22.ブルース、カントリー




 中野さん……。


 彼女の横顔に陽が当たる。そしてうっすらと光る景色の中で、あまり見ることができない貴重な笑顔を浮かべている。ただ、それはライブを楽しんでいるというよりも、友達と喋るのに夢中になっているといった感じがした。


 中野さんに何か手がかりがあるのだろうか?


 もう少し後藤を問い詰めなければならないのかもしれない。


『あのさ……、おーい』


『……んっ?あ、ごめん、ごめん。なんか言った?』


 完全に別の世界へと飛んでいた後藤。じっくりと考え込んでいたような表情だった。


『後藤ってさ、中野さんと仲良いの?』


『いや、まぁ……それなりに……』


『俺、バイト先が一緒やったんよ。同じ大学の同じ学科やったなんて全く知らんかって、最近めっちゃびっくりしたわ』


『へぇ……』


 こちらに視線を向けながらも、意識は完全に中野さんへと注がれている。


 そういえばコイツは、俺のバイト先がCD屋だって知ってたなぁ。もしかして……。


『中野さんと俺がバイト先一緒なの知ってた?』


『えぇと……その……』


 明らかに動揺する後藤。どうしてん突然?


『……知ってたよ』


 この反応、どうだろう?

 ひょっとすると俺が首を突っ込もうとしているのは、非常にややこしい問題だらけの秘境なのかもしれないが、その少し先に真実があるような気がする。


 冷静に考えろ。

 後藤が俺を尾けるように、電車内でジロジロと見ていたのは、俺が花火を打ち上げるよりも前だ。つまり肝心なのは……。


『俺の事が憎くなったのは、いつや?あの学内誌の時?』


 彼は少し目を泳がせて逡巡している。一体何を?


『…………』


 黙っている彼をじっと待つしかなかった。彼が“俺の事を憎い”と思い始めた時期が分かれば芋づる式に全てが解けていきそうな気がするのだ。


『僕は今、君の事が憎いと言った。そしていつからか憎くなったのだと言った。でも実際のところ、最初から君の事はよく思ってなかったんや。大前提はそこにある』


 彼の言葉を一つずつ頭に入れていく。それはまるで、彼の目を通して俺の欠点を探すかのような気分の悪いものだった。それでも漏れのないように耳をそばだてる。


『それは単なる自分の我儘によるものやったから、正当性を欲してたんかもしれへん。僕の一方的な意見にならないようにね。そこに丁度君の失態があった。こんな絶妙なタイミングで驚いたよ!しかも与えられた条件は完璧やったんや!神様は僕の味方をしてくれたんやと直感的に思ったね』


 彼の目が、日の光のような強い色を帯びはじめている。俺は分かりにくい彼の表現をなるべく理解できるように咀嚼していた。


『でもな、思えば“条件が完璧やった”なんていう発想をした事。それについては、罪悪感の中でもがき苦しんでる。でも行動するしかなかったんや』


 行動。それは何のために?いや……。


『誰のために?』


『それはもう答えやろ?』


 まだ頭の中で上手く整理できていないものの、この問題の根幹を垣間見る事ができた。


 そう、ずっと後藤は彼女のために動いていたのかもしれない。そんな気がした。


『中野さんか……』


『そういう事や』


 ゆっくり頷く後藤の向こうで、まだライブを見ながら立っている中野さんを見た。


 中野さん……。


 後藤の先程の怪しい態度から中野さんであると推測できたものの、彼女がどう関わっているのか?


 そして俺には何の関係がある?中野さんが関わっているという事と、後藤が俺の事をよく思っていないという事はどう繋がっているんだろう?学内誌に関しては、中野さんが所属していたサークルでの事件だったが……。


 そんな事を考えていると、不意に後藤がボソボソと喋り始めた。


『僕は彼女の事が好きなんだ』


『…………そうか』


 俺はなんと返せばいいのか正直分からなかった。先ほど見た彼の動揺の仕方からなんとなく分かっていたからだ。


 しかし、それが一体この事件にどう関係しているのか、さっぱり分からなかった。


『じゃあさっき言ってたように、俺の失態こそが後藤の正当性を生み出したって事やな?つまりその時こそ、俺を真正面から憎む事ができるようになったターニングポイントやという訳やな?』


