26.ボイジャー




『図書館には数え切れない程多くの世界が眠っている。ずらりと並んだ背表紙。それらが語りかけてくる物語のイメージに、仰望とも畏れともとれる予感を抱いた私は、まだ図書館という宇宙の片鱗しか覗いていないのであろう』


 俺がこよなく愛する“奇天烈アパート”の著者、“逢坂コスモ”先生の言葉である。


 この言葉を胸に、俺は図書館の中をたった一人で冒険してきた。やはり逢坂コスモ先生の言う通り、図書館というのは果てのない宇宙に似て、どこまでも広がっていくような錯覚を起こさせる。絶え間なく新しい本が入ってくる事も相まって、一年多く大学に通ったはずの俺でも当然の如く、全てを読み切ることは不可能だ。


 それでも、この大学図書館にとってのボイジャー1号となれるよう、俺はひたすら図書館へと通った。


 あまり興味のない分野の本でも不思議と読んでいくうちにハマってしまったり、また逆に楽しかったものが退屈に思えたり、様々な発見をしてきた。そして自分の頭の中の本棚は、いつしか色とりどりの知恵が無造作に並べられていて、その景色を何もない単調な毎日に投影しては、少し自分が成長したような思いに身を委ねたりした。


 そんな俺の読書人生。孤独な旅の記録。


 しかしそこにはもう一人登場人物がいる。一人きりの旅であった事は間違いないが、語らずにはいられない男がいる。


 いつも二階の同じ席に座って、黙々と本を読み漁る男。喋った事もなければ、学年も学科も知らない。しかし、本に対する情熱というのか執念というのか、恐ろしい集中力はひしひしと伝わってきた。


 彼は視覚的には確かに存在している。しかし周りの誰とも関わる事はなく、むしろ関わってはいけないような雰囲気を放っているので、誰も彼の存在を証明できないかのような神秘性を帯びており、俺はその後ろ姿が何となく心地良かった。


 彼と俺とは言わば、ボイジャー1号と2号、とでもいうべき関係なのかもしれない。当然俺が1号で彼が2号。いや、もちろん俺が勝手にそう思っているだけなのだから少し恥ずかしいが、彼を他人事のようには見れなかったのである。


 しかし、あれはいつ頃だったろうか?彼は知らないうちに、はたと姿を見せなくなってしまった。


 卒業したのかな?とぼんやり思いながら、心の一部が欠け落ちたように虚しくなった。


 “彼が何者だったのか”という想いは、図書館の中で彷徨い続けていた……。


          ○


『俺すげぇぞ!めっちゃ余裕や!絶対いける!』


 前期の締めのテスト。授業内容も試験内容も何もかも分からぬまま必死にもがいていた一回生の頃の自分が、同一人物とは思えない程の成長ぶり。並ぶ数式を見て、宇宙人と交信するツールのように思えたかつての自分が愛らしい。


 俺は夏の青空を窓越しに見上げて伸びをした。


 図書館でテスト対策の総仕上げをしながら演習問題を全問正答していく快感が体中を震わせていく。


 そんな時だった。後ろに何かの気配を感じたのは……。


 すぅと冷たい風が首筋をなぞるような感覚。鋭くも静かな視線が俺を捉えていると直感的に分かった。


『誰や?誰なんや?最近俺を尾けてんのは』


 辺りを見まわしてみる。誰もいない。


 俺は恐る恐る席を立ち、“ダルマさんが転んだ”の要領で素早く振り返ってみたり、トイレに行くフリをして素早く振り返ってみたりしたが、結局一人で変な行動をしてしまっただけで、何も分からなかった。


『やっぱり最近おかしいぞ……。前に食堂で見た、あの緑のスーツ人間なんかな?』


 そう言いながら、牽制の意味も込めて図書館内をぐるぐると歩いてみることにした。まるで身体中を巡る血液の、体循環と肺循環を再現するかのように隈なく歩いた。毛細血管のように入り組んだ返却本コーナーもチェックし、肺のような入荷窓口も確認した。そうすれば怪しい人物が隠れているのを見つけられるか、慌てて逃げ出すか、どちらかだろうと思ったのだ。


 しかし、なかなか見つからない。全く分からない。


『くそぉ……。まだ視線は感じんのに、場所が分からんどころか、方向さえも分からへん。どんな技術使っとんねん』


 頭を悩ませながら諦めて席に着こうとした時、少し離れたところから女性の悲鳴が聞こえた。


『きゃああぁ!!こ、怖い!!』


 どこや!?と咄嗟に振り向くと、どうやら日本文学コーナーの方でドタバタと慌てた動きがある。


 なんや、なんや?

