20.木の上で……
『あいつは………』
俺の目は確かにその男を捉えていた。だが頭の中で上手く理解ができない。
『メンタルさん、あいつが犯人ですかね?一人でなんかジロジロ周り見てて怪しいですけど……』
どうなんだろう?そして、あいつが犯人だとしたら俺は……。
モヤモヤした感情を押し殺し、じっと彼の様子を覗いていた。
タクラマカン砂漠のTシャツを着た彼を…。
○
後期授業が始まってから既に二ヶ月が過ぎていたが、俺は日々悪化する“記事ばら撒き事件”の犯人について、何度も何度もあれこれと考えてきた。
睨んでいたのは、やはり学内誌サークルの部長である。あの記事を書いた張本人であり教務課に回収されてしまったことに対する怨恨による犯行、というように動機もしっくりくる。
少しだけ心の距離が近づいた中野さんに、部長の事を色々聞いた。
『中野さんのサークルの部長ってさ、最近どうなん?』
前言撤回。振り向いた中野さんの顔を見て、やはりまだ中野さんと俺との間にはまだ何かしらの壁があるのだなと感じた。ちょっとだけ怖い顔だったからだ。
『部長はあの記事がボツになったことをとても悔やんでいました。あの記事の原稿を握りしめて、“くそっ!”って言いながら、部室を揺らすくらいの貧乏ゆすりをするほどに』
『そ、そんなに……?』
『はい。サークル自体にも教務課からの注意喚起があったので、部長は少し居心地悪そうにしてますね。でもあんな記事を書いたんだから仕方ないと思います』
部長はやっぱり怪しいと思った。俺に関する記事に対して、かなりの執念があるように思える。中野さんの言葉からも感じられる部長の『回収されようが、なんとしても俺の記事を広めてやろう』という記者魂。いやいやこんな時に力を発揮されても困りまっせ、部長さん……。
バイトの作業に戻ろうとする中野さんを見て、慌てて声をかけた。
『中野さん……』
俺は中庭集中管理システムの事を中野さんに言うべきかどうか迷った。それはもちろん彼女が学内誌サークルの一員だからなのだがなぜか彼女の事は信頼しようと思った。いや今でもそれはよく分からないが、俺は誰かに話したいと思ったのかもしれない。
『あの……。この頃、中庭であの記事が度々目撃されてて……。それは知ってる?』
中野さんはピクリと目を大きくして驚いているようだった。
『いいえ、知らなかったです。ただ、あの記事の事を知ってる人がやけに多くなってるような気がしてました。回収されたというのになんでかなぁ?なんて事をサークル内でも話してたんですけど……』
『実は俺と友達の二人で、その現場を監視してるんよ。まぁ記事の内容はほぼ事実なんやけど、やっぱりやり方が気に食わないというか腹が立つというか……。正々堂々と真正面から話をしようと思って……』
『私も、何か協力出来ることありますか?』
『えっ??』
予想もしていない返答に少し慌てる。先程俺と中野さんの間に壁があると言ったが、その壁は彼女の方にのみドアノブが付いており彼女の意思により開けたり閉めたりできるようだ。
『その状況から見ると部長が怪しいなと思いますね。私達のサークルから発生した問題なので、私もできるだけ注意して見ておきます。メンタルさんも何かあれば連絡ください』
そういって、ほぼ凍結しかかっていた中野さんとのメッセージ画面が少しずつ動き出したのである。
しかし俺の思惑とは反対に、得られた情報といえば、部長の容疑が晴れていくものばかり。
“部長は今日も元気なく、研究へも行かず、部室の机に突っ伏してからそのまま動きません”
“グラウンドのベンチでくつろいでいる部長でしたが何をするでもなく、じっと前を見つめたまま突然泣きはじめました”
“図書館で報道関係やマスコミに関する本を読み漁っていた部長は、困り顔で唇を突き出して、チューチューと音を立てていました”
中野さんに目撃された時間から推定して、部長はどうやらアリバイがある。それに、送られてくるメッセージの内容がどんどんと過激になっていくにつれ、俺は部長を疑うという本来の方向性から打って変わって、部長を心配するようになった。
最初に垣間見た、あの記者魂はどこへ行ってしまったんだろうか?
