い電灯がチカチカ光り始めた頃です』
一真のそんな言葉に、『へぇ〜』と興味あるのか無いのか微妙な相槌を打つ黒岩先生はそのみすぼらしい電灯をじっと見つめていた。
『何回も何回も唇を重ねて。彼らは誰もいないと思ったんでしょうかね?いや、まぁ俺もそんなに暗くなるまで一人でこんな所に居たのは悪かったのかもしれませんよ?』
開き直った少年のようにペラペラと一真の口が止まらない。
『でもやっぱり俺の方が先にいた訳ですから。俺の方がこの庭の主導権を握っていた訳ですから。もうこれ以上の事をされると気まずいなぁと思ったんで、咳払いをしたんですよ。ほんじゃあ、物凄い俺の事睨みつけて去って行ったんですけど、どう思います?この風紀の乱れた大学!』
『いやいや、彼らは至って健全や。場所は多少問題があったとしても、君が気を利かせて優しさをもって、静かに消えてあげる方が良かったんじゃないか?』
『それ教授が言っちゃって良いんですか!?こんな場所で、めちゃくちゃ不健全ですよ!俺はこの大学の至る所にカメラを配備して、あらゆるカップルを徹底的に監視する事を希望します!』
グッと手を握り、力こぶを見せて一真が言った。
『単なる一真君の僻みやんか。カップルに対するその野心は一体どこから湧くんや』
そう言いながら、黒岩先生は続けた。
『カメラなんか付けて、学生の行動を過剰に規制してしまったら、それこそこの大学はつまらん物になるよ』
『でも模範的な学生生活が送れそうじゃないですか?まぁこんな俺が言うのもなんですけど……』
『でも、この大学から貴重な物語が減っちゃうんや』
黒岩先生は笑っているが、しきりに顎を触っている。これは一真がこのベンチで先生と喋るようになってから気づいた彼の特徴の一つで、そのサインは真面目な話をしている時に出るものだった。
『これは別に小説を書くという事についてじゃないんやけど……。人生を彩るものっていうのは様々な物語なのかなって僕は思う。それは自分の中で上手く自発的に生まれてくるものもそうやけど、全ての源は自分が見たもの触れたものや。そこからさらに形作られる物語に人は動かされ、連鎖が起こる』
一真は静かに黒岩先生の目を見る。
『例えば、今のカップルの話でもいいから書いてみたらどう?別に理由なんかいらないし、ましてや完成度だって求めなくていい。初めて会った時にも言ったかもしれへんけど小説を書く理由に答えなんてないし、書いていて突然見つかる事もあるんやから』
日が眩しいのか、黒岩先生は少し目を細めた。
『これはしがない僕の提案。“書くのをやめたら?”と言ったのも僕やから、矛盾してばかりやけど、君を見てたら書けそうな気がしたんや。そして書く理由も見つかる気がする』
そこから二人の交換日記ならぬ、交換小説が始まった。
○
一真の書いてきた小説に、黒岩先生の感想をつける。これを繰り返した。何度も何度も繰り返した。
起こった出来事を膨らまして創作して、自分の物語にする。探し物は忘れた頃に見つかるのと同じで、書こう書こうと躍起になっていないからこそ書ける。楽しんでいるからこそ書ける。
そして、読んでくれる人がいるのも嬉しかった。いつも先生の評価を楽しみにして、一真はひたすら書き続けた。
短い物語を何作も作り、書くという行為が習慣化してきた頃に、先生に思い切って打ち明けた。
『次は長編を書いてみようと思います』
これこそが、“奇天烈アパート”の始まりである。
そして一真はとうとう“小説を書く理由”に気づくのであった。
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