第三章
24.出席できない卒業式
幸せな時間というのは、一日一日という小さな単位で見てみると、あっという間に過ぎていく。
しかし、数ヶ月というマクロ的な視点で見れば、いかに自分が濃密な人生を過ごしてきたかが分かるほど、沢山の経験と感情が入り混じっている事に気づく。
俺は中野さんとの(友達としての)付き合いを始めてから、その不思議な現象の中で生活してきた。
そう、あの中庭での一件から俺達は新しい人生を歩み始めたのである。
○
第三章の始まりをここまで記した俺は、雲一つない空を仰ぎ、その眩い青さに溶け込むように手を止めた。
小説を夢中になって書いていると、(読んでいる時も同じ事が言えるが)目の前にあるはずの現実が、ふと作り物のように思えてならない。物語の中にある世界観であったり、心の拠り所にしていた登場人物のことが自分にとっての全てであるような錯覚を起こしてしまうのだ。
ふぅ、と一息ついて腕を伸ばし、頭をスッキリさせるためにコーヒーを飲んだ。窓の外では車の音に混じりながら鳥の歌うような鳴き声が聞こえる。
ゆっくりと椅子から立ち上がり、知らぬ間にくたびれていた身体をベッドへと沈み込ませる。
仰向け。ぼうっとした瞳。
何もない天井で、また登場人物達が動き始めた。
『弱男ー!そろそろ散歩行こうよー!』
明るい声が隣の部屋から聞こえてきた。いつになってもこの声は心安らぐ。
『はーい』
そう答えながら支度をして、俺は無心に動き続ける登場人物達に小さく手を振り、部屋を後にした。
○
中野さんとの思い出はたくさんあって語り尽くせない。もう全て言ってしまうが、彼女と俺は友達としての付き合いから発展して、恋人としての道を歩み始めた。
友達としての付き合いは期間で言うと約3ヶ月。恐らく告白の難易度としてはとてもイージーな状況だったのであろうが、四回生の授業も終わり、桜のつぼみが膨らみ始めた春休み中盤ごろに、思い切って自分の想いを伝えた。
場所は生駒山上遊園地。近鉄電車から見える生駒山のてっぺんにあるあの遊園地。いつも電車の窓から指を咥えて眺めていたのだ。いつか彼女ができたら一緒に行きたい!と、煮えたぎるような熱い思いを胸に抱き、咥えた指には大きな歯形がついたこともあった。
『これからは恋人としてお付き合いしたいです!』
『これからもよろしくお願いします』
告白はロマンティックではなく、ありきたりでシンプルな言葉だったが、あまりの幸せに、浮かれた俺の心は大阪の街を飛び、遠くに霞んで見える神戸や明石海峡大橋の方までフワフワと流されてしまった。かの有名なライト兄弟さえも嫉妬する程の飛行っぷりであっただろう。
そんなお花畑のような人生は、本来俺が忌み嫌うべきものとして位置付けてきたにも関わらず、いざ自分がその主役に躍り出た途端、何の恥ずかしげもなく幸せを謳歌する。そして、この生き方こそが正解なんだと言わんばかりの顔をする。
幸せを手にできない事を、あたかも自分が選択した道であるかのように振る舞い、見えない敵に対して尖っていたあの頃は一体どこへ行ってしまったのか?手のひらを簡単に返すこの横暴さは、日本史の歴代裏切り者ランキングで明智光秀と争うくらいの大問題と言えよう。
さて、この物語の主題は決してヒロインとの熱い恋物語ではないので、クリスマスやバレンタイン、ホワイトデー等々、小さなアップダウンと紆余曲折を経た中野さんとのラブストーリーは、我の秘伝書たる日記ノートに託しておこう。(とは言うものの、肉まんにつけるカラシ程度には存在感を示すかもしれないので、目を瞑って頂ければと祈るばかりでございます)
さてさて話が逸れたが、『大学地獄』こそ触れなければならないメインテーマである!
まずはその中心に居座る、“研究室”についてどうなったのかを記す。
相変わらず黒岩先生に関しては、コーホーコーホーと音を立てながら、精神的スパルタ教育を断行してきた。俺が静かな断末魔とも言える欠伸をしてしまった時などは、先生の華麗なる竹刀捌きにより、俺の肩はパシッと気持ちのいい音を響かせたものだ。
そして隣で切磋琢磨する後藤。
あの中庭での一件があって、俺達の関係性はどうなってしまうんだろう?と心配していたが、むしろ彼とは仲良くなれた気がする。
彼は中野さんと俺の関係を応援してくれた。そして彼は気持ちの良い程素直な青年であり、話し合ったりすれば時にぶつかる事もあるが、その分さらにお互いを理解する事ができた。よく一緒にご飯に行く仲になれたのである。
一方、俺が火種をまいた花火事件はというと、あの中庭でのライブ配信の影響もあってか、暫くは噂が広がってしまった。
声をかけられたり、データとなって回ってしまった記事の写真と見比べられたり。明らかに以前よりも花火男としての知名度が上がっている事は否めない。
しかし、幸せというのは恐ろしいもので、今まで困難に思えたものが、驚くほど何も感じなくなってしまうくらいに影響力がある。何の根拠もないし、事態は悪化していくばかりだったが、不思議とあたたかな安心感がそれらの影を照らしてくれた。
本当は麻痺しているだけなのかもしれない。でも、気にしても仕方がない事をくよくよとこねくり回すよりかは良いのではないかと思えるようになった。
そしてその態度が良かったのであろう。3ヶ月もすればそんな噂は綺麗さっぱりどこかへ消えてしまった。大学生は新たな情報を仕入れるのが早い生態的特性を持っている。さすが若者だなぁと呟いて、学生生活を俯瞰的に見ている俺は随分と心が老いたな、と寂しく涙を流したのは内緒である。
あとは……。何かこの3ヶ月で特記すべき事はあっただろうか?
