27.談話室の密会




 今振り返れば、あの瞬間こそが俺の人生を大きく動かしたのではないだろうか?


 本棚に化けていた男を取り押さえる俺。そして、そこに駆け寄って来たボイジャー2号。何も分からずにポカンと口を開けていた俺はどれほどのアホ面を晒していたのだろうか。


 この通り意味不明な組み合わせではあったが、まるで当時の大学の三賢人と呼んでも過言ではないくらいに俺達は何かに導かれて出会ったのだと思う。すなわち、俺の人生において“ある道”を示してくれた重要な出来事だったのだ。


 だからこそ、あれは偶然ではなく必然だったと思えてならない。


          ○


 俺の目の前には、懐かしの男の姿。ボイジャー2号と勝手に名付けさせて頂いたが、その甲斐あってか、久しぶりに見た彼の姿にも親近感を抱いた。ニックネームというのはこういう意味においても影響力があるのだなぁと感心した。


 いや、ゆったりと感心なんぞしている場合ではないのだ。全くもって状況が飲み込めない。古典で言えば、“係り結び”に初めて出会った時のような戸惑い。


『兄さん、ごめん。色々アクシデントがあってさ……。このザマや』


 俺の下で取り押さえられていた本棚男が弱った声で吐き出した。


『ごめんな、大変な思いさせて。でも、ここからは俺の仕事や。ありがとう』とボイジャー2号が応える。


 おいおいおい!

 一番迷惑してんの俺なんやけど!

 訳も分からず尾行されて、怖い思いしてんの俺なんやけど!


 込み上げる怒りをグッと堪えて、俺は恐る恐る聞いた。


『あのさ……、君達は一体何してるん?』


 すると、ボイジャー2号の方がこちらに目を向ける。


『メンタル弱男君、はじめまして。俺は平田一真という者です。そしてこちらが弟の慎二です』


 そう言いながら一真は本棚男を紹介した。俺の手から離れて立ち上がった慎二が恥ずかしそうに会釈する。“あ!本が落ちる!”と思ってしまう程、彼が着ているスーツは本棚に上手く化けている。だからこそ動くととても気持ちが悪い。


『メンタル君にちょっと話があってね』


 一真がゆっくりと歩き出す。慎二も後に続いた。


『どこ行くん?』


 俺がそう尋ねると、“談話室に行こうか”と一真が返した。


『俺らの計画。その全てが始まった場所やから……』


 意味深なセリフを口にして、不敵な笑みを浮かべる一真を横目に見ながら、俺は一歩足を踏み出す毎に言い知れぬ恐怖を感じていた。

 

          ○


『まずはメンタル君に返しとかないといけない物がある』


 談話室の席に座るなり、ポケットから何かを取り出した一真。何やら白い……。


『あ!!俺のボイスレコーダー!!』


 彼の手にあったのは紛れもなく俺のボイスレコーダーだった。愛用していた懐かしのフォルム。『どこに行っていたんだよー』という再会の喜びと、『ごめんなさい!』という失くした事に対する懺悔を頭の中で繰り返している内に、一真がそれを持っていた事に対する疑念がどんどん湧き上がって来た。


『なんで君が持ってんの?それは確か……』


『これは談話室で拾った。一年程前かな』


 俺が“談話室の戦い”をしたあの後、彼らによって回収されていたのだ。


『落とした俺が一番悪いのは分かってるけど、なんで大学の事務所に届けてくれへんかったん?』


『いや、もちろん届けようと思ったよ。俺の手元にあってもしゃあないからね』


 そう言いながら、一真はボイスレコーダーをじっと見つめる。


『でも、ほんの出来心やった。本当はそれ自体に何の興味も無いのに、覗き込みたくなるあの心理。自らの奥底に眠る好奇心を抑える事は出来なかった。ごめんやけど、聞いてしまったんや』


 聞いてしまった?

 何を言うとんねん。


『役に立つような、大したものは入ってなかったやろ?プライバシーに関わるようなものも』


 俺は少し強い口調で問い詰めた。正直、彼の勿体ぶるような態度が気に入らなかったのである。


 しかし、一真は思いがけない言葉を言い放った。


『拾ったのが他の人だったら何の役にも立たなかったと思う。でも拾ったのは俺達や。俺達が拾ったのは紛れもなく運命やったんや』


『運命って……?』


『俺やねん』


 そう言って一真は微かに笑みを浮かべながら、自分自身を指さした。


『小説“奇天烈アパート”を書いてる“逢坂コスモ”は俺なんよ』


 この瞬間、何かが頭の中で光った気がした。


          ○


 逢坂コスモ先生は、その素性を明かしてはいなかった。年齢も性別も分からないまま、そして誰も明らかにしようとはしなかった。ただ、セリフのところでかなり目立つ関西弁から“恐らく出身は関西圏であろう”という予測をしていた俺は、深い黒色に包まれた逢坂先生のシルエットの向こう側を密かに追い求めていたのである。


