17.進化論



 ダーウィンは著書『種の起源』の中で、生物は自然淘汰により進化していくと説いた。


 進化論については、その後もあらゆる研究がなされており、さまざまな理論とも紐づいて、現在でも新たなる発見や考察が行われているかと思われる。


 ただ、それとは全く別のベクトルで“進化”という定義があるのではないか……。


 そこで、俺メンタル弱男は日記『不良学生の起源』の中で、教授は一本の竹刀により進化すると説いた。


 そう。たった一本の竹刀によって……。


 これは理論化する前の、サンプル観測の段階ではあるが、非常に研究価値の高い、興味深い現象であると思う。


 ただ、これは安全な場所にいる今だからこそ言える事である。その変貌した黒岩教授の眼差しはメデューサと同じ力が宿っていたのだろう、当時の俺は身動き一つできないほど硬直してしまったのだった。


          ○


 俺の目の前で竹刀を持つ黒岩教授。


 そして花火の事……。


『もう教授会でも、メンタル君の事は周知されてる。なんの人権もないフリーの学内誌に掲載されとったんが運悪かったなぁ……。まぁ、花火をあんなところでやってしまった君が諸悪の根源や』


 ぐうの音も出ない……。

 お、俺は一体どうなるんや?

 その竹刀で粉砕されてしまうのか?


『今回君に下された処分の内容は、良いか悪いか、厳重注意に留まってる。あんな危険な行動しとって、こんなに甘い判断が下るとはなぁ』


 俺は意外な言葉に少し拍子抜けしてしまった。


『君にとっては一安心かもしれへんけど、僕は担当教授として君の監督を任された。これが何を意味してるか分かるかい?』


『監督……?』


 頭の中でモクモクとイメージが広がり、俺とダースベイダーの共同生活が始まる。殺伐とした空気。緊張が走る食卓。耳をすませばいつでも流れているダースベイダーのテーマ曲。


『どれもこれも地獄だぁぁ……』


『え?なんか言った?』


 しまった。口に出てしまった。最近とてもこのミスが多い。心が荒波にさらされ、俺の内なる声は簡単にするりと溢れてしまう。


『すみません。“監督”が何を示すのか、全くもって分かりません!』


 さっきの失言を覆い隠すように、自信満々でアホな返事をした。

 

『単純な事や。君が今度なんかヘマをすれば、僕の立場も危うい。やから僕は本気で君を指導する』


 目の前に竹刀の先を向けてきた。先生、これは脅迫ではないですか……?


『生活面でも僕はうるさいで。第一、あんなふざけた事をする奴はそもそも好かん。この部屋からあの花火を見た時、この竹刀であれをやってもうた』


 そう言って竹刀を向けた先には、見るも無惨な姿のぬいぐるみ。クマなのかウサギなのか何なのか……。体と頭はもちろん、あらゆるところが斬撃を受け、もはや修復不可能なほど純白の綿を産出している。


 俺もヘマしたら、あの様な感じで分裂させられるんか、と恐々としながら飛び出た綿を見つめていると、ふとこの実験室に何故あの様なぬいぐるみがあるのかな?と思った。だが聞ける雰囲気でもなし、そして真実を知るのも怖かったので、あえて触れない事にした。


『とりあえずは大人しく研究に励んで、変な気は起こさないように生活してくれ。君はどうやら単位も危ないようやから、特にな』


『はい……』


 力なく、か細い声で返事をした。俺の処分に対してこのような結果になった事は、本来であれば感謝しなければいけないところだがあのボロボロになったぬいぐるみと鋭く光る竹刀を見ると、『怖い』という感情しか出てこなかったのだ。


 自分が引き金とはなっていたものの、この日からダースベイダーによる圧政が始まったのである……。


          ○


『ごめん、ちょっと時間かかった』


 泣きそうな顔で実験室を後にした俺は、とりあえずタクラマカン男が待つ食堂へと向かった。彼はテーブルにノートを広げて何やら絵を描いている。


『何やってんの?』


 ノートを覗き込んだ俺は、“気軽に他人の領域へと踏み込んではいけない”という事を悟った。


 彼はノートに、でかでかと砂漠の絵を描いていたのである。まるで布のような、すべすべとした砂は光が当たったように輝いている。丁寧に色鉛筆を使って空も快晴であった。俺の邪念さえ無ければ、きっとこの作品をもっと素晴らしいものだと思えたはずだ。


 いや、そう言うと自虐が過ぎているかもしれない。きっと悪いのはあのTシャツだ。あの下らないTシャツのせいなんや!


 この砂漠が何処のものなのか、聞かずとも分かってしまった俺は、知らず知らずのうちに、この男の世界に引き込まれている。それがとても残念だった。コイツは未だ一言も“タクラマカン砂漠”という単語を発していないのに。


『腹減ったぁ』


 タクラマカン男が絵を描きながら器用にフライドポテトを頬張っているのを見て、腹の虫が鳴った。食堂のレーンへ向かい、手軽に食べられるものを買いに行ったが、メニューは既に決まっていた。


 カレーは昼に食ったし、選択肢は大学芋しかないでしょう!!