 吸い寄せられるように、俺は駆けて行った。


 すると到着したと同時に、気持ち良く響く“バチン!”という音。


 手前にいる女性が高校野球の投手のように全力で腕をしならせたのが見えた。


 そして倒れゆく…………。

 何だろう……?これは……、人?


 先程の“怖い”と言っていた女性は何処へやら、無言で去っていくその姿は逞しく、完全なる勝利を噛み締めた表情を浮かべていたのであった。


 さてさて、この思いっきり平手で打たれた人間のような物体は何であろうか?


 縞々模様に彩られた表皮を持ち、その色は暗めのものが多く、なんとも不気味な見た目である。人間の形をしているが、顔のパーツが無い、のっぺらぼうのようなフォルム。どことなく昔のマネキンのような冷酷さを湛えている。


『痛ててて…………』


 起き上がると同時に頭を掻きながら立ち上がった。身長はほぼ同じくらい。全身を意味不明なスーツで纏ったコイツは一体何者や?


『あの……、大丈夫ですか?というか何してるんですか?』


 変態的な教授、もしくは一般利用者の可能性も考えられたので、失礼のないように丁寧な口調で問うた。


『あっ……、い、いやっ……』


 明らかに動揺するコイツ。そんな姿を見て、二つ気が付いた事がある。


 一つは男性である事。声で分かった。

 しかし、とても綺麗で深みのあるその声は、どこかで聞いた覚えがあるような……。いまいち思い出せない。


 そしてもう一つ。コイツのスーツの模様が背後にある本棚と全く同じだという事。一瞬コイツが消えたように思えたのは、このスーツが保護色として作用したのであろう。


『……メ、メンタル弱男……』


 えっ???


 不意に俺の名前を口にしたこの男。


『なんで俺の名前を?』


 頭の中で慌てて考える。


 待てよ……。コイツは本棚に紛れていた。なんのために?隠れていたって事は誰かを尾けていたのか?


 相変わらず目の前の男はモゾモゾ動きながら、小声で何か言っている。


『やばい、やばい、やばい。バレそうや、っていうかもうバレた』


 もしかして、どこぞの男が尾けていたのは俺なのではないか?あの時食堂で見た緑の人間のように……。


『あの……、もしかして俺を……』


 いざ問い詰めようとしたその時、男は蜘蛛が逃げるかのような素早さで図書館の出口へと走っていった。


 気持ち悪い!と思いながら俺はその変態本棚男を追いかける。


『待て!なんやねんお前!俺の事、監視しとったんか!?』


 俺の走りながらの絶叫は、周りからの注目を集めた。“なにあれ?”、“どうした、何事や?”という声を躱しながら走る本棚を追う。


 これまた何者かに激写されたら、ついに俺は研究室から追放されるのだろうなと思いながら、足の動きは速まるばかり。もう誰も俺を止められない。本棚ハンターとして俺はあいつを仕留めるのだ。


『うわぁっ!!!』


 恐ろしい断末魔と共に、段差で躓いて倒れ込む本棚男。俺は男が逃げないように取り押さえた。


『はぁ……、もう逃がさんぞ。お前は誰や?なんで俺を尾けてる?』


『うぅ……』


 何を聞いてもうめき声ばかりの彼。少しイラつきながらも、俺はしっかりとその男を離すことはなかった。


 これ以上進展が望めそうにない中、突然前方から一人の男が駆け寄って来るのが見えた。


 あれ?あの男って……。


『どうした!?大丈夫か?』


 そう言いながらこちらに向かって来る男に対して本棚男がぼそりと呟いた。


『助けに来てくれてありがとう、兄さん』


 しかし、彼らが兄弟であるかどうかなど、俺はどうでもよかった。それよりも衝撃的な現実が目の前にあったからだ。


 駆け寄って来た男。久しぶりに見たその姿。


 かつて図書館に入り浸っていた、ボイジャー2号の姿を見たのである。



 


 






 



 

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