18.後期の体育
再び体育。
前期では、我が先輩“東さん”と共に何とか乗り切る事ができた。成績通知書を手に取り体育の横に合格の二文字を見た時は、あまりの嬉しさに、地元の田んぼ道を自転車で立ち漕ぎして、観客のいない凱旋パレードを実行したほどだ。
だがこれで終わりではない。入学式の時にもらった履修要項の中の卒業要件には『体育は前期後期の合計二回、履修する必要がある』と書かれているのだ。
分厚い履修要項。大学の片鱗をも知らない入学式後の初々しい学生達に、大学の全てが詰まった重たい冊子を配布して、何を感じろというのか?
『この冊子はあなた達が卒業するまでしっかりと保管してください。皆さんの学生生活を管理するのはこの履修要項です。ここにある内容全てに従ってください』
先生の高圧的な演説により、学生達の目から“大学生って幸せそうだなぁ”という羨みの色が消えていくのを見た。俺も勿論その中の一人だった。膝の上にずっしりと重い履修要項の表紙を眺めながら、頭の中でハンムラビ法典を思い描いたのは、我ながらあまり間違いではなかったな、と今となって思う。
俺はこれまで何度か、シラバスの事で熱く語ってきたと思うが、今回はそれにも増して声を大にして言いたい!!
履修要項はしっかりと読もう!!と……
順当に単位を取得していく優良学生でさえこの履修要項に関しては、思わぬ単位の取りこぼしが無いかどうかや、資格取得等の確認を行うために、何度も目を通す必要がある。卒業ギリギリになって必須科目の単位が足りない事に気づくのは、想像しただけでも背筋が凍るほど恐ろしい。
俺のように、意思に反して身体が勝手に動き、大学に深く根差そうとするゾンビ学生は尚更注意深く読まなければならない。
少し話が逸れてしまったが、俺は卒業要件を満たす為、後期の体育も受講しなければならなかった。
競技は言わずもがな“ジョギング”!!
競技選びの初回授業では山中先生めがけて一直線に走り出した。
『見て、山中先生!!単位取れた!!しかも評価高い!!』
俺はまるで、裁判所から“勝訴”と書かれた紙を持って走るように、成績表を掲げて見せた。
『知ってるよ。私が評価つけたんやから』
そらそうや、と思いながら山中先生にガッツポーズを決めて、俺は新たなジョギングの旅へと踏み出したのであった。
○
『う〜ん、俺はその記事を見た事ないからなぁ。でも誰かが嫌がらせをしてるようには思える……』
こう言いながら俺の横を走るのは、もちろん東さんだ。彼は卒業目前の最後の最後まで体育を残していた。“万が一これを落としたらどうしよう”という大事な思考回路が欠損している。それが我々留年組を特徴付ける基礎ステータスである。
『中庭で頭に投げつけられたのは正直怖かったです。誰かが俺を見張ってるんだっていう緊張感も酷くて』
『そら怖かったなぁ。でもとりあえず、大学としての処分は厳重注意で済んだわけや。良かったやんか!教授からの生活指導を受ける事になったとしても、卒業は目指せるんやから』
そう、黒岩教授による徹底指導も忘れてはいけない。俺の心の不安を織り成す、重要なファクターなのだ。
『うへー。後期始まったばっかやのに、なんでこんなに生きづらいの??』
俺は誰に言うでもなく、ため息混じりの不甲斐ない声を出した。
視線の先では、まだ暑さが残るグラウンドの端で、何人かがスケッチをしている。色が徐々に移り変わるこの季節の中で、その一瞬にこそ憂いがあるのかもしれない。
『何か、不安を吹き飛ばすきっかけが欲しいです。このままやったら心が潰れてまう』
そんなボヤきが地面に落ちかけた時、颯爽と俺たちの横を通り過ぎていく女子の姿を見た。ふわっと踊る髪と共に、リズミカルな歌が聴こえる。丸ノ内サディスティック。柔らかくて、どこか乾いているような、とても印象深い歌声だった。歌いながら走るなんて、器用な事をするなぁ。そして追い抜きざまに俺の事をチラッと見なかったか?俺が自意識過剰なだけか?
『今の何やったんやろ?ええ歌声やったなぁ』
どうやら東さんも惹かれていたみたいだ。同じジョギングの授業を受けているから、恐らく一回生だろう。一人でずんずんと走り抜いていく後ろ姿は勇ましく見えた。
ピーッ!!『はい!終わりー!』
山中先生の合図で皆がグラウンドの真ん中へと集まる。
『今日もよう走った走った!汗かくと気持ちいいな、やっぱり』
東さんが、スポーツドリンクのCMか!というくらいにゴクゴク喉を動かして水分補給する。
『とりあえず、俺もその記事見かけたら言うわ。頭に投げつけてくるあたり、かなり陰湿なやり口やから許せへんしな』
『ありがとうございます!』
とても親切な東さん。迷惑かけないようにしないと…………。ん?
あれ??東さんの後ろの方からさっきの女子がこちらへと近づいてくる。
『あの……』
俺と目を合わせて口を開いた彼女。俺は何故か嫌な予感がした。東さんも同様に、怪訝な顔をしている。
『さっきの話……、この記事ですよね?』
彼女がポケットからすっと出した紙を広げると……
『これ……、どこで?』
そこにはやはり、俺の例の写真。何回これを見なければならないのか。もう目眩がする。
『今日、中庭で拾いました。でも友達も昨日同じく中庭で拾ったみたいなんです』
『え??』東さんと俺は顔を見合わせた。友達も拾った??
『同じやつを昨日今日で拾ったから、もしかして毎日捨てられてるのかな?って。そしたらこの写真の顔がグラウンド走ってたんでビックリしました』
“顔が走る”という表現に若干の違和感を抱きながらも、少し真実に近づくような良い情報を仕入れることができたと思った。丸ノ内サディスティック女子よ。ありがとう。
場所は中庭。そこに答えがある。
『東さん……、俺……』
『うん……。中庭で待ち伏せするしかない。いけるか?犯人と対峙した時に冷静に対応できるか?』
『その時になってみないと分かりません』
俺の目は鋭く光る。この時ばかりは、犯人を見つけてやろうという思いだけが心を燃やしていた。
『誰なんや?誰なんや?誰なんや?……』
『うるさい!』
危ない独り言は山中先生さえも怒らせてしまうほどに響いていたのかもしれない。
○
『おーい!降りてこーい!』
その頃中庭では、大学職員に注意される若者がいた。
『はーい』
猿のような身のこなしで、中央にある一際大きな木からするすると降りて、汚れたお尻を手で叩いている。
『あまりにも居心地が良かったので上で寝てしまいました。すいませんでした』
『危ないから登ったらあかんよ』
『はーい』
中庭で木登りをしていても軽い注意だけで済んでしまうこの大学。花火をぶちかました俺が言うのも憚られるが、色々と心配だ。この先大学の運営については大丈夫だろうか??
そして木から降りてきたこの男の手には、やはりあの記事が握られていたのである…。
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