 地方局のラジオ小説という事もあり、なかなか世間的に有名になる事はなかったが、ごく少数のコアなファンがいる。俺はその中の一人であり、人生を彩る大事なピースとして“奇天烈アパート”をしっかりと聞いてきた。


 その果てにあるのが、こんな出会いだとは思いもしなかった。


『あんたが……、逢坂コスモ先生……?』


『そうやで。ちなみに世間がパニックになるなんて事はまず無いけど、言わんといてな』


 まばたきも忘れて呆然とする俺に一真は追い討ちをかけるように続ける。


『あれだけ録音してくれてるから何となく気づいたかも知れへんけど、朗読の声は慎二やで』


 慎二。横にいる本棚男。


 やはり先程の声、『聞いたことがあるな』と感じたのは間違いではなかったのだろうか?


 彼等は何を言っているのだろう?まだ本当の事を言っているとは思えなかった。


 横では頭を掻きながら本棚が照れている。めちゃくちゃ気持ち悪い。いい加減この日本文学コーナーを模したスーツを脱いで欲しい。


『証拠は?君らが“奇天烈アパート”を作ってるっていうのを証明してくれ』


『いいよ』


 一真がカバンを漁ってファイルを取り出した。そして一枚の紙を見せてくる。


『これはまだ未発表のもの。来週用の原稿やで。これが逢坂コスモによる文章やというのはメンタル君なら分かるはずやと思う。あれだけ熱心に聞いてくれてたなら』


 目に入ってくる文章、そして言葉一つ一つが頭の中で宙を舞うように巡る。イメージとイメージが混ざり合い、重なり合い、立体的なものへと作り上げられていく。次第にいつもの奇天烈アパートの情景が浮かんだ。


 あぁ、これは本物だ。

 そう察するまでに時間はかからなかった。なぜなら、体の隅々まで行き渡る感動の余韻が心地良かったからである。


 本物の原稿は本人もしくはその関係者しか持つことができないから、演繹法的に見て、目の前にいる一真が逢坂コスモ先生であることが分かった。


『本当に、逢坂先生……』


 同じ大学の同じ図書館にいたあのボイジャー2号が、俺の大好きな小説を生み出していたなんて……。


 俺は感極まり、涙を流した。


『お、おい……!どうした?!泣かんといてや』


『でも……、なんか嬉しいのか苦しいのか、胸の奥が冷たい』


 俺は自分がどういう感情でこの出会いを捉えているのか分からなかった。ただ、感動していたのは間違いない。


『そこまで思い入れがあったのなら俺らも嬉しいけど……。でもな、まだ本題に入ってないねん』


『……うぅ。本題……?』


『そう、本題。もう……、俺は限界や。突っ走って来たけど、とうとう力尽きてしまった』


 彼が言う力。それが小説を書く力の事なのだと、直感的に分かった。


 ラジオ内で放送される彼等の作品。初期の頃はコンスタントに新しいエピソードを発表していた。その勢いはまるで物語の神か悪魔に取り憑かれたかのような、狂気とも呼べるものだった。


 しかし最近は、ラジオ小説の休みが多くなっていた。心配する声もリスナーから上がり、新しいエピソードにも軽快な流れと起爆剤のような展開は見られなくなっていた。まるで魂が消えかかっているかのように。


『もう書けない。そう思ってからは自分の中の何かをすり潰しながら、何とか文章を繋いできた。やけど、もうそれも終わりや。来週分でストックも底をついた』


『じゃあ……、もう終わってしまう?奇天烈アパートは終わってしまう??』


 俺の言葉は虚しい談話室の片隅へと逃げるように沈んでいく。しかし、一真の目が小さな光を宿しているのを見た。そして……。


『もう単刀直入に言おう、メンタル君!俺は君に書いて欲しいんや』


『……え??』


『“奇天烈アパート”を書いて欲しいねん。これから君に』


 唐突な彼の提案によって俺の脳は震え、体中痺れるような刺激が走った。


『俺が……書く……』


 ゴールが見えていた大学地獄。

 なのに、まだ俺を試すというのだろうか?


 一真はすかさず聞いてくる。


『さあ、どうかな?書いてくれる?』


 そして……。

 俺の新たな世界が始まろうとしていた。

 





 

 


 

 



 


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