『そうや』


 よし。時系列は分かってきた。学内誌が発行される前と後では、彼の行動が違うのも頷ける。電車での行動はまるで俺を調査しているかのようであった一方、記事ばら撒き事件では悪質極まりない攻撃とも思える行動を彼は取っている。


 ここまで来れば、あとは一つだけ確認したい事がある。それを聞けばこの男が俺を憎んだ理由が分かると思う。


『最後に聞いていいか?』


『どうぞ』


 いつの間にか軽音サークルのステージ上は別のバンドに変わっていた。大きな音でしびれさせるようなロックではなくなり、ブルースやカントリーなどを基調とした、人を気持ち良く酔わせるサウンドが耳に入る。


 俺は少しだけ間をあけて後藤に問うた。


『回収されてしまった学内誌。もしかして中野さんも記事書いてたんか?』


『……そうやで』


 後藤は重い声を俺に向けた。


『あの学内誌にあったんや。君のせいで消えてしまった、彼女の幻の記事が』


 とても悲しいギターの音が俺の体を撫で回す。ふと、中野さんを見た。しかし、目が合う事を恐れて、すぐに下を向いた。


『今回中野さんは今までやった事のない特大記事を任されてたんや。初めての大仕事やからって張り切って準備して、ゼミの合間縫って頑張ってたんや』

 

 学内誌が回収されても、バイトでは淡々と仕事をこなしていた中野さん。俺は何も知らなかったとはいえ、自分の事ばかりで、彼女の気持ちなんて考えた事もなかった。


 一生懸命作り上げたものが一瞬にして壊される恐怖。そしてその元凶を目の前にしても平常心でいるばかりか、俺に協力までしてくれた中野さん。彼女の心情を想像するだけで胸がチクチクと痛くなった。“学内誌、回収されて良かったぁ”なんて言ってないだろうか?彼女を追い詰めるような言動は無かっただろうか?


『僕は君を許さへん。絶対に……』


 彼はぐっと拳を握りしめた。


『中野さんや他の部員に対しても、本当に申し訳ない事をした。今まで、その考えに至らなかったのも情けない』


 しっかりと謝らなければならないと思った。


 後藤の力の入った手は怒りに震えている。しかし、その怒りはどこか揺らいでいるように見えた。


『でも、さっきも言ったように、君の失態を好機と捉えた僕も最低かもしれない……』


 ため息混じりに続けた。


『僕はもう戻れないところまで来てしまったんや』


 あれ?でも、なんで好機と捉えるんや?中野さんの事が好きなんやったらおかしいはずや。もともと俺の事が気に入らんって言ってたからか……?


 やとしたら、何が気に入らんかったんやろう?


『俺の事、もともと気に入らんって言ってのはなんでなんや?』


『それは……つまり……』


 後藤が言い淀んでいると、突然目の前を何かがよぎった。あまりにいきなりだったのでまばたきすらしなかった。カランという乾いた音と共に、後藤と俺の間に何かが落ちたのである。


 それを拾い上げると、どうやらドラムスティックのようだ。真ん中で折れたのか先っぽだけがこちらに飛んできたらしい。


 危ないやろ!と心の中で叫びながら顔を上げると、皆の視線が集まっていた。


 こ、怖い……。なんかめっちゃ怖い……。


 そんな時、周りと同じようにこちらを見ていた中野さんと目が合ったのである。


 口を少し開けて、“あっ”という顔をしている彼女に、何を思ったか俺は手を振った。怖さを吹き飛ばすように、恥ずかしいくらい大きく手を振った。


 彼女は、ぎこちなくではあるが、俺に応えるように小さく手を振る。


 あれ?なんだろう?この感覚……。

 モヤっとしながらも、どこか心地の良い感覚。心だけが先へ先へと行こうとする、高揚感に似たものを胸の奥に感じた。


 俺のそんな姿を見ていた後藤も後ろへ振り返り、中野さんへ手を振る。


 すると、彼女は分かりやすいくらいに、頭の上にクエスチョンマークを浮かべて、こちらの様子を伺った。そしてゆっくりとこちらへ向かってくる。


 すると独り言のように後藤が呟いた。俺はそれをしっかりと聞き取った。


『あぁ、これで全てが終わる……』


 彼の掠れた言葉。それが何を意味しているのか、その時の俺には全く分からなかった。






 


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