 俺にとって大学のオヤツに大学芋は欠かせない。こんなに甘くて美味いオヤツはあるだろうか?

 それに、大学と名の付いた以上、大学生である俺が食わないでいられるであろうか?いや、いられないだろう。


 カレーが先発投手なら、大学芋は守護神の抑え投手といったところだろう。ちなみに中継ぎ投手は、いつもポケットに入っているフリスク。これも勿論覚えていただきたい。


 大学芋のきらきらと光る黄金色の表面に、色の締まりを少しばかり与えている黒い胡麻。何気にこの胡麻の貢献度は高く、金の座布団に居座っているにも関わらず、口の中で極度な自己主張はしない。心の清き殿様といった印象か……。


『メンタル君!どこ行くん?』


 大学芋の事を熱心に考えていると、知らぬ間に全然違う別の席へと足を運んでしまっていた。危ない危ない……。


 席に着いて、彼の絵の邪魔にならないように、そっと大学芋を置いた。しかし、その一瞬の出来事も彼は見逃さなかった。


『うわっ。大学芋やん。ここのやつ全然うまくないのに、よう買ったなぁ』


 タクラマカン男の心ない一言……。


 おい!テメェ!もう一回言ってみ!!

 俺の大学生活の中で何物にも変えられない程の魅力をもった大学芋やぞ!それを悪く言う奴は、この俺が許さん!


 このような怒りのセリフをなんとか押し殺し、彼に問うた。


『なんでそんな否定するん?めっちゃ美味いし甘いやん!ずっと食ってられるやん!』


『だって、外べとべとの中パサパサやん。この大学の食堂で、美味しくないメニュー第一位にランクインしてるで』


 コイツーーー!ありもせえへん事をペラペラとぬかしやがって!もうええわ!!


 俺は、侮辱の声を浴びせられて涙も流せぬ哀れな大学芋を無我夢中で平らげた。『あぁお前達の無念、大変美味しくいただきました』


 目の前のこの男は、そんな俺の心の会話を知る由もなく、話題を変えて聞いてきた。


『実験室で何をしてたん?』


『ちょっとね、色々あって……。お叱りを受けてた』


『ふぅ〜ん。それってさ……』


 少し間が空く。


『………花火の事かな?』


『えっ!??』


 なんでコイツも知ってんの??


『ちょっと、タクラ……、いや、ええと…』


 コイツの本名何やっけ?先生に挨拶してた時に言ってた!焦って何も出てこない……。


『僕が何で花火の事知ってるんかって?』


 それも気になんねんけど、お前の名前も知りたいんや、タクラマカンよ!


『ひっひっ……』


 奇妙な引き笑いを披露して、彼は続けた。


『僕はね、メンタル君のことをよく知ってるねん。例えばCD屋でバイトしてる事やったり、体育でマラソンしてる事やったり……』


 その後も止まる事なく、調査報告書を読み上げる探偵のように、俺の生態を暴露した。


 いやや。気持ち悪い。何で知ってんの?ほんでお前の名前は何なん?


『またいずれ分かるよ。今は真相を知る時ではないから。君と僕は研究室の戦友であり、また一方ではライバルでもあるって事かな?そういう運命なんだよ』


 俺は『そんな契りを交わした覚えはない』と心の中で強く断言し、目線を再びTシャツへとやった。


 ん?右下に小さく文字が書いてある……。


        “GOTOH”


『後藤………』


 名前書いててくれて、ありがとう。


 俺は多くの謎を残したまま、食堂の天井を見つめて『疲れたぁ』と呟いたのであった。


          ○


『まあこれから一緒に研究頑張ろう』


 食堂を出て、中庭でダラダラ話していると、やはり“なぜ俺のことを知っているのか?なぜ俺のことを電車で見ていたのか?”という事が気になって仕方がない。だが、後藤は決してそれを教えてはくれなかった。


『そろそろ帰るか』


『僕はサークルがあるから、ここでお別れやね』


 二人別れようとした時、何かが突然俺の頭に当たった。


『なんやこれ………?』


 くしゃくしゃに丸められた紙。広げてみると………。


『あっ……!誰がこんな……?』


 俺はあたりを見回した。上から放り込まれたか?


 だが、近くには誰の姿もない。


『何の紙やったん?』と聞いてくる後藤にその紙を見せた。


『あぁ、これは……また妙な物が当たったねぇ』


 そうそれは、俺の写真が載った例の学内誌の切り抜き。


 一体誰がこんなものを………?


 俺の知らないところで、何者かが陰で蠢いている。そんなおぞましさを感じずにはいられなかった……。

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