……そうだ。かなり余談ではあるが、圭介について触れておこう。
彼は中庭事件の際、俺のセコンドとして後藤との戦いをずっと見張ってくれていた。俺は彼を見失ってしまっていたが、それもそのはず、怪しくないようにライブステージの袖に隠れていたのだという。しかしそこで、思いもよらない事態が起こった。
『あのー。次はギターとベースをこんな感じでお願いしたいんすけど……』
『へ?』
彼が渡されたのは、何を意味してるのか分からない紙切れ一枚。
『PA担当の方ですよね?坂東さんトイレ行くって言ってからなかなか帰ってこないんで、よろしくお願いしますね』
『え、ちょ、ちょっと……』
『あー。もう前のバンド終わっちゃう。準備してくるんでよろしく頼みます!』
『は、はい……』
なぜ頷いてしまったのか。自分でもよく分からなかったというが、どうなのだろう?なぜなら、圭介はそこで新たな世界への扉を開いてしまったのだから。
『な、なんか分からんけど、めっちゃ楽しいぞ!!』
神が彼に与えた才能か、初見とは思えないほどのミックス。紙に書かれた注意書きも、ツマミがどう作用するのかも分からないまま感覚を頼りにミックスしていく。
彼は本来の役割をすっかり忘れて、PAとしてライブを盛り上げていたのである。
そしてその後は眠っていた才能が目覚めたように夢中になりすぎるあまり、サークルへの加入も果たしたそうだ……。
まぁ、そんなこんなで諸問題は解決へと向かっていったのである。あとは研究室のゼミを乗り切るだけだ!と大学地獄のゴールが見えてきたところで、駆け足で進んできた幸せ編の最終項目に突入しようと思う。
ここだけはしっかりと記憶に刻まなければならない。四回生にとってのビッグイベントを忘れてはならないからだ。
そのイベントとは、卒業式である。
我が同級生達の旅立ちの日。
ゾンビと化した留年学生が毎年、乗り遅れた船を桟橋から見送るような眼差しで見つめる卒業式には、もちろん参加こそしなかったが、親しい人達の門出を祝うために会場へと向かった。
百香さんや川本の笑顔はとても美しかった。二人はお互い別の大学院へ行く。まだまだ研究の道を極めていくのであろう。卒業は終わりではなく始まりなのだと思えるようなギラギラした目。あまりに眩しく、俺も気を引き締めなければいけないなと思った。
『……ありがとうな、メンタル』
そろそろお別れかという頃、涙を流しながら川本が声をかけてきた。
『こちらこそありがとう。まだお互い関西なんやから、いつでも話そうや!』
『うぅ……おうぅ!』
涙を拭ったその顔は、何よりも輝いていた。
『写真撮ろうぜ!みんなでさ!』
その時に撮った写真は、今でも机に飾ってある。明るい表情をそのまま残した最高の一枚。時間が経っても色褪せる事なく、俺の背中を押し続けている。
そして卒業式には東さんの姿もあった。彼は八回生にして、滑り込みセーフの逆転サヨナラを決めて、貫禄のある立派な姿をしていた。彼は名も知らぬ同級生や後輩が乗る船の出発を、四隻も見届けてきたのである。やはり比類なき猛者。俺の道を照らしてくれた大きな存在だ。
『東さん。ありがとうございました。一緒に過ごせて楽しかったです!』
『俺もや。次は君の番やで!大学にしがみつくんじゃないで!絶対来年で決めてこい!って偉そうな事言われへんけどさ』
そう言って、笑いながら手を振り去っていく。ようやく大学から旅立つ彼の背中には、勝利の二文字が刻まれているように見えた。
ああ、来年には俺もこの地に立つ!!
そして、大学地獄からの完全なる脱却とともに勝利の旗を掲げて地元を凱旋するのだ!
実際に卒業していく学生を見て刺激されたのは非常に良かったと思う。
新たな決意とともに、俺の五回生が幕を開けたのである!
……ただ一つ、気付かぬうちに厄介な問題を抱えながら……。
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