25.最後の事件 




 五回生。

 なんともおぞましき響き。


 今までに、一体何人もの人がここへ到達したのだろう?


 限られたごく少数の人々にしか与えられない不名誉な称号。大学生という名詞の前に付く、日本語初の冠詞として認定されれば、恥ずかしくはなくなるのだろうか?


 そんな虚しい現実逃避も悲しさを誘うばかりで、結局は留年ゾンビの刻印を引っ提げて大学生活を地道に生きていくしかないのである。


 俺は大学地獄の底から這い上がり、今まさに出口の光を見ているのだ。必ず五回生でゴールしなければならない。


 そんな気持ちで迎えた新年度。登校初日の清々しい気持ちは、今までになかった感覚。大学へ行く事に抵抗感が無くなっているというのは、五年目にしてようやく基礎的な事が克服できた証拠である。


 講義棟の前に立ち、全身を使って深呼吸する。

 

 春の陽気と鳥のさえずりが俺を優しく包んでくれた。まるで春休み中ずっと、大学が俺の事を待ってくれていたかのように感じたのは気のせいであろうか?


 そんな気持ちの良い考えを胸に大学内を散歩していると、慣れていない様子の学生集団がちらほらと見える。


 彼らは華の大学生活を夢見て、キレッキレのオシャレコーデでやってきた一回生達である。


『頑張れよ、君たち』


 誰に聞こえるでもなく、その言葉はふわりと空を舞った。彼らには最高の学生生活を送ってほしいと心から願う。


          ○

 

 講義棟の中を歩いたり、授業に参加したりすると、突然思う事がある。実際に五回生になると、改めて留年してはいけないという当たり前の事を痛感するのだ。先程もそうだったが講義棟ですれ違う学生は東さん等の例外を除き、ほぼ後輩達である。そして同級生の姿は、そこにはない。


 食堂でカレーを食べていても、図書館で何時間もの間ダラダラしていても、周りには後輩ばかりでちょっと寂しい気分になる。これは一つの教訓であり、また大学の真理として“留年してはいけない”という事を語り継いでいかなければならないなと思った。


          ○


『よしっ!今日からは実験の作業も君達にやっていってもらおうかな』


 黒岩先生のその言葉は、研究好きの真面目学生からすれば、全力疾走前のファンファーレのように聞こえたのかもしれない。しかし俺のような不良学生達は、シェイクスピアの四大悲劇を目の前にしたかのような気分へと誘われる。


 これから始まる、研究室での苦悶に満ちた生活を想像しながら、後藤と二人でお互いを励ましあった。


『なんとか頑張ろな』


『竹刀だけは気をつけよな』


 苦しさは勿論ある。忙しいし、日々頭を悩ませて大変ではあるが、不思議と大学生活は充実し始めていた。


『あぁ、これが大学生なんや』


 言わば、ようやく立派な大学生の一人になりつつあったのである。


 いや、結果を踏まえて正確に言おう。


 なれそうだったのである。

 なれそうだったのに、なれなかったのである。


 とある二人の出現により、またまた俺はおかしな世界へと引きずり込まれていくのであった……。

 

          ○


『ようやく名前も分かったで。メンタル弱男っていう人や』


『お前の情報網は恐ろしいな』


『つまらん事ばっかり首突っ込んできた甲斐があったよ』


『それで?もうそろそろ俺らも限界や。行ってええんちゃうか?とりあえずメンタル弱男がどんな奴か観察してみてもええと思う』


『あぁ、そうやな。俺らの作品のために』


『最初はこんなんしてもええのか迷ったけどええ人がせっかく見つかったんやから。こんな偶然滅多にないんやから、やらなしゃあない……』


『それに黒岩先生っていうのも、何か縁を感じるしなぁ』


『そうやな。懐かしい……』


          ○


 “昼休みはカレーライス”が俺の日課だが、中野さんはケーキをよく食べる。


『甘いの食べるとすごい幸せなんよね』


 俺は笑顔の中にとろける彼女の幸福を共有して、不意に涙を流した。


『ど、どうしたの?大丈夫?』


『……う、うん。大丈夫。俺ってなんて幸せ者なんやと思って』


 日常に紛れる些細な幸せ。彼女と付き合うようになってから、たくさん享受してきた。俺が今まで敬遠してきた世界には、数多くの感情に触れるきっかけが転がっているような気がする。