“部長はたぶんシロやから大丈夫。むしろ彼の方が心身ともにやばそうやから、みんなで労ってあげてー”
このメッセージを送った時、俺は何してんだ?と自分を笑った。犯人は部長ではなかった……。
またふりだしに戻る。
正直、次は何のあてもない。誰が俺の事をこんなにも恨んでいるのか……。いや、決して俺が優良学生だと言っているわけではない。
もちろん毎年一定数産生される忌まわしき留年ゾンビ達の魔術的な視覚効果(授業の欠席率や再履修率を押し上げ、後輩達に“そんなに出席しなくてもいいんだぁ。何とかなるんだぁ”という裏付けのない安心感を与える効果)に感化されて、優良学生が大学地獄へと引き摺り込まれるのは許されない事態であり、俺がその一端を担っているゾンビ学生である事は紛うことなき事実である。
だがそれに関して、俺は自ら大学と真正面に向き合い、少しずつではあるが克服しているのだ。身体に見えない傷を無数に付けて、痛みと共に這いずりながら、それでも上を目指してやってきた。俺が見えないように目を逸らしていただけで、微かな光はずっと上にあったのだ。
大学地獄との真剣勝負。絶対に卒業してやるんだ!だからこそ、こんなコソコソとしてる奴に負ける訳にはいかないのだ。
『圭介、授業は大丈夫か?』
『授業は全然大丈夫です!全部出席できてます!ただ、長時間中庭にいてるのが体力的にキツくなってきましたね……』
俺達はそろそろ限界にきていた。姿のない敵は実に恐ろしい。このまま中庭で張っていてもいいのだろうか?そんな気さえしてくる。
中庭では誰も怪しい動きはなかった。そして、あの記事も中庭でははたと見なくなってしまった。だが一度出回った写真は、こんな時代だからか収束を願うのは夢の話である。むしろどんどんと拡散していった。犯人はただ単に種まきをしたに過ぎない。
つまりは、俺達はタイミングが少し遅れていたのだろうか……。
それでも代わり映えしない中庭を延々と監視し続けた。そんな俺達の目の前に現れたのはタクラマカン男、後藤なのであった。
○
『あっ!!なんかあいつ木に登り始めましたよ!!』
慣れた手つきで軽々と木に登っていく後藤は、今までに見た事のない険しい表情をしていた。鋭い目つきは以前もあったかもしれないが、今の彼を纏うオーラはかつてない不穏な予感を抱かせた。
あいつ……あんな顔するんやな……。
『あいつは……、同じゼミの人や』
『えっ!そんな……馬鹿な……』
そのセリフは俺が言いたいくらいだ。
こんな馬鹿な事があるか?俺は毎週あの狭苦しい実験室の中で彼の隣にいたのに。
彼は木の上で見事に身を隠した。俺達三人は傍目に見れば、片や木の上、片や茂みの中と、伊賀甲賀の忍者が最盛期を迎えていた時代よりも忍んでいる。
それから何も動かないまま少し時間が経って、周りが徐々にざわつき始めた。昼休みになったのだろう。近くのベンチに人が集まり、後藤が潜んでいる木の下では多くの人が弁当を広げて談笑していた。
『人が集まるこの時間帯が一番辛いっすよねー』と、圭介が漏らす。
確かにここで見つかればアウトだ。それこそ変人という一言で片付けられればまだマシなのだと思うが、犯罪者にだってなりかねない構え方。それくらいの変態的な忍びっぷりなのだ。
そんな下らない事を考えていると、ついに決定的な瞬間を見た。
『ありゃっ!なんやこれ?なんか上から落っこちてきたで』
木の下で寝転がっていた男の頭に何かが当たった。
俺はしっかりとその軌跡を目撃した。木の上から白い何かが降ってきたのだ。
もう誰もが理解しているだろう。その落ちてきたものとは……。
『誰かが夏休みに花火打ち上げてたんやってさー。誰かこんなん知ってる?』
『え?何それ?見せて見せてー』
広まっていく俺の写真……。
そっと心配そうに俺の顔を見る圭介。
俺は目を瞑って、ゆっくりと呟いた。
『犯人は確定した。後藤だ』
○
昼休みも終わり、中庭の人影が講義棟へと向かっていく。
胃の上あたりが少し痛む。緊張しているのだ。だがここで終わらせてやる。
『いよいよ誰もいなくなりましたね。あとは降りて来るのを待つだけ……』
圭介のその言葉から一体どれほどの時間が経ったのか。待っても待っても降りて来る気配がない。
『くそっ!アイツ何してんねん!寝てるんちゃうか、木の上で!』
緊張から来る焦りか、もう俺はわざわざ隠れて待つ必要はないと思い立ち、茂みを出て木の下へと走って行った。
『ちょっ、メンタルさんっ!』
慌てて追いかけて来る圭介に構わず、このまま木に登って後藤を叩き落としてやろうと思った。しかし上を見上げた俺は、口をぽかんと開けて呆然とするほか無かったのである。
『行くなら行くって言ってくださいよぉ…』
『け、圭介………』
『どうしたんですか?』
俺は自分の目が信じられなかった。
『誰もいない………』
○
どういうトリックか?全く分からないが、そこには後藤の姿はなかった。
『メ、メンタルさん!上の枝のところに白い紙がありますよ!』
そう言って、軽快に木を登る圭介。そして白い紙を覗いた彼の顔から血の気が引くのを見た。
『どうした?何があった?』
『これ……、見てください』
そう言われて、彼から手渡された紙を見ると、俺は完全に敗北したのだと思い知らされた。その紙に書いてあったのは……
『踊らされるメンタル君。ようやく僕が誰だか分かったやろ?悔しかったらまた明日ここへ来たらいい。僕も行く』
俺は顔を紅潮させながら紙をぐしゃっと丸めた。
『待ってろよ、後藤……。直接対決や!』
そして、この大学の歴史に残るかも知れない一戦が始まろうとしていたのである……。
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