23.バラ色



『こんにちは……』


 中野さんの声は、バンドの音にかき消される事なく、しっかりと聞こえた。それが何かの合図のように思えた。


『研究の話してたんですか?』


 おそらく目線からして、俺に対しての言葉だったのだろうが、後藤が勢いよく立ち上がり、すかさず答える。


『いや、違うよ。大事な話や』


『何それ?』


『中野さんにも関係ある事やねん』


『私に?』


 訳の分からないまま立ち尽くす中野さんを見て、黙ったまま頷く後藤。そしてチラッと俺に目をやる。


 後藤と俺の問題はまだ何も解決していない。しかし、それとは別にやらなければならない事がある。俺は彼女に向けて、ゆっくりと口を開いた。


『中野さん……。あの学内誌のことやねんけど……中野さんの記事もあったって聞いて』


 そう言いながら深く頭を下げた。


『本当にごめんなさい』


 その瞬間、バンドの音も人声も風の音も聞こえなくなるほど、俺の世界は半径1メートル以内に収束した。1秒1秒がゆっくりと脈を打つ。目の前の中野さんの言葉をただただ待っていた。


 冷たい空気と、暖かい日差しが絶妙に絡まり合い、心の中にじっとりとした汗をかいているような気分。


『あの……』


 慎重に口を開いた中野さん。


『あまり気にしないでください。記事はいつでも書けるんですから』


 その声に俺の心はどれほど救われただろう?俺はゆっくりと彼女の方へ顔を向けた。


『メンタルさん。私は全然大丈夫ですから。それよりも、犯人見つけないと』


 中野さん!!犯人ここにいます!!


 俺は心の内で絶叫した。その時の俺の顔を想像して頂きたい。おそらく僅か2秒の間に十数種類もの表情が生まれたかと思うほどに様々な感情が入り混じり、どうして良いか分からなかった。


 後藤!!どうすんねん、この状況!!


 俺が一人で忙しく変人二十面相を披露していたのに対し、後藤はやけに落ち着いている。


 深い深呼吸一つ。彼はじっと中庭の木を見つめて気持ちを集中させてから、中野さんの方に向き直った。


 彼の目がピシッと開いているのを見て、なぜか胸騒ぎがした。


 おい、後藤?どうした?怖いで、なんか。


『あのな……、中野さん……』


 時が止まってしまうかのように、全てがスローモーションのように見える。


『メンタルさんの記事をばら撒いたのは僕やねん』


『えっ!どういう………』


 あれ?言っちゃうんや……。


 完全に言葉を失う中野さんと、突然の展開に置いてけぼりの俺は、後藤の顔をまじまじと見つめるしかなかった。


『だから探す必要なんかない、僕が犯人や。でも、ちゃんと理由がある。僕のエゴも含めてそれを聞いて欲しい』


 軽音サークルのライブは演奏をやめてMCをやっている。あのサクラの観客達の効果か、大きな笑い声がどっと響く。それは俺たちの間にある張り詰めた空気を一層浮き彫りにした。


『許せなかったんや。中野さんが記事頑張って書いてんのは見てて知ってたから。授業の合間にずっと内容を考えてたし、嬉しそうに“大きい記事になる”って言ってたし。やからこそ回収に追い込んだこの人が許せへんかった』


 後藤は俺を見た。目線は鋭く俺の心を刺す。


『でも正直に言う。僕はその前からメンタルさんの事を好きじゃなかった。僕がその気持ちになったのは、ずっと自分が辛い思いをしてきたからや。それは単なるエゴやとは分かってる。やからこそここでハッキリさせようと思う』


『何を?』


 遠回しな言い方に、中野さんは少し混乱している。しかし、俺は“ハッキリ”という単語から、彼が大きな決断をしたのだと悟った。


『もう全て分かってる。でもこれだけは言わせて欲しいねん……』


『だから、何を?』


 中野さんの訝しむような表情を吹き飛ばすかのように後藤は前方にすっと手を差し出して言った。


『僕は中野さんの事が好きです。僕と付き合ってください!』


 あまりの声の大きさに、周りの人はおろかバンドメンバーさえも振り向いた。


 息を呑むような空間の中、差し出された手をまじまじと見つめる中野さん。


 ドラマを見ているような気分になった俺はハラハラして胸が痛い。自分がどれほどチキンか分かる。


 短い時間だったのだろうが、緊張感のせいで終わりが来ないように思えた。いや、そう祈っていたのかもしれない。


 そして、とうとう彼女はゆっくりと頭を下げた。


『後藤君、ごめんなさい』


 後藤はゆっくりと顔を上げて、自然に笑ってみせた。


『そっか。ありがとう』


 すると突然、中野さんが手で顔を覆った。何をしてるのだろう?と思ったが、その僅かに空いた隙間から確かに見えた。彼女の目から溢れる大粒の涙を。


『だ、大丈夫?』


 聞いていいものか少し迷ったものの、咄嗟に声をかけた。


 中野さんは鼻を小刻みにすすりながら、手で覆われていた顔をあらわにした。


『……わたし、私は……』


 少し赤く腫れた目。そこから一筋の煌めきをもって流れ落ちる涙。泣くという事がこんなにも綺麗なものなのだと初めて思った。


 言葉を詰まらせて下を向き、涙を拭う。そして彼女は去ってしまった。周りの皆は呆気に取られて、階段をすたすた上がる彼女の後ろ姿をぼうっと眺めていた。


『おいっ!!今の見てまだ分からんか!!』


 急に頭が揺れる。後藤がものすごい剣幕で胸ぐらを掴んできたのだ。


『お前さぁ!どんだけアホやねん!』


 彼の言葉遣いすら変わってしまった。


 今となって分かる。この当時の俺は、想像する力の欠如から、他人の気持ちを考える事が苦手だったのだと。


『なんの事?』


『はぁ?!本気で言ってんの?』


『……うん』


『気づけよ!中野さんはお前の事が好きやねん!ずっと前から!』


 えっ???