 だが、この幸せに溺れゆく俺の姿は、なかなか恥ずかしい黒歴史なので、本人も大いに反省している。なんとか大目に見ていただけたら幸いである。


 中野さんと俺の他愛もない会話。周りからも楽しそうな話し声が聞こえる。食堂の外を見れば、日の当たる小さな池と、木漏れ日を作る木々。木の枝にできた日陰と日向を行き来する、雀の談笑しているような動き。その下では緑色の……。


 ん?緑色のあれは…………人?


 木の下の草の茂みの中で隠れるかのようにかがんでいる、人間らしき姿があった。


 服は緑。

 髪の毛も緑。

 手も足も顔も緑。


 目のところだけが、ぱっちりと黒く光っている。


 うん。やっぱり人や……。

 何やら保護色を狙っているようだが、いかにも“緑色の人”という印象しか残らない見た目だった。その緑も、植物の葉緑体のクロロフィル由来でない事は明白だ。詳しい事は分からないが、鮮やかさが全く違う気がする。

 

 そして一番怖かったのは、その緑の人物としっかり目が合ったという事だった。明らかにこちらの様子を伺っているように思える。


『めっちゃ気になる……』


『大丈夫?どうかした?』


 心の声が漏れてしまっていたようだ。しょうもない事で中野さんに心配をかけたくなかったので、この植物の緑色になり損ねた人物については触れずにおいた。


 そしてもう一度、木の下に目をやったが、奴は既にその場所を去っていた。


 なんやったんやろ?気持ち悪いなぁ。


 その時は、その程度にしか思っていなかったのである。


          ○


『どう?収穫はあった?』


『まあまあかな。昼休みはカレーライスばかり食べてるって事とか、彼女が可愛いって事とか……』


『おいおい、そんなんええねん!肝心の図書館ではどうやった?』


『まだ図書館では尾行できてない。なかなかスーツ作るの手間取っててさ』


『そうかぁ。まぁ一番ハードル高いのは分かるけど……』


『そっちはどう?あんまり上手くいってへん?』


『そうやなぁ。もう俺は枯渇した。いや、ちゃんとやってるけどね。やってはいるんやけどさ……。でも、もう厳しいなぁ』


『分かった。俺も急いでなんとかするわ、兄さん』


『ありがとう。でも、無理はせんとってや』


『分かってるって』


          ○


 食堂での一件から、俺は周りの様子に敏感になった。


 誰かが見ているんじゃないか?という思考に囚われて、いつもビクビクしてしまう。


 しかし思えば俺は今まで、他人のことを尾行したり、監視したりと、同じような事を何度もやってきたのである。


 まさに今、何処ぞの誰かがハンムラビ法典に則して、俺に罰を与えているのではないだろうか?


 そんな恐ろしい気分で、自分の行いに対して懺悔をしつつ、周りにアンテナを張って自衛を始めたのであった。しかし、何も分からないまま日々が過ぎていく。


『最近誰かに尾けられてる気がすんねんなぁ……』


『俺も前は尾けてた側やから何とも言えへんわ』


 後藤に相談し、“俺は尾行しやすい?”と聞くと、“めちゃくちゃしやすい”と言われた。


 どうしようか?と悩んだまま、季節は夏へと突入し、前期もそろそろ終わりかという頃、物語は突然動き始めたのである。


 俺にとって、大学生活最後の事件といえる出会いを果たしたのであった。


 俺の大好きな図書館で……。

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