 俺は一瞬頭が真っ白になった。


『二年前くらいかな、バイト先に好きな人できたって言ってた。同じ学科の先輩やのに喋りかけるのが恥ずかしくて、なかなか仲良くなれないって言ってた』


 俺は今までのバイト中の記憶を辿った。怖い顔の中野さんばかりが頭を埋め尽くすけどホンマなんか?


『僕は正直悔しかった。僕はめちゃくちゃ彼女の事が好きやったから。そんな奴よりも僕のことを見てって思った。でもどこかで彼女を応援してる自分もいた』


 彼の心が静かに熱くなっていくのが見て取れる。


『やから僕は君を調べた。自分の気持ちは整理できてへんままやったけど、君がどんな人で何をしてるのか、知りたいと思った。でもそれを調べていくうちに、バイト中の彼女が君に惚れてるんやと明らかに分かった』


 俺は本当に何も気づかなかった。


『なぁ!このままでええんか?ここまで言ったら、あの涙が意味するものは分かるやろ?ええんかこれで?』


 俺は、処理が追いつかずに溢れるばかりの感情の中で吐き気を覚えながらも、どこか幸せの予感からくる焦燥感のようなものに体が支配されつつあった。


『ええ訳ないやろ!』


 こうなった時の俺は本当に恐ろしい。誰も止めることはできない。


 中野さんと話がしたい!!!


 しかし、中野さんはもう遠くまで行ってしまっている。これじゃ、声が届かないぞ!


 走って追いかけたら良かったのだと思う。しかし一旦冷静さを欠けば、奇抜な行動を取ってしまいがちな俺。この時もそうだった。


 俺は周りを見て、目を光らせて、全く逆の方向へ駆け出した。


 ひょいっと飛び乗るようにライブステージに立ち、『ちょっと借りていい?』とマイクを握った。


『あ、あ、あ……音が小さい!』


 PAブースを見ると、今までどこに行ってたのか、圭介の姿があった。なんでそんなとこおんねん!と思ったが、まぁええわ!


『圭介!そこにおるならマイク1の音量上げてくれ!!』


 何事かと驚きながら、圭介がグッと音量を上げてくれた。


 よっしゃぁぁぁ!!


『中野さーーーん!待ってくれえええ!』


 遠くで立ち止まる中野さん。


『俺!!今からそっちに行くから!!話したいことあるから!!』


 今更ながら、なんで俺は叫んだのだろう?とりあえず走って追いかければ良かっただけなのに、なんでステージで叫んだのか分からない。俺のその発想はどこから湧いて出たのか甚だ疑問である。


 しかし、立ち止まってくれた中野さんを見て、とりあえずは成功だった。


 俺は中野さんのもとへ駆けて行った。


『中野さん。俺さ………』


 やっば!来たのはいいものの、何を言うか全く考えていなかった。でも、だからこそ飾らない本当の気持ちが言えたのだと思う。


『俺、中野さんの気持ち知らなかった。素直にとても嬉しい。ありがとう』


『全部聞いたんですね?』


『うん……。それで、俺さ、こういうの慣れてないから、なんて言えばいいのか分からへんくて……。偉そうやと思ったらごめん』


『はい』


『中野さんの事をもっと知りたいです。ずっと今まで勝手に壁を感じてたから。やからまずはお友達としてお付き合いしてくれませんか?』


 石橋を叩いて渡るメンタル弱男。しかし、彼女の思いに対して、いい加減に応えたくはなかった。真剣に向き合いたかったのだ。


『こちらこそ、お願いします』


 彼女の頬の燃えるような赤さよ!そして自分の顔も熱くなっている。おそらく同じように真っ赤になっているのだろう。


 俺の目の前に広がり始めた素晴らしきこの世界!!


 また新たに展開される俺の人生は、中野さんというキーパーソンによって、大きな幸せを見させてくれるのであった。


          ○


『ちょっとちょっと!そこのPAブースにおる人!マイク1の音量うるさいってこれ!ちょっと下げて!』


 圭介は慌てて音量を下げる。


『あ、あーー。よしっオッケー。ありがとう!』


 バンドのフロントマンが、改めてMCを始めた。


『えー皆さん!なんかドラマのワンシーンみたいでしたが、なかなかロマンティックでしたねぇ!あっ、でも今のところ配信されちゃってんじゃない?大丈夫?…………あ、やっぱりされてるんやね。まぁ皆さん、あれは素晴らしい日常の一部だと思って下さい!ここからは頭切り替えてよー!いよいよトリのバンドが非日常ロックサウンドを響かせていきますんでヨロシク!!』


 会場はまたいつもの昼休みの光景へと戻っていった。


          ○


『さっきの声!!あいつで間違いない!!』


『そうやな。ライブ配信見とってこんな収穫があるとは……。あいつは確か、屋上で花火上げてたやつや。そやから黒岩先生の研究室かな?』


『黒岩先生かぁ。懐かしい。もう行くか?』


『いや、もうちょっと後にしよう。俺らも今が踏ん張りどころやねんから、集中せなあかんやろ?』


『そうやな……』



        最終章へ続